ハーメルンの笛吹き女

緋糸 椎

🤱

「陣痛、来たかも……」

 臨月に入った妻が電話口でそう伝えた。商談中だった僕は相手に事情を説明し、即座に帰宅すると妻を連れて病院へと急行した。

 到着すると小部屋に案内され、胎児心拍数のモニタリングが開始された。その間に僕は入院などの手続きを済ませた。僕らは個室を希望したが、すでに満室だった。看護師が相部屋も悪くないよ、一人だと寂しいよ、としきりにいうので、僕らは相部屋で承諾した。


 その後の診察で、子宮口の開きが数センチくらいなので、まだ時間がかかるだろうと医師に告げられた。それで一旦病室で落ち着くことにした。同室のお隣さんも、今しがた到着したばかりのようだ。夫が身の回り品を整理している。僕らは彼らに挨拶した。

「谷川です。よろしくお願いします」

 すると先方も手を止めてお辞儀をした。

三枝さえぐさです。こちらこそ、よろしくお願いします」

 そうして頭を上げた女性の顔を見て肝を潰しそうになった。

しず……!?)

 髪は短くなり、三枝の姓を名乗っているが、……間違いない、彼女は布川静ふかわしずだ。


⌛︎


 今から5年前、僕は仕事の関係でドイツのハノーファーに駐在していた。その年末に、知人の家で自家製グリューヴァインのパーティーが開かれ、僕も招待された。

 時間に律儀……というか、面倒なことが嫌いな僕は、少し早めに知人の家を訪れた。

「あら谷川さん、随分早いのね!」

「すみません、ご迷惑でなければいいのですが、……何かお手伝いしましょうか?」

「そうね、フルーツを切るの、手伝ってもらおうかしら」

 僕は上着と荷物を置くと、ホストの奥さんに案内されて台所へと入った。するとそこに若い日本人の女性がいた。彼女は僕の姿を見ると、こくっとお辞儀をした。そのしぐさに僕は息を呑んだ。


 ……かわいい。


 とびきり美人というわけではないが、笑顔の素敵な、愛らしい女性だった。

「紹介するわね。こちら、布川静ふかわしずちゃん。フルートの勉強でこちらに来てるのよ」

「はじめまして、布川です」

「谷川です、よろしくお願いします」

 それから彼女と一緒にパーティーの準備をした。素敵な女性と一緒にいるのは楽しい。あっという間に準備は終わり、パーティーの時間となった。招待客はそれぞれ好きな席につく。僕はしずの隣に座ろうとしたが、パン焼職人見習いの日本人男性が素早くそこに陣取ってしまった。

 側から見て、その男がしずに気があるのは明白だった。あんまり執拗に話しかけるので、最初は迷惑そうだったしずも、だんだん気を許して楽しそうに振る舞った。それを見た僕は大人気なく嫉妬した。

 しばらくして、カラオケ大会が始まった。どこから仕入れたのか、ちゃんとしたカラオケ設備が整っていて、日本の歌も歌うことが出来た。

 その時、しずは自分のフルートを取り出して演奏した。タイスの瞑想曲という、僕でも知っている曲だ。その音色がまるで彼女自身の人柄を表しているようで、とても素敵だった。僕はグリューヴァインの酔いも手伝って、いつまでもその余韻に酔いしれていた。

 その時、ふいに僕の携帯が鳴った。僕のアパートの隣室の住人からだった。

「もしもし?」

「あなたの上階の人がパーティーでハメを外して水道を壊してしまいましてね、水浸しなんですわ。もしかしてあなたの家にも漏れてきているかも……すぐに帰って確認したほうがいいですよ」

 それを聞いて、僕は奥さんにいとまを告げ、自宅へと急いだ。酒を飲むつもりで、車ではなく路面電車で来たのだが、本数が少なく、次の電車まで大分待たなくてはならなかった。

 そうしてもどかしい気持ちで待っていると、しずが停留所にやって来た。

「あれ、もうパーティーはいいんですか?」

「ええ。私、ハーメルンの知人宅にお邪魔しているのですが、遅くなると迷惑になってしまいます……」

 ハノーファーからハーメルンまでは電車で一時間ほどの距離。たしかに若い女性が夜遅く帰るのは危険だろう。

「いつもハーメルンからここまで通っているんですか?」

「はい。といってもまだ正式な学生ではなくて、受験準備のために音大の練習室を利用する程度なんですけど……」

「それでも毎回電車でハーメルンからなんて大変ですね……」

 と、僕はここであることを思いついた。「もしよかったら、僕が毎回車で送り迎えしましょうか?」

 するとしずはかぶりを振った。

「そんな、ご迷惑でしょうに……」

「いや、迷惑ではないんですよ。仕事が外回りなので、そのついでの時だけになりますけど……」

 それは半分本当で半分嘘だ。確かに外回りの機会は多いが、仕事をサボって女性の送り迎えなど言語道断だ。しかし僕はいつになく熱心に説き伏せたので、彼女の〝運転手〟契約が成立した。

