第10話 忘却の石、王宮の夜明け

 セインベルクの王宮には、価値ある財宝の収められた宝物庫がある。こちらは現在まともに機能していない国軍の代わりとして王家の信頼厚きローヴェラス騎士団の監視のもと、厳重に管理されている。

 ゆくゆくは政教分離を果たすべく自国の軍隊と信仰の守護者としての騎士団とで管轄を分けようとする計画が王族の間で議論されているが、ここ数十年の混乱のさなか宗教文化が王家の慣習と分かちがたいほどに根を張ってしまい、大きな課題としてセシリアたちの頭を悩ませている。

 騎士団長であるライセントは表向きにはその動きを真摯に受け止めているようだが、胸中ではまた別の感情が渦巻いていることだろう。



 その宝物庫はよほどのことがない限り解錠されることはないのだが、此度は面倒な書面での手続きを踏んだうえで、ケイトはその区画へと足を踏み入れることができた。この建物に詳しいという宮廷詩人のレイチェルが案内役を買って出たため、しぶしぶ同行させた。

「どうして詩人のあんたがこんな王宮の奥深くまで入り込んでいるんだ」

「心外だな。僕は我が国の文化の選定に駆り出されているのだ。最近はもっぱら文書の整理に忙しい。この宝物庫には、まだまだたくさんの歴史価値のある資料が残っているだろう」

「ああ、そういうことね。人手不足もいいとこだな」

 二人はどちらからともなく苦笑しあった。

「文化というものは、いつの時代も国力と密接な関係があるからねぇ。途方もない大仕事で嫌になるよ」

 そうこぼしながらもレイチェルは言葉のわりに楽しそうに部屋を回っていた。ケイトは、この男は案外要領のいいやつだと思った。

 しかし改めて内部を見回すと、実際は宝物庫など名ばかりで広いばかりの物置空間と化していた。古い調度品が雑多に並べられ、厚い布で覆われているものも数多くある。

「子供のころ来た時とはまるで様変わりしている。こんななかから肖像画の場所なんてあんたにわかるのか?」

「わかるさ。今ちょうどリストを作成中だから、おおかた目星はつくよ」

 レイチェルは自身の手書きの書類を優雅に繰りながら、「ああ、ここだ」と立ち止まった。

 ケイトも続いて立ち止まる。その一角には数々の肖像画がかかっており、なかでもとりわけ簡素な額縁に入ったものがあった。

 レイチェルは、絵の前で立ち尽くすケイトに向かって話しかけようとしたが、やめた。

 ―少年時代以来の再会というわけか。こちらの若き王子様も苦労したものだ。

 レイチェルはそっとその場を離れると、遠巻きに改めて絵を眺めた。実はこの絵はもっとほかの部屋に静物画と一緒になって立て掛けてあったのだ。

 リストを作成する際、この海の見える部屋へと移動させた。ケイトの母親は船に乗って海を渡って来、また故郷へと帰ったと聞く。その後の行方は知れない。その名からして異国の姫であったことはまちがいない。

 彼の片青眼がそのルーツによるものだというのは周知の事実であった。



 そんなことを考えていたレイチェルは、ケイトの足元より細くのびる藍色の影からふいに何者かがずるりと現れる白昼夢のような光景を見た。

 彼はそれが、影に身を潜めることのできるラピスラズリの奇妙な能力だと知っていた。彼女も主人のもとから足音を立てずに滑るように離れてきた。

 レイチェルは、いつまでも警戒を解こうとしないラピスラズリに声をひそめて優しく話しかけた。

「ケイト王子の母君は、とても美しい方だったのだね。先日は驚きとともに、思わず見惚れてしまった。彼の稀代の美貌はきっと母君に似たのだろう」

「ああら、あなたはセシリア王子を推しているのだとばかり思っていたわ。よくわかっているじゃないの」

 ラピスラズリは「褒めてあげる」と誇らしげな表情だ。

「光栄だね。日ごろから美しいと思うものには必ず敬意を払っているよ。僕は心に嘘はつけないたちでね」

 レイチェルはそのまま恭しくラピスラズリの手をとろうとしたが、彼女はするりと抜け出し主人のもとへ駆けて行った。



「ケイト、お母様の絵、こんなに大きいのではさすがに持ち出せないんじゃない?」

「そうだな。ここでいいのかもしれないな」

 ケイトとラピスラズリの会話に、レイチェルはそのとおりだと頷いた。

「責任をもって管理するから、安心するといい。これからはいつでも君がもう少し気軽に入室できるよう手配しておくよ」

「ずいぶんと緩いな。大丈夫なのか、そんな意識で」

「問題ないよ。母君に会いにくることを誰が咎めたりするだろうか。そして芸術品は人の目に触れてこそ価値があるのだから」

 ラピスラズリも、いくらか感傷的になっているケイトの顔を見あげて勢いよく頷いた。

「君よりもいくらか年長者の僕からの意見だ。君は、自分の過去を忘れないでいてくれたまえ。眼をそむけたくなるような凄惨な光景も、吐き気のするような忌まわしい記憶も、それは王家の歴史だ。けしてセシリア王子、おっと国王陛下には持ちえない人々の苦難の集積を、あの混乱の渦中を生きた僕たちは―特に君は、誰よりも手にしているのだから」

 ケイトは「ああ」とだけつぶやき、顔をそむけて意味もなく咳払いをした。

 自分はまだまだ未熟だと痛感した。レイチェルやアルフレッドに諭され、反論の余地もないほどには。

 ラピスラズリは、話が長いと言わんばかりに無邪気にあくびをしていて、生来楽天的なレイチェルをして平和だねと言わしめた。



「ラピス、ほら」

 ケイトは、絵の前にラピスラズリを呼び寄せた。

「あの指輪、見えるだろ?」

 ラピスラズリは、目を見開いた。

「青い宝石に見えるわ」

 レイチェルは「そうだとも」とたいへん嬉しそうに、物知り顔で口をはさんだ。

「あの宝石はね、まさに君と同じ名を冠するものだ。あの顔料はね、実際の瑠璃ラピスラズリを砕いて樹脂などで溶かれた大変高価なものだ。金よりも価値のあるものなのだよ」

「話には聞いていたけど、初めて見るわぁ」

 まんざらでもないラピスラズリに、レイチェルは満足そうにさらなる解説を加えていた。

 ケイトは思わず目を細めた。少年期に見た時も今回と同じように魅入られたのかもしれない。すっかり忘却していた。

 ―俺は、あの石を無意識に求めていた。あの石につながる記憶を。

 ケイトはすべて腑に落ちた気がした。欠落していた過去の記憶のピースが、自身の生きる意味にようやくぴったりとはまったような感覚をおぼえた。


 窓からは、真っ青な海が見える。異国からセインベルクへと来た母。そして、その血を引く自分。暗黒の時代をともに生きてきた魔獣は、呪いが解けたように聖獣となった。長い年月を眠りのなかで生き延びた兄は、人々に祝福されるなかで目覚めることができた。あの長く鬱屈としていた暗い過去が夜だとすれば、これは夜明けだと感じるのだった。

 レイチェルによる詩篇の響きが流れて来ると、辟易したラピスラズリの呼ぶ声が聞こえた。

 ケイトはこれらの光景をかわるがわる見比べると、この世界も存外悪くないなと苦笑した。



―Fin―

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夜の王宮にて、影は瑠璃色に染まる 蒼乃モネ @Kate_Grey

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