18
「あそこ。見て。掴まえられる?」
私が声を張ると、ナターシャがすぐさま糸を放った。引き寄せている。影は瞬く間に、私たちの目の前にまで至った。
やはり小舟である。形状としては筏に近い簡易的なものだが、三人が乗り込めるだけの大きさはありそうだった。しかし櫂は付いていない。
「これ、使えないかな」
「壁に糸を張って、手繰りながら動かすのは簡単。でも――」
ナターシャは腕組みした。罠の可能性を疑っているのだろう。敵陣のど真ん中で、必要なときに必要なものが都合よく現れたのだから、当然かもしれない。
「どの方法にしろ危険はある。だったら今は、三人一緒に行動することを優先すべきだと僕は思う。舟の上なら、ナターシャもあるていど自由に糸を使えるだろうし」
エスベンの提案に私も頷いた。戦闘力が皆無である以上、私たちがナターシャのそばを離れるのは得策ではない。加えて、いざというときは糸が頼りなのだから、彼女が自由に動ける状況を確保しておくのが望ましい。私たちを抱えて壁や天井を這わせるよりは、甲板に立っていてもらうべきだろう。
ここまでを伝えると、ナターシャもゆっくりと頷いた。念のため舟を確認すると言って、独りで下りていく。手で揺らしたり、踏んだり叩いたりの挙句、彼女は私たちを振り仰いで、
「とりあえず不自然な点は無さそう。ひとりずつ乗って。そっと――気を付けてね」
三人の重みで、小舟は少しだけ沈み込んだ。しかし思ったほどのぐらつきは無い。私たちが位置を定めると、僅かな揺れも収まった。ゆったりと黒い水面に浮かんでいる。
ナターシャが糸を使い、小舟をそろそろと手近な壁に寄せる。水が掻き分けられて小さく波を立てる。向きを調整し、壁沿いに進みはじめた。
「――〈天眼の塔〉にはご友人を助けに行くと仰いましたね。同じ人間のお友達ですか」
「うん。理宇っていうんだ。一緒にカリストフィアに来たはずなのに、逸れちゃって。奥方さまが居場所を教えてくれたの」
「塔へ向かうには、ここを経由する必要がありますからね。余計な争いに巻き込んでしまって、本当に申し訳ありません」
向かいに腰掛けたエスベンが顔を伏せたので、私は手を左右に振ってみせ、
「あなたが気にすること無いよ。そういえばヒドゥルが、私がパイクをここに連れてくるのは必然だって言ってたけど、ルエルにはそういう伝承があったの?」
「僕の知る範囲ではありません。長らく儀式から遠ざかっている身ですから、単に知らされていないだけかもしれませんが。〈大いなる意思〉というのも出鱈目だと思っています。パイクが見切ったとおり、薬による妄想でしょう。お尋ねしますが柚葉さん、眠っているあいだ、なにか夢を見ましたか」
ゆっくりと首を傾け、水面の白い渦巻きを見つめた。水の匂いが思いのほか清浄なことに、私は初めて気付いた。澱んでいるわけではなく、単に夜の湖がそうであるように、青黒く見えるだけらしい。
「小さい頃の夢を」と私は答え、それから目を閉じて記憶を反芻した。眼裏に浮かんでいたのはちょうど、水辺の光景だった。当時は信じがたいほど広大に思えたけれど、現実にはきっと小ぢんまりとした、なんの変哲もない湿地だったのだろう。私は小学生で、隣には理宇がいた。青空の下、曲がりくねった木製の通路をどこまでも歩いていった。それが世界のすべてだと錯覚するような、完璧な夏の日――。
「理宇と一緒だった。どこへでも行ける、なんにでもなれるって、信じていられたころの夢を見てた」
「まだその感覚がありますか。毒は抜けきっているはずですが――」
エスベンの問いに、私はかぶりを振った。
「もう無いよ。夢は夢、思い出は思い出。理宇はいま、〈天眼の塔〉で私を待ってる。行って取り戻したい。私たちの世界を」
「あなたの世界」とエスベンはつぶやき、それから口調を強めて、「僕らにも守るべき世界があります。決して完璧でも、理想的でもない。それでも僕にとって、ただひとつの世界です。ここで必死に拾い集めてきた小さな喜びや美しさを、僕は否定したくない。お膳立てされた幸せは――必要ありません」
エスベン、と名を呼んだが、かけるべき言葉はひとつも浮かびはしなかった。私がただ黙りこくっていると、彼は膝を抱え込んだまま、
「僕も幼いころの夢を見ることがあります。あのころの僕は、ずっと姉と一緒なのだと信じていました。初めて石切り場に連れていかれた日のこと、姉が寺院に旅立った朝のこと、修行を終えて帰ってきた夕方のこと、僕の演奏に合わせて歌ってくれた日のこと。でもすべて、遠い過去です。姉はもうかつての姉ではなく、僕もかつての僕ではない」
唇を開こうとして、はっとした。視線の先の水面が、微妙に色を変えていた。影が揺らいでいる。水が白く複雑に泡立ったかと思うと、にゅっと長細いものが突き出した。
背鰭? いや――。
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