元いじめっ子に溺愛されてます

菜花

村娘ミア

 その始まりは中世ヨーロッパのような世界の田舎の小さな村の出来事だった。

 この物語の主人公、ミアの生まれた村は小さく閉塞的な村で、ひとたび事件が起きればそれは村中の知れるところとなった。

 それはミアがまだその村にいた十歳の時。ある日、村の子供が勉強に通うこぢんまりとした学び舎で盗難騒ぎが発生したのだ。

 その日は外で写生大会が開かれていて、その間にハンカチが盗まれたと教室で一番小さな子――エリザが泣きながら訴えた。写生大会をしていた時、筆記用具を忘れたと一旦教室に戻ったのがミアだけなため、疑いは一斉にミアに向けられた。


「早く返して。あれはおばあちゃんが夜なべして縫ってくれたものなんだから」


 そう嘆願する被害者の子に寄せられる同情は、そのままミアへの憤りとなった。


「ミアちゃん、黙ってないで返してあげなよ」

「魔が差したんだろうけど、エリザちゃんこんなに泣いてるんだからさ」

「そうだよ。今すぐ返せば誰も怒らないから」


 そう言ってくる級友にミアはひたすら戸惑っていた。何故なら盗んだ覚えが全くないから。

 筆記用具を忘れて一旦教室に戻り、取るものを取ったらそのまま皆のいるところに戻った。他の人の私物なんて盗むどころか触ってもいない。

「違う。私そんなことしてない。信じて」

 その懇願を級友はシラーっとした空気で聞いていた。

「あのね、嘘も大概にしないと嫌われるよ? ミアちゃん以外誰も盗めないんだからさ」

「そうよ、早く返しなさい。可哀想でしょう」

 子ども達の意見に便乗するように、先生もミアを責め始めた。それが決定打となったのか、ある少年がミアを激しく糾弾し始める。


「お前、そんなやつだったんだな。いいよ、返さないなら好きにしろよ。でもお前みたいなやつ、今日から友達どころか同じ人間とも思わないからな!」


 その少年の名はゲルト。そしてその少年の一言からミアへの苛めが始まった。

 翌日からミアの私物が無くなりだした。私物だけならまだしも、ただ椅子に座っていると、突然後ろからゲルトがどついてくる日もあった。お昼は給食が出るのだが、毎日のように虫が入っていてとても食べられない。そんな日が一週間も続くと流石にミアはやつれきっていた。

 その異変に真っ先に気づいたのは母だった。

「ミア、最近ずいぶん疲れているみたいだけど、どうしたの?」

 心配をかけまいとミアは両親に事の経緯を話さなかった。それに話したらやってもないのに自分が犯人だと認めるような気がして言いにくかった。けれど優しくされて緊張の糸が切れたのか、わんわん泣いて母親に一連の事情を伝える。

「何てこと……私の娘が盗みなんてするものですか。ごめんね。今まで気づかなくて。もう大丈夫よ」

 万が一両親にも信じてもらえなかったらという不安はあった。けれど母親が娘を疑うことはなかった。それだけで救われた気がした。そして苛めの話は母親から父親にも伝えられる。


「やっぱり……」

 父親はそれを聞いて納得したような顔をした。その様子に母親は不安に駆られる。

「あなた、やっぱりって?」

「最近仕事をしているとハブられることが多くてな。娘の件だったのか。だが俺は娘を信じるぞ。ミアは決して盗みなんかするような子ではない」

「もちろんですよ。私達の娘ですもの。でも、どうして子どもの件で大人まで……」

「ゲルトって子どもがいるだろ? 子どものいない村長の養子ってことになっているが、どっかの貴族のご落胤ってことは公然の秘密だよな。村に定期的に来る役人。あれ生母からの養育費を渡してるんだとよ。村長からしたらそんな金づるの機嫌を損ないたくないだろうからな……」