 それから僕は週に何度か、しずの送り迎えをした。僕はバブル期の言葉で言えば〝アッシーくん〟だった。僕は日を追う毎にしずに惹かれ、そして彼女も徐々に打ち解けていった。

 ある日、僕はハーメルンの有名なレストラン「ねずみ捕りの家」でのディナーを予約し、彼女を招待した。そして、デザートを食べている時に僕は思いを告げた。

しずさん、僕はあなたのことが好きです。よかったらお付き合いして下さい」

「嬉しいです、谷川さん……」

 しずははにかんだ表情でいった。しかし……「ごめんなさい、私には大切な人がいるんです。その人は日本で私が帰るのを待っていて……」

 僕は頭の中が真っ白になった。それからのことは記憶にない。

 しばらくすると、しずはデュッセルドルフの音大に合格し、そこに行くことになった。同時に、僕も急遽日本に戻ることが決まり、それ以降互いに連絡することはなかった。

 帰国してしばらく経った後、僕は上司の紹介した女性と見合い結婚した。そうして今、このように新しい家族の誕生を待っている。


⌛︎


 妻の陣痛が酷くなった。僕は何とか妻の痛みを和らげようとするが、妻は悲鳴を上げ続ける。それがあまりに激しいので、医師は無痛分娩への切り替えを勧めた。

「このままだと分娩までに体力を使いきってしまい、難産になる恐れがあります……」

 僕らは医師の説明を聞いて無痛分娩に切り替えることにした。麻酔薬が効くと妻は何事もなかったように穏やかな顔になり、そして眠った。


 妻が寝てしまうと、病室にいるのも手持ち無沙汰なので、夫の控え室も兼ねた食堂に行ってコーヒーを飲むことにした。そこに行くと、しずの夫君である三枝氏がiPadを見ながらコーヒーを飲んでいた。僕に気がつくと、「あ、どうも」と挨拶した。僕も「どうも」と返した。

「谷川さんの奥さん、苦しそうな声を出しておられましたが、大丈夫でしたか?」

「ええ、無痛分娩に切り替えてから落ち着きましてね、今寝ているところです」

「そうですか。ウチは二人ともドイツに住んでいたんですが、あっちじゃ無痛が当たり前でしょう。だから躊躇なく無痛分娩に決めていたんですよ」

 とその時、僕は「あれ?」と思った。たしか、しずの〝大切な人〟は日本で彼女の帰りを待っていたんじゃ……。

「あの、し……奥さんとはドイツで出会われたんですか?」

「ええ。恥ずかしながら一目惚れでしてね。でも、日本に彼氏がいるって言われて参りましたよ」

 ハハハと笑う三枝氏。しかしどうやって彼はその壁を越えたのか。気になっていると、彼がこう話した。

「でも、彼女がハーメルンにいた時に、ある人に告白されたそうです。その人は彼氏より素敵な男性で、心が揺れ動いたそうです。もう一度告白してくれないかと首を長くして待ってたらしいんですが、彼からはそれっきりだったそうです。それをきっかけに彼氏への思いも冷めたらしくて……そこで『僕も君が好きだ、付き合ってほしい』というと、OKされましたよ。まあ、ハーメルンで告白した人のおかげって言うか、漁夫の利でしたね」

 その時、看護師がやって来て大声で言った。

「三枝さん、いよいよですよ!」

 三枝氏は手刀を立てて「すみません」と言って去って行った。僕はその背中に向かって「頑張って下さい!」と声をかけた。実際頑張るのはしずなのだが……。


 そしてそれから一時間後、しずは無事元気な女の子を産んだ。それに続くように妻もいきみはじめ、分娩室に入った。助産師や医師が殺気立って言葉を交わす。しかし素人には何が起こっているのかわからない。やがて、臙脂色のまるい石のようなものが現れた。息子の頭だ。その状態がしばらく続き、あるきっかけでニュルッと人の形が出て来た。わが息子の誕生の瞬間。すぐに息を始め、オギャーと泣きだした。少し落ち着いたところで助産師が新生児を僕の胸に預けた。覚束ない手つきでわが子を抱いてみる。あたたかく、そして愛おしい存在。僕の両目から涙が流れた。


 オムツ替えは妻と僕とで変わりばんこにした。僕が息子を連れてオムツ替えの部屋に行くと、先に三枝夫妻が来ていて、娘のオムツ替えに奮闘していた。

「お隣り、いいですか?」

「ええ、どうぞ」

 僕は息子を台に寝かせ、手際よくオムツを交換する。

「谷川さん、上手じゃないですか」

 三枝氏が褒めてくれた。

「いえいえ、最初は全然出来なかったんですけど、両親学級の先生が厳しくて、かなりしごかれましてね、それで少しマシになったんです」

 と、言うと、息子がピューとおしっこを僕の顔にひっかけた。それを見てしずが僅かに微笑んだ。終始知らんぷりを決め込んでいるように見えた彼女が、初めて僕の存在を認めてくれたような気がした。


 ふと台上を見ると、息子としずの娘がまるで見つめ合うように向き合っていた。

(まさか、こいつら……)

 僕たちの叶わなかった恋……この子たちにそのバトンが渡ったように思えた瞬間だった。

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