21

 やがて舟が岸へと辿り着いた。段差を攀じ登り、再び石壁に囲まれた狭い通路へと至る。先に辿ってきたものと形状は似ているが、僅かに広く、そして歩きやすい。長らく見ていなかった壁や天井の装飾も、ここに来て再び目に付くようになった。洞窟から異様な遺跡へと彷徨いこんだようだった。

「気配が濃くなってきた。もうすぐだよ。この近くにあいつがいる」

 ようやく、とも思えたし、いよいよ、という気もした。ともかくも意識は張り詰め、耳の奥がひりひりとした。今度こそ惑わされまい。私たちは友を取り戻し、旅を続けるのだ。ここで立ち止まるわけにはいかない。

 通路が終わって、屋外に出た――一瞬、そう錯覚した。壁は遥かに遠く、天井は黒く霞んでいて視認できない。地下迷宮の最深部に設けられた広大な空間に、私たちはいた。

 正面に、今まで見たどれよりも巨大な石像が見えた。置いてあるだとか、飾ってあるだとかいった言葉では形容しえない。それこそ小山ほどもある造形物が、どっしりと佇んでいるのである。

 私たちは慎重に石像に近づき、手前で立ち止まった。ぽかんと見上げてしまうほどの高さだ。

「なんなの」

 と思わず独り言つ。生き物を象っているという点ではこれまで通りなのだが、なにしろ規模が違う。あえて私の知識で表現するとしたら――石化した鯨。

「これは動かない――よね?」

「さすがに動かせないでしょう。それらしい気配も感じ取れません」

「だったら、なんのためにあるのかな」

 私は視線を上げ、いまだ全容の分からない石像を観察した。長く突き出した頭部はどこか馬にも似ているが、フォルムはより獰猛そうで、肉食獣のものに近い。口は閉じられているものの、髭ではなく牙が生え揃っているだろうと想像された。眼球はなく、髑髏を思わせる空洞になっている。このあたりが耳だろうという位置には、渦巻き状の角が付いていた。

 胸鰭は異様に太く、先端に鉤爪があった。腕と呼ぶほうが適当かもしれない。上体を支えて立ち上がれそうなほどの逞しさである。鯨は鯨でも、神話に登場する海の怪獣としてのイメージを、私は受け取っていた。

「なかに入れるんだよ。あいつ、この化物の胎のなかにいる」

「ほんと?」と思わず訊ねた。「どこから入るの?」

「どこから入りたい?」

 穴を開けるつもりかと困惑したが、どうやら冗談だったらしい。ナターシャは視線を巡らせ、

「口を開けてくれればいいけど、でなければ目の穴からかな」

 言いながら石像に飛びつき、壁を蹴りながら上昇していく。勢いは目覚ましく、攀じ登っているという感じはまったくしなかった。瞬く間に三階か四階の高さにまで到達し、私たちを見下ろして手を伸べてきた。目を凝らせば透明な糸が垂らされている。

 エスベンが糸を掴んだ。むろんナターシャほどではないものの意外な身軽さで、とんとんとリズミカルに体を引き上げていく。目立った突起に掴まって安定を確保すると、

「柚葉さん、登ってこられますか」

 勇気を奮い起こして頷き、壁に取りついた。あちこちに藤壺めいた凹凸があり、登っていくのは想像ほど困難ではなかった。見た目こそ気味悪いが、手足を引っ掛けるにはこの上なく便利なのだ。まもなく私は茸の傘を思わせる幅広い出っ張りの上に辿り着き、ナターシャとエスベンに合流することができた。

「普通に入れそうだね」

 近づいてみると、鯨の眼窩は洞窟の入口のように見えた。人ひとりが通り抜けられる大きさはゆうにある。

 穴の淵、下瞼にあたる位置まで三人で上がった。怖々と覗き込んでみたが、濃密な闇に満たされているばかりで内部の様子は分からない。

「なんだろう……骨かな? ともかく足掛かりにはできそうだ」

「空間に余裕があれば一気に下りようかと思ったんだけど――逆に危険かもしれない」

 ふたりには見えるらしい。今度はエスベンが先立って穴に入っていった。少し間を置いて、ナターシャが私の腰に腕を回した。それから穏やかに言い聞かせるように、

「大丈夫。目で見えなくても、あなたには知覚できる。蜘蛛の血の力で、一時的に感覚が鋭敏になってるから」

 思わず首筋に触れた。解毒されたとき、確かに牙を通して互いの体液が交じり合うような感覚があった。いま私の体には――彼女の血が溶けている?

「害はないはず。多少風邪を引きやすくなったりはするかもしれないけど」

 詫びてきた彼女に、私は笑ってみせた。

「私も少しだけ、強くなれてる気がする。ずっと助けられてばっかりで、自分でなにができるでもないのにね」

 ナターシャはかぶりを振り、

「あなたは強いよ。お母さまを負かした人だからってだけじゃない。上手く言えないけど――私はそれを知りたくて、あなたと行くことにしたんだよ」

 だから進もう、と彼女は言い、私の体を引き寄せた。黙ったまま、しかし力を込めて、頷きを返した。穴の淵から糸を伝い、ふたりで闇の奥へと下りていく。

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妖精の窓辺で歌ったころ 下村アンダーソン @simonmoulin

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