 それを聞いて母親は現実的な不安を口にする。

「私達を干上がらせるつもりかしら」

 怯える妻に夫は肩を抱いて慰める。

「最悪、俺が指図したってことにするさ」

「あなた、やめてよ。濡れ衣着せられてそんなことまでする必要はないわ。こんな村、いっそ出ていったほうがマシよ」

 その言葉を聞いて父親の決意が固まる。

「そう思うか? なら……伝手があるんだ。ひと月後に夜逃げしないか? 王都まで行けば誰も俺達を見つけ出せまい」

 母親は思う。毎日泣きはらした顔で帰ってくる娘。遠巻きににやにやとこちらを見つめる村人達。こんなところに居るくらいなら……。

 翌朝、母親はミアに「村を出ていく覚悟はある?」 と問う。それを聞いた娘が喜色満面の笑みを浮かべたのを見て心が決まった。

 ミアにひと月だけ我慢するように言い含め、誰にも気取られぬように家族一丸となって密かに準備を進めた。そして明日にはこの村を脱出できる。そう喜んでいた時だった。

 いつものようにミアに汚れた雑巾を叩きつけ、地べたに這いつくばらせる級友達。いつからかそれを怯えた目で見ていた少女がいた。ハンカチを盗まれたと主張した被害者の子、エリザだ。エリザはぶるぶる震えだし、もう我慢できないとばかりにわっと泣き出した。

「エリザ? どうしたんだ? ミアならこうやってもう二度と盗めないように痛めつけてるからさ」

 そう笑いながら言うゲルトをエリザはきっと睨んだ

「違う! ミアちゃんは盗んでない!」

「は? 何言って……」

「あったの! ハンカチ……家に帰ったら、テーブルの上に。だからミアちゃんは何もしてないんだよ。でも……ゲルトくんがミアちゃんがやった、ミアちゃんが悪いって決めつけるから、怖くて何も言えなくて……」


 ――それを聞いたミアの心は冷めたものだった。ああ、やっぱりか。そりゃあそうでしょう。私はやってないんだから。それにもうどうだっていい。明日にはこの村を出るんだから。それに真実が分かったところで、苛めをするような人間はちゃんと主張しないお前が悪いってさらに苛めそうだ。そう思っていた。


 しかしゲルトは真っ青になってかすかに震えていた。寒いのかな? とミアは頓珍漢なことを考える。そんなゲルトを無視してエリザはミアの前に跪いた。

「ごめんなさい。ごめんなさい。謝っても許されることじゃないかもしれないけど」

 この国では悪いことをしても迂闊に謝ってはいけないとされている。非を認めたとして攻撃されても仕方ないという口実を与えるからだ。それにも関わらずエリザは謝った。村中から恐れられているゲルトの前で。その覚悟がありありと感じられた。


「……いいよ。誰にも怖いことってあるもの。謝るのだって勇気がいることなんだから、エリザちゃんは偉いよ」


 一見まるで聖女のような台詞。だがミアの心の内は並の人間そのものだった。


 そうよ謝って許されることじゃないわよ。ごめんって言葉で今まで苛められた時間が戻るとでも思ってるの? いいよっていうのは(そんな余計な言葉はこれ以上) いいよって意味よ。濡れ衣で苛めてくる村の人達のことはこのひと月でよーく分かったから。許さないで明日この村を出ていくだけよ!

 しかしそんな考えは露知らず、言われたエリザは感動でさらに泣いた。

「ミアちゃん……! ごめん、ごめんね。ありがとう……!」

 苛めのきっかけの人間が堂々とそう言ったことで教室の空気が変わった。級友は全員おろおろしているし、先生はそんなこと知りませんって顔で教科書のページをめくっている。苛め筆頭のゲルトは……。

「あ、お、俺、俺……」

 そう蚊の鳴くような声でぼそぼそと言うだけで謝るでもなくもじもじするだけだった。優位に立ったことでミアはゲルトのことを冷静に見られる。

 悪いとは思っていても素直に謝るのはプライドが許さないんだろうなというのはよく分かっていた。ほんの一瞬、無実の人間を暴行を加えた犯罪者野郎! とでも罵ってやろうかと思うが謝ることもできない人間にそれをやったら逆切れされるのがオチだろう。そんなことをして明日の逃亡が上手くいかなくなっても困る。


「ゲルトくんは、エリザちゃんをずっと心配していたんだよね」

 自分は聖母マリア聖母マリアと念じながら心にもないことを口にするミア。

「ゲルトくんは優しいよ。でもどんな優しい人でも間違いはあると思うから。神様も右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せと仰ったんだから。この話は、これで終わりにしよう?」

 途端にゲルトはもじもじするのをやめた。やめたかと思うとどっと滝のように涙を流し始めた。

「お、俺、俺……」

 男の人が泣いたのって初めて見たなあと他人事のように思うミア。


 結局その日はその騒ぎで授業がお開きになり、早々に帰された。さあ家に帰ろうという時に真剣な表情をしたゲルトがミアを呼び止める。ゲルトは顔だけはいいので少しでも好意があれば何でも聞こうって気になっただろうが、顔が良い人間が中身も良いとは限らない、という手本のような男としたい話はミアにとってはない。


「俺、償うから」

「いいよ、そんなの」


 笑って言うミアだが、その本心は――どうせ明日でいなくなるんだから――いいよという意味だ。ゲルトのことを信じてもいない。エリザと比べると結局彼は謝ってすらいない。何を信じろと?


