胸襟

儚霞世

胸襟




【会社行きたくねえ】


【こいつ邪魔だな、もっとあっち行けよ】


【眠たい】



私は人の心が読める。

読める、というか聞こえてしまう。



満員電車の中。

朝の通勤ラッシュ。

今日もたくさんの声が聞こえる。



物心ついた頃から他人の心の声が聞こえていた。


心の声は耳を澄まさなくても聞こえる。

いわゆる「呟き」くらいの心の声であれば普通の話し声とさほど変わりがない。


うるさいと言うわけではないけれど、人の心が分かると言うことは全くいいものではない。

幼少期の頃は人の心が分かったらなあ、なんて思う人も多くいるかもしれないが

歳を重ねていくにつれて、誰もそんなことは思わなくなっていくだろう。


良いことも、悪いことも、もっと悪いことも

怖いことも全部聞こえてしまうから。

慣れっことはいえストレスは溜まるし、家族にも知り合いにも誰にも言えない私だけの秘密だ。


友達は、もちろんいない。


大学2年の今の今まで友達と呼べる人は誰一人としていない。

当たり前のことだと思って自分の中では上手く折り合いをつけられているつもりだ。




満員電車の中、イヤホンで音楽を聴きながら大学がある降車駅に着くまでただただ立ち続ける。

いつもと変わらないクラシック音楽。

声から逃れた先の唯一の癒しの時間。



何も考えず、ボーッと音楽に聞き入っていると

電車が急にブレーキをかけた。


人が一斉に同じ前方向によろめき、小柄な私も例外なく体をその波に持っていかれる。


体が元の位置に戻った拍子に、私の目の前に立っていた背の高い男性の背中に私の唇が近づく。

そしてそのままライトグレーのスーツに唇が触れた。


薄いピンク色のリップクリームがスーツ生地と見事なマリアージュ。

相性が良すぎたのか、それはもうキラキラと輝いていた。


ああ、やってしまった。


電車が完全に止まり、人が定位置に戻る。

急停車の車内アナウンスが流れる。


「ただいまひとつ前の清澄白河駅の線路内に落とし物を発見しましたため…」



【まじかよ、だるすぎ、うざ】


【ええ!遅刻しちゃう!最悪なんだけど】


【え、今日も?最近多すぎ】



こんな忙しない時間帯に電車が止まった。

でも今そんなことはどうだっていいんだ。

どうしよう。私のキスマークが見知らぬ男性の背中にしっかりと付いてしまっている。

なんてこった。

やってしまった。


幸いにも152cmの私は背の高い立派な男性陣に取り囲まれており、輝くキスマークには誰も気付いてはいないようだった。


もちろん、キスマークを付けられた当の本人も。



しばらくして電車が動き出す。

少し張り詰めた電車内に安堵の空気が伺えた。



【ああやっとかよ】


【よかったあ〜、ギリギリ遅刻じゃないわ】


【遅延証明書もらえるじゃん、ラッキー、

ちょっとコンビニ寄ってから行くか】



空気、というかもはや、声なんだけれど。


「次は清澄白河〜」


電車が止まり、私の降りる駅でキスマークが付いた男性も降りた。


流れる人混みの中、私は前を歩くその男性に声をかけた。

今まで振り絞ったことのない巨大な勇気が口から出そうな勢いで。


「あの…!!」


男性がその声の大きさに驚いた様子で振り向く。

黒縁眼鏡をかけた色白の20代半ばくらいの清潔感のある顔立ちをした男性だった。


「え、あ、僕ですか?」


「あ、あの、これ…!」


私は男性の側に駆け寄り、背中を指さした。


「え。」


男性は自分の背中を覗き、私の顔を見た。


「あの、ここ、ここ!に、付いてしまいました!

