19

 大きさはさほどではない。線虫を思わせる、うねうねとした物体だ。ざ、ざ、ざ、とときおり水を叩きながら、こちらの様子を伺っている。

 不意に数が増した。私たちをぐるりと包囲するように生じた触手が、空中で踊りはじめる。

「ちょっと舟をお願い」

 ナターシャがこちらを振り返り、操縦に使っていた糸をエスベンに渡した。ふたりが位置を入れ替えると、舟は途端に速度を落とし、ゆらゆらと不安定に揺れはじめた。壁にぶつかって破損するのではないかと危惧したが、エスベンは小柄な体を目いっぱいに使って方向を修正した。糸と必死に格闘している。

「舟なんか動かしたことないよ」

「早めに終わらせる」

 ナターシャが両腕を広げて一回転した。触手がまとめて切断され、ぱらぱらと水中に没した。色濃い液体が飛び散り、一瞬遅れて壁に、水面に降りそそぐ。びしゃ、びしゃ、と不気味なほど大きな音が響いた。

 先端部を失った触手が派手に仰け反る。しばらくは体液を噴き上げながら身をくねらせていたが、やがて順々に倒れた。水中へと消えていく影を怖々と見下ろしながら、私は声を震わせて、

「逃げた?」

「いや――まだみたい」

 後方から別の、より巨大な影が接近してきた。まだ深い位置にいるのか、全体像はまるで分からない。遠くのほうでやたらゆったりと泳いでいるように見えたが、追いつかれるのはあっという間だった。みるみる距離が縮まり、私たちの舟と隣り合った。併走しはじめる。

「あれも石なの?」

「石でしょう。極小の粒子の塊、というほうが正しいでしょうか。さっきの竜もそうですが、以前とは比べ物にならない精密な動きです。限りなく生き物に近づけている。あの体液は――燃料かもしれません」

 エスベンが正面を向いたままで声を張る。水面が盛り上がった。しぶきが飛んでくる。反射的に顔を逸らせ、そして息を詰めた。巨体だ。視界全体を埋め尽くされたかのように錯覚しかけた。空間が狭いことも相まって、凄まじい圧迫感だった。

 モデルは水棲生物なのかもしれないが、私の知る何物にも合致しない。毒々しい青紫色をした無数の触手が絡まり合って、大入道めいた立体を成している。一見した印象は植物的だ――どこか群生したイソギンチャクにも近い。くねくねと蠕動しながらしきりに輪郭を変えているさまは、軟体動物のようにも見えた。

 目を凝らすとところどころに、ばらばらになった生物の断片が埋め込まれているのが分かった。単なる影だろうと思った部分が実は口であったり、触手が丸く密集して見えた部分が眼球であったりする。まるで関連のない別々の生物からパーツを少しずつ取ってきて福笑いしたように出鱈目なのだが、不思議と統一感を覚えるのも事実だった。石像鬼と対面したときと同様の感覚が込み上げてくる。計算された醜さ。

 またしても無数の触手が突き出してきて、私たちの舟に掴みかからんとする。あるものは高々と持ち上がって上方から、またあるものは水面を這うように横から。速度も動きもまるで異なっており、目で追うことさえ儘ならない。

 しかしナターシャは動じず、両腕を広げた姿勢で待ち構えていた。迎撃が間に合うのかとつい案じてしまうほど、ゆったりとした立ち姿だった。

 最初の一本が彼女に迫った――その瞬間、私は目を瞠った。中心から真っ二つに裂けたのである。触手が自らの意思で二股に分裂したのではないか思うほど、それは見事な切れ方だった。

 いったいなにが――とナターシャを見れば、彼女が動いた様子はない。それとも人間の目には映らぬほどの、高速の斬撃を繰り出したのか。

 第二、第三の触手も同様、近づいてくるそばから裂け、また裂けて、ことごとく水中へと落下していく。その間もやはり、ナターシャは静止したままである。

 やがて相手が速度を緩め、舟から距離を取った。恨みがましい気配を湛えながら、ゆっくりと浮き沈みしはじめる。

「引き離すのは無理だよ、ナターシャ。あいつのほうがずっと速い。その気になればすぐ追いつかれる」

「分かってる。策を考えるよ」

 舟にひとときの静けさが戻ってきた。その段になって、眼前の空間がきらきらと輝いていることに気付いた。正体は――空中に留まった水飛沫だ。

 そうか、と思う。やっと真相に辿り着いた。

 ナターシャはあらかじめ、舟の後方に巨大な蜘蛛の巣を張っていたのだ。突っ込んできた触手は、自らの勢いで糸に切断されたのだろう。攻撃と防御を同時にこなす、単純ながら見事な戦術だ。

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