 帰宅して無実が証明されたことを報告する。正直自分の心は決まっているが、両親は違うかもしれないから。

「そう……。ねえミア、貴方、まだこの村にいたい?」

 母親は確認の意味も込めてそう聞いた。ミアは静かに首を振る。

「一度壊れたものは二度と戻らないよ」

「そうね。お母さんもそう思うわ」

「おい二人とも、日が暮れたぞ。そろそろ……」


 その日、小さな村からひと家族が消えた。





 ――六年後、国の首都の居酒屋で働くミアの姿があった。


「ねーちゃん、ビール二つな!」

「はーいただいまー!」

「おう追加の注文頼むわー!」

「はーい少々お待ちをー!」


 仕事は毎日忙しいが、忙しいということは繁盛しているということ。ここでの暮らしになれようと必死だった昔を思えば有りがたいくらいだ。


「お待ちどうさま。ビールになります」

「おう! ありがとよ! ねーちゃん今日もべっぴんだな!」

「あらやだ。そんなお世辞いってもサービスはしませんよ」


 常連客とのやり取りはそれなりに楽しい。酒屋に来るんだからみなそれなりに大人だ。若い女とみてセクハラまがいなことはあっても、本気の苛めは誰もしない。あの地獄のひと月を思えば大抵のことは耐えられた。


「まったく王都に戻って来たばかりなのにまた地方巡業だよ。酒でも飲まないとやってられねーっつの」

 常連の吟遊詩人はそう言ってくだを巻いている。愚痴を聞くのも居酒屋では店員の仕事のうちだ。大変だけどたまに貴重な話も聞けるのでそう悪いことばかりではない。

「まあ、大変ですのね」

「本当だよ。あ、そういえばミアちゃんはどこの出身なんだい? 全国回る仕事していると顧客から出身地の話を聞きたいってよく言われるからさ」

「……私、これと言った出身がないんです。小さいころから旅から旅で。六年前やっとここに落ち付いたんです」

「あ、そうなの? 変なこと聞いちゃって悪いね」


 ミアは嘘をついているつもりはない。実際、村には嫌な思い出しかない。捨てた村を故郷と思うのも変な話だ。だから自分に故郷は無い。そう思っている。


「あ、そういえばミアちゃん聞いた? 最近話題の侯爵家の話」

「え? 何かしら」

「昨年の流行り病で跡取りや予備の子供まで全員亡くなったから、地方に養子に出してた子を引き取ったんだって。あれだな、男版シンデレラ」

「まあ……。でもその子も実の親の所に戻れて良かったんじゃないかしら」

「いやそれがさあ。その新しい跡取り、養子先で何があったのか大変な女嫌いなんだってよ。健康そのものだから十数年は大丈夫だろうけど、子孫はどうなるのかって悩んでいるらしい。こういうのも何だけど、偉い人の不幸な話って面白いよな!」

「悪趣味だけど、ちょっと分かります」

「だろう?」


 ――そう、ただの噂話だった。自分に関係のない話だと思ってやまなかった。

 ある日、王都でも寂れたところに住むミアの家に役人と思しき人間がやってくるまでは。


「ゼルメル村のミアだな?」


 ――確かに出身地の村の名前だった。どうして役人がこんなところに住むミアを探してくるんだろうか。心当たりは一つ。夜逃げのこと。でもけじめとして家賃やら水代やらはちゃんと置いていったはずだ。父親が「これでこの村と二度と関わらずに済むなら」 と多めに封筒に入れたのをミアも見ている。なのにどうして?