…あ、いや付けてしまいました…ごめんなさい…!!」


言い終わったと同時に深々と頭を下げた。

肩まであるが結んでいない髪の毛で視界を覆われる。

こんな無様な顔を隠してくれてありがとう。


男性は少し驚きながらスーツを脱ぎ、指差された部分を確認した。

そしてすぐにふっと微笑み、私の顔を見た。



「ああ、これですか。このくらい大丈夫ですよ。気にしないで。」


思いもよらない返答に私は驚く。

もちろん嫌な顔をされると思っていたから。


「でも…」


「本当に大丈夫なので、謝らないでください。

ちょうど近々クリーニングに出そうと思っていたんですよ。」


「それならクリーニング代を…」


と言いかけた私に向かって男性はニコッと笑い、颯爽とその場を後にした。


「え…ええ〜…」


もう何が何だかよく分からないのとこれで良いはずがないと言う気持ちが入り混じり、頭を抱えてその場に蹲み込んでしまった。


ああああ、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!

ああああ失敗したああ、全部!!

ああもうなんでこんなこと!


今の私の心の声は荒れに荒れまくり、人の波の中に一人蹲み込んだ自分を客観的に見れずにいた。


【この子どうしたのかしら、体調悪いのかしら】


【邪魔】


【え、何してんの、大丈夫かよ】


通り過ぎる人々の心の声に気付き、ふと我に帰った。

すぐに立ち上がったが、深い後悔と羞恥心とが頭の中をぐるぐると回り続けた。

今まで人の目に留まらないよう気を付けて生きてきたのに、見ず知らずの人にキスマークを付けてしまうなんて。こんな失態は最初で最後にしなきゃ。


歩きながら少しずつ冷静さを取り戻してきたところで、ある思いがふと私の中に流れ込んできた。




あれ。

そういえば。


…あれ?


…おかしい。


そういえば、あの人からは何も聞こえなかった。

私に届かなかった。あの人の心の声。


え、どうゆうことだ。なんで?


初めての感覚に強い動揺を覚えた。

私のこの力が消失してしまったかと思ったほどだったが、そんな中でも周りの雑踏からの薄い声が微かに耳に届くのでそうではないとすぐに気が付いた。


あんなに柔らかく笑い、優しい言葉をかけてくれる人が何も思わないなんてことあるのかな。

いや、そんなはずはない。

何も考えてないと自分では思っている人からでも、耳を澄ませばいつだって声は聞こえてる。

心の声とはそういうものだから。


何ならこの力が本当に無くなってしまってたらよかったのに。

ある時から思い続けているこの願いは今日も叶わなかった。




次の日、駅のホームでまた彼を見かけた。

こんな偶然があるのか。

今日は昨日と違う濃紺のスーツを着ている。


声を掛けようかどうしようか悩みながら、そっとそっと何気なく、少しずつ近寄っていく。

すると彼がこちらに気付き、会釈をした。


ばれてしまった、と観念し私も会釈をする。

そして反射的に彼の側に駆け寄り、昨日と同様に深々とお辞儀をした。


「昨日はすみませんでした…!!」


あの時の恥ずかしさと申し訳なさがまた込み上げてきたが彼は落ち着いたまま、あの微笑みをくれた。


「また今日も会いましたね。」


「え…」


予想外の言葉に思わず顔を上げ、彼を見る。

優しいキラキラが私の元に降ってくる。



次の日も、またその次の日も彼とホームで出くわし、徐々に話をするようになった。


彼は最近この辺に引越しをしてきたこと、会社のこと、好きな映画のことなどを話してくれた。


そして私もたくさん話をした。

大学のこと、好きな音楽、飼っているワンちゃんのことなど本当にたわいもない話だけれど、それはそれはすごく温かい時間だった。

家族以外の人とこんなに沢山話した事がなかった。

彼が初めてだった。


けれどもやっぱり彼の心の声は聞こえない。

少し、いや、とても不安。

なんだか歯痒く、心がムズムズした。

こんな人初めてだったから。


でも、それが心地良くもあった。

心の声が聞こえないということはこんなにも楽なんだ。

余計な事は気にせず、私の気持ちを思うがままにすんなりと伝えることが出来た。


そんな日々が続くうちにいつからか彼の心の声を聞いてみたいなと思うようになった。

こんなこと生まれて初めての感覚だ。


彼は心の中で何を考えていて、私のことをどう思っているのだろう。

好きな人はいるのかな。彼女はいるのかな。

私嫌われていたらどうしよう。本当はこうやって話すの嫌だったりして。

今まで他人と接していてこんな気持ちになっ日たのは初めてで、こんな不安の形もあるんだと知った。



キスマーク事件から、ひと月程たったある日の土曜日。


大学の授業はないけれど、もしかしたら、と小さな期待がいつもの駅のホームまで私の足を動かしていた。



彼に会いたくて。

彼も土曜日は休日だから会えるはずがないと思いつつも、いつもと同じ時間にホームへ行こうと足が勝手に動いた。



駅の階段を足早に駆け上がる。

すると遠くに見知った横顔が見えた。


彼が居た。

ベンチに座っている。


駅のホームは平日と違って人が全くいない。

まるでそこが私と彼だけの世界のように思えた。


彼を見つけた途端、少女漫画のような擬音語が私の胸から聞こえてきた。


きゅん、


高鳴る胸をどうにか落ち着けながら彼に近づき、そっと声をかけた。


「おはようございます。」


「あ。おはよう。」


彼はこちらを見て少し驚き、ベンチから立ち上がった。

そしてすぐにいつもの優しい微笑みをくれた。

スーツではなく私服の彼。

シンプルな綿の白いワイシャツにベージュのチノパン。白黒のコンバース。

普段はこんな格好するんだ。

…かっこいい。



「今日も学校?」


「いや、お休みです。」


「そっかあ。僕も休み。」


「そうなんですか…」


少しの沈黙。

いても経ってもいられなくって、珍しく私の方から口を開いた。


「…えっと、今日はどこか行かれるんですか?」


「いや、どこに行くわけじゃないんだけど、何ていうか、その、君に会えるかなと思って。」


「え。」


「だから本当に君が来たからすごくびっくりしちゃった。奇跡だなって。」



きゅん、



彼と私。

何も言葉を発さず、見つめ合う。


しばらくだった時、思わず私は心の中である言葉を発してしまった。



それと同時に聞こえた。

間違いなく目の前にいる彼の声が。




【【好き】】




「え…」

私が言う。


目の前にいる彼は口を開いていない。



「え…」

彼も言う。


二人はまたしばらく見つめ合った。

ぽかんと口を開け合ったまま。



「君ってもしかして、さ。」

彼が言う。


「あなたももしかして。」

私が言う。



ああ、なあんだ、そういうことか。

そういうことね。

理解した途端、急に今までのことが全部府に落ちた気がした。



「君と出会ってからずっとおかしいと思ってたんだよね。そうか、まいったな。」


彼はそう言って、恥ずかしそうにニコッと笑い、鼻を掻いた。



私達はきっと強い思いだけ聞こえちゃうのかな。

同じ力があるもの同士、心の声が聞こえづらくなっちゃうのかな。

そういうこと?


でも何でこう恥ずかしいことだけ都合良く聞こえちゃうのかな。

ああ、嫌だな。


ああ、でも。


でも、すごく嬉しいな。



「あの、今更なんだけどさ。」

彼が今度は頭を掻きながら言う。


「今の声聞かなかったことにして、もう一度僕の口から伝えさせてくれないかな?」


いつからか何となく逸らされていた目がまたしっかりと私を捕らえた。

恥ずかしそうな彼。

いつも冷静で穏やかな彼の初めて見た顔。


きっと今、私も同じような顔をしているんだと思う。


「はい。」

照れ臭くて目を逸らしてしまう。

けど、勇気を振り絞って彼の目に焦点を合わせる。


「あ、あの、私も伝えたいことがあります。」

絶対私、今顔真っ赤だ。



彼が頷く。

「分かった。じゃあせーので言おうか。」



「「せーのっ」」



その時、二人の横を急行電車が通り、私達の声を掻き消してしまった。





「邪魔されてしまったね。」

急行電車が通り過ぎてしばらく経ってから、彼は少し残念そうに言う。


私はそんな彼を見て、なんだかおかしくってついつい笑ってしまった。

彼もつられて笑った。


「じゃあ、今度は静かなところでもう一回。」


優しい微笑みを浮かべた彼はそう言って私の手を取った。


私もその手を握り返し、二人で駅の階段を一段ずつゆっくりと降りていった。



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胸襟 儚霞世 @kayontea

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