第9話 ずっと変わらぬものたちへ

 暗闇から地を這うような音を聞いたケイトは、振り返るなり目を見張った。

 薄い光のなかで現れたのは、線のしなやかな、背に立派な翼をもつ神話上の霊獣のごとき姿のラピスラズリだった。骨ばった悪魔の羽や先端の尖った固い尾は見受けられず、その身体は柔らかな羽毛に包まれていた。以前のような歪で凶暴さを隠さぬ器官は、体内の毒とともに薄まったようだ。

 唯一以前と変わらぬ瑠璃色の瞳だけが、昔の主人を寂しげに見上げていた。

「やっぱり、ラピスは変わってない」

 ケイトがかすれた声でそう言うと、ラピスラズリははじめてその腕の中に飛び込んだ。ケイトが予期せぬその勢いと重みに耐えきれなかったため、そのまま軽くよろけることとなった。二人して笑った。

「会いたかったよ。また独りになるんだなって覚悟してた」

「そんなことないのに。いつまでたっても困ったこね、あなたは。でも、わかった。あなたが望む限りは、もう独りにしない」

 ラピスラズリの温もりが、ケイトの胸を安堵感で満たした。

「本当によかった。ラピスの不安がる気持ちもわかっていたいと思う。俺のわがままで無理させてごめん」

「もういいわ。先のことなんてきっと誰にもわからないのだし。これまでもそうだった」

「ああ。でも、俺はラピスと出会えてよかったと心から思うよ。ラピスがいなかったら今の俺はない」

 じっとケイトの言葉を聞いていたラピスラズリは、しごく小さな声でつぶやいた。

「私、もう一度やり直せるかしら。今度は前みたいに困らせないようにするから」

「ラピスはそのままでいいよ。変わらないでいてくれたほうがいい」

 あたりにはグレージュの羽根が舞い、それらはゆるやかに弧を描きながら足元に落ちていった。



 この後、同じ獣との二度目の契約を交わしたケイト・ハイネルは晴れて聖獣使いとなり、ラピスラズリは再び同じ主人の召喚獣として行動をともにすることとなる。




 ―セインベルクの王宮にて。

 若き国王であるセシリア・ハイネルは、弟の帰還をまっさきに喜んだ。

 彼が宮殿内の広い廊下を颯爽と歩くと、長い金髪が光を浴びて輝いてはすれ違う者の目を奪った。

「ケイト、無事でよかったよ!頼むから事前に何も告げずどこかへ行くのはやめてくれないか?」

「おおげさだな。数日間、視察を兼ねて少し羽を伸ばしていただけだ」

「それがいけないのだ。君ももう立派な大人なのだから、きちんと予定を管理してもらわなくては皆困ってしまう。なにより護衛も連れないで外出となっては、君の身が心配だ」

 セシリアが息をはずませると、後ろに控えていた騎士団長のライセントが鬼の形相で加勢した。

「貴様は本当に王族としての自覚がない。国王陛下を困らせるような真似は、この俺が許さん。そもそも貴様が今こうして政務に関わっていられるのは、どなたのおかげだと思っているんだ!」

 ケイトは両者の長引きそうな説教に頭痛を覚え、眉間に手を当てた。その様子を遠くから見ていた宮廷詩人のレイチェルは、隠れるようにしてケイトの後ろにいる女の姿にぱっと表情を輝かせる。

「おやおや!そこにおわすのは宝石の君ではなかろうか!」

 宝石の君―豊かな瑠璃色の髪をもつラピスラズリは、露骨に顔をしかめた。

「嫌なやつに見つかった!ケイト、もう私は行くわ!」

「待っておくれ!君がいったいどこでどうしていたのか、僕は日夜気になって眠れなかったのだ。こうしてここで再会できたのは、運命というほかない!また僕の芸術に協力してくれないかい?」

 レイチェルがこう声高に叫ぶと、娯楽に飢えた王侯貴族たちが徐々に彼らを取りまき始める。足を止める者があとを絶たず、ライセントはついに人払いを始めたがきりがない。

「ええい、見世物ではないというのに!陛下の行く手を阻むとはけしからん者どもめ!」

 ケイトはいい具合に人ごみに紛れると、ずらかるぞとラピスラズリをつれて自室のある離れへと戻った。



 小さな中庭から幅の狭い石の階段をのぼると、城壁につながる屋上へと出ることができる。そこからは、王都の全景を見渡すことができるのだ。

 王都へと帰還して、ここにきてようやく息をつくことができた。人間の姿をしたラピスラズリの髪は、日の光を浴びてなお漆黒の夜空のごとく風になびいていた。

 喧騒を離れたことで心底ほっとした顔のケイトの表情に、ラピスラズリは思わず噴き出した。ケイトはむっとするが、なおもころころと笑い続ける。

「叱ってくれる人、たくさん増えたわね」

「あの状況でラピスが黙ってるのは意外だったな」

「あなたのためを思って、でしょ」

 ラピスラズリが可憐に微笑むと、ケイトはどっと気が抜けたような心地になった。

「悪いけど、しばらく旅は無理そうだな。なんといっても『国家の復興事業』ですから。まだまだ忙しくなるだろう」

「いいのよ。これから先、まだまだ長いんだから」

 ぐんと伸びをしながら何気なく放たれた彼女の言葉の重みを、ケイトは噛みしめた。

「ああ、そうだな」

 ケイトはラピスラズリの横に並び、森と海と各地に点在する諸都市を有するセインベルクの景色を眺めた。

 そして、かつて行動をともにしていた仲間たちは今頃どこを旅しているのだろうかという思いがよぎり、当時のことが遠く懐かしく思い返されるのだった。

 ラピスラズリはケイトの横顔をあおぎ、「もう寂しくないわね」と瑠璃の瞳で見つめた。ケイトは静かに頷く。

 かつて憧れていたものは、手を伸ばせば届くところにあった。少年のころ夢見た砂漠に眠る、群青に金の光る聖石。そして、王都が傾いたころに聖獣使いとなれなかった自分の悲願の達成と、失ったと思われた無二の存在との再会。


 そうしていると、ケイトはふと母の肖像のことを思い出した。宮殿の保管庫の一角にひっそりと残っているのは知っている。もう十年以上目にしていないが、後日、この離れへと置き場所を移してもらおうかと考えた。ラピスラズリはそれに賛同した。

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