 困惑するミアを役人が腕を引っ張って連行する。

「お待ちください! ミアが、ミアが何をしたっていうんですか!」

 追いすがる母親を役人の中で一番偉そうな立場らしい男が説得した。

「うちのご主人が彼女に用があるらしくてな。まあ、こんな庶民の娘、一晩もすれば戻れるだろう」

 ぞっとした。咄嗟に想像したのは、女に目が無い色ボケ爺がその辺の庶民の娘を食ってみたくなり、たまたま目に留まった自分を呼び出した、ということだが……。

「まだ子どもなんです! お願いですから……」

 ミアは役人にすがって煙たがられ始めている母を説得した。お母さんはずっと私の味方だった。だから私もお母さんが困るようなことがあったら身体を張るんだ。

「大丈夫よお母さん。何もしてないんだからきっと悪いことにはならないよ。きっと戻ってくるから」


 そうだ。あの暗黒のひと月に比べれば、大抵のことは何でもない。

 濡れ衣で苛められて逃げるような人生だ。白馬の王子様が、なんて夢も見ていない。偉い人にはひたすら従順で。それで命だけは助かるんだから……。


 そう悲壮ともいえる決意を固めて馬車に乗り込む。

 初めて乗ったが、クッションが用意されており寒くはないかとひざ掛けまで渡された。釣る前の魚にはちゃんと餌をやるってことかな。


 そうして向かった先は、見たこともない豪邸だった。石畳に足をつけるのもためらわれたがエスコートされればそうもいかない。

 お城のような家に入ると、ずらりとメイドや召使がお出迎えしてくれた。それだけもぽかんとするのに、メイド達は全員どこぞの姫様と言われても違和感ないくらいの美女ぞろいだった。これで何で私を呼ぶんだろう……? たまにはゲテモノが食べたくなるんだろうか。


 絵に描いたような執事に案内され、立派な一室に入る。そこには物語に出てくるような美男子がいた。が、ミアはどうにも既視感を覚える。どこかで……見たような。


「……ミア」


 名前を知っている。もしかして知り合いだったんだろうか? けれどあの居酒屋にこんな上流階級の人間が来るはずない。ならどこで会ったんだろう?


「村を出て、王都にいたなんて」


 ――その一言で全てが分かった。声変わりしていて声だけでは気づかなかった。成長していて咄嗟には分からなかった。けれどこの容姿は……。


「ゲルト、くん?」


 目の前の男は少し苦し気に笑った。だが後ろの執事が苦々しく忠告する。


「……呼び出されたとはいえ、貴族に対して庶民がその御名を呼ぶなどいささか馴れ馴れしいのでは?」


 ミアはハッとする。そうだ、知り合いとはいっても、もう身分が違うんだ。王都にいる人間は上の者に逆らうなと刷り込まれる。例えそれが嫌いな人間でも、身分が上なら下手に出るまで。


「申し訳ありません。不注意でした」

 そう言って頭を下げるミアだが、ゲルトは執事のほうを注意した。

「やめろ。この人に無礼なことを言うのは俺が許さない」

 ミアはとりあえず自分が責められているようではないようで安心するが、でもどうしてゲルトくんが私を? と思わずにいられなかった。……思い出すのは苛められていた期間のことばかり。また苛めたいです☆ とか言われたらどうしよう。そう怯えるミアにゲルトは優しく語りかける。


「ずっと、君に謝りたかった。侯爵家の跡継ぎになった時、もしかしたら王都にいないかと思って探させたけど、本当にいるなんて」


 侯爵家。そういえば噂でそんな話を……え、あれゲルトくんのことだったの?


「ごめん。ごめん……」


 ミアはずっと気にしてくれていたんだ、と感動するよりは、何でまた、という気持ちのほうが強かった。

 しかしゲルトにもゲルトなりの事情があった。



 ミアに優しく諭され、明日から償っていこうと決意した矢先、ミアの一家が村から消えたと村長から聞いた。誰も何も言わないけれど、ゲルトが先導してやっていた苛めが原因だろうとは皆が思っていた。ミアと違って高貴な方の血筋であるゲルトに面と向かってそのことを言う人間はいない。そう、面と向かって言う人間はいなかったが……。


「……でもミアちゃん可哀想だったよね」


 その頃、ゲルトは教室にほのかに憧れていた少女、リタがいた。ミアを糾弾したのもその子に頼りになると思われたい気持ちがあったからだ。その子がゲルトが扉一枚先にいることに気づかずに友達と喋っている。好奇心のままに扉に耳を近づけた。盗み聞きなんてみっともないとは思ったが、好きな人の事を少しでも知りたい一心だった。


「リタったら。そう思うならあの苛めを止めれば良かったのに」

「え~無理だよ~。率先してやってたのゲルトくんじゃない。彼に逆らえる人なんてこの村にいる?」

「ま、そうだよね。ゲルトくんじゃね。でも彼、リタのこと気に入ってるっぽくない? 頼めば苛めやめたかもよ?」

「えー! ちょっとやめてよ。あんなのに好かれても嬉しくないし! なんか誤解のたびに殴られそう」

「でもリタってさ、ちょっと前までゲルトくんのことかっこいいとか言ってなかった?」

「顔だけ良くても仕方ないじゃん。中身がどうしようもないクズじゃちょっとねえ」


 頭を殴られたみたいに放心した。憧れていた子からのまさかの言葉。村の皆、誰も表向きは何も言わないけど、あれが本心なんだ……。

 それからリタには関わらないで過ごそうと思ったが、翌日も相変わらず「今日暑いね!」 とニコニコしながら話しかけてくるので困惑した。もしかしたら幻聴だったのかとこっそり話を聞くと、前よりも酷いことを言っていた。


「それならあんたがゲルトくんと付き合えばいいじゃん」

「やめてやめて、悪魔男怖い! ゲルト悪魔!」

「あー、それゲルトくんに言っちゃおうかなー!」

「やだー! あの人でなしに村追い出されちゃう!」


 けらけら笑って言うその姿にどうして確かめようとしたのだろうと心底後悔した。

 そもそもどうして傍観してたリタがゲルトをああまで言うのだろう。苛めていたミアのほうがずっと優しかったのに。


『ゲルトくんは優しいよ』


 あの声だけが、ゲルトの心を慰めた。時が経つにつれ薄れるかと思ったが、村の人間の酷薄な態度を垣間見るたびにゲルトの中でどんどん神聖視されていった。相対的に他の女性に何も思わなくなった。

 村の人間、特に女はあのことを知っているから自分を内心見下している。侯爵家に来てからも、村の外の人間は知らないから愛想はよかったけれど、どこからか昔苛めて少女を追い出したと聞くと陰でクスクスと笑うようになった。

 ミアに会いたい。どの面下げて、と言われそうだが、ミアに会いたい。彼女だけがゲルトの中で「女性」 だった。



 ……という事情を知らないミアからしたらやはりゲルトの態度は不気味だった。確かに最後にそういう話したような気もするけど、だからって何年も経ってからこういうことされても……。



「あの、ゲルト様。昔のことなら気にしておりませんので」

 正直早く帰りたい。明日も仕事なんだけど。そう困惑するミアを見て、ゲルトは執事に言って何か箱を持って来させた。


「これ、何の詫びにもならないと思うけれど」

 賠償金みたいなものだろうか。くれるというものをわざわざ断るのも庶民風情が何様だって怒られそうだし……。

 結局貰って帰途につく。帰ってから開けると純金の置物だった。これをお金にしろってことなんだろうか。

 しかしそれを見た両親、特に父親は怒った。


「誰かと思ったら侯爵家の跡取りってあのゲルトだったのか……。相変わらず無神経なやつめ。こっちは思い出さないことで平穏にやってるのに、物なんか寄越したら見るたびあの頃を思い出して気分悪くなるんだよ。相変わらず自分のことしか考えてないな」


 内心父親の意見にもっと言ってと思うミアだったが、頭に血が上っている父親を見て逆に冷静になったらしい母親が言う。


「そうかしら。何年も忘れないでいて、偉くなったのに頭を下げて高価な物を渡して……本当に後悔してないと出来ない行動だと思うわ」


 確かに、こっちはすっかり忘れて日々過ごしてたけど、その間彼はずっと後悔してたのかな、と思うとちょっと申し訳なくなるような。あの時は謝りもしないくせにと思ったけど、さっきはちゃんと謝ってくれた。……貴族になったのに庶民に非を認めるなんて。

 しかし笑いながら罵倒された日々を思い出すと、やはり許せないという気持ちがわいた。


 人間の本性がそう簡単に変わるものか。次があるのか分からないけど、次会ったらちゃんと迷惑だって言ってやめさせる。謝られたってあの日々が無くなる訳じゃないんだもの。消えないならせめて思い出させないようにしてほしい。ゲルトくんの顔を見たら嫌でも思い出してