20

 痛い目を見て懲りたのか、怪物はなかなか近づいてこようとしなかった。無数の触手に覆われ、内側にずらりと牙を揃えた気味の悪い口を開閉させながら、しきりに頭部を前後させている。

「この距離だと斬りつけるのは難しい。掴まえて引き寄せるのも危険すぎる。水の上じゃなければ方法はあるんだけど――どうしようかな」

「攻めて倒すか、守って逃げ切るか。方針は戦える君に決めてもらうほかない。僕らはできる限り援護する」

「本音を言えば倒したい」

「だろうね。あえて速度を落として近づけようか? 指示してくれれば従うよ」

「待って。ねえ、あれ見て」と私はふたりの問答を遮った。「口の形がさっきと変わってない?」

 くねくねと形を変えつづける相手には違いないのだが、その口の動き方になぜか、私は意識を引かれていた。いつの間にか円筒形に突き出して、先端部をこちらに向けている。他の部位は不規則に揺れているばかりなのに、口の方向だけはほとんど変わっていない。あたかも狙いを定める大砲のようなのだ。

「エスベン。体液があいつの燃料かもしれないって言ったでしょう? それだけかな? 水鉄砲みたいに飛ばして――」

 私の言葉が終わらないうちに、怪物が思い切り頭部を振るった。口から噴射された青黒い液体が、放射状に広がりながら降ってくる。

 目の粗い蜘蛛の巣では防ぎきれるはずもない。液体の大半が甲板へと落ち、びしゃりと音を響かせた。途端に表面が変色し、焼け焦げたような強い臭気を放ちはじめる。私もナターシャもエスベンも直前で身を躱していたが、警告が一瞬でも遅れていたら、今ごろ――。

 怪物が再び頭を仰け反らせた。二発目の襲来を予期して身構えていると、不意に足許がぐらつきはじめた。舟が傾き、危うく横転しかける。反射的に体勢を立てなおせたおかげで、どうにか落下を免れた。

「下から触手が来てるんだ。畜生。あいつ、揺さぶりをかけてきた」

 ナターシャが糸で水面を一閃したが、明確な反応はなかった。すでに引き上げた後だったらしい。私たちを挑発するかのように、遠くで幾つもの手が揺れている。

 そうする間にも三発目の毒液が放たれ、船体を黒く染め上げた。ぐずぐずと気泡を発しながら板が腐食し、柔らかく崩れだす。水がじわじわと染み入ってきて、私たちの足許を濡した。舟は力なく傾いで、水面すれすれまで沈みつつあった。

「もう時間がない。あいつの懐に飛び込んで蹴りをつける。エスベンはこのまま舟を進めて、最短距離で岸まで向かって。柚葉には――私の命綱を預ける」

 ナターシャが一瞬だけ私の手を握る。予想外の冷たさに慄然としたけれど、考えてみれば蜘蛛が人間と同様の体温を有しているとも限らない。私たちは違う生き物だ。

 数歩、ナターシャが後退した。向き合った私たちのあいだを、透明な糸が繋いでいる。

「放さないで」

 とだけ残して、彼女はすぐさま身を翻した。白いローブが脱ぎ捨てられる。短く助走をつけたかと思うと、その体が一息に飛んだ。空中で前転しながら、一直線に怪物のもとへと向かっていく。

 揺らめきつつ迫る数多の手を躱し、弾きかえしながら、ナターシャは遂にして怪物の頭上へと到達した。ぬるぬると滑るように移動する眼球に向け、彼女は腕を振るう。

 悲鳴が轟いた。怪物が発したものには違いなかったが、その外観にはまるでそぐわない、甲高い女性のような声だった。思わず手が震える。しかし託された糸は決して放さなかった。

 針を投げナイフのごとく打ち込んだのだと分かった。怪物の目が形を失い、触手の束の内側から抜け落ちて水中へと没する。ナターシャ自身も落下しながら、最後の一撃を見舞った――。

 放たれた針は過たず、相手の口に突き刺さった。怪物はゆっくりと宙を仰いだが、それだけだった。途端に糸がほどけるように解体して、青黒い霞と化す。長々とした声が空間に木霊した。

 最後の瞬間、空中に緑色の光が散った。その思いがけない鮮烈さに意識を奪われかけたが、私の手は半ばひとりでに糸を引っ張っていた。強い手応えとともに、水面すれすれにあったナターシャの体が勢いよく飛来してくる。

 受け止めた――つもりだったが、実際には激突の衝撃で甲板に叩きつけられたのみだった。絡まり合いながら転がり、端ぎりぎりのところで停止する。反射的にナターシャの腰に腕を回していたおかげで、どうにか彼女を落とさずに済んだ。

「柚葉さん、ナターシャ」

 と振り返ったエスベン。舟はかろうじて沈没を免れ、ふらふらとではあるものの、前へと進みつづけている。

 私はようやく安堵して、仰向けのまま深呼吸した。隣に寝転んだナターシャの、荒げた息遣いだけが聞こえていた。

 立ち上がろうとして、軽い抵抗を腕に感じた。まだ糸で繋がったままなのだと気付き、私から手を伸べてナターシャを抱き起した。

「ありがとう」と彼女は言い、それから付け足した。「放さずにいてくれて」

 掌を見下ろすと、すでに糸は無かった。「こちらこそ」と応じると、途端に緊張が途切れて咽の底が熱くなった。情けないと思ったが耐えきれず、ナターシャの肩に縋って少しだけ泣いた。彼女はただ黙って、私が泣き止むのを待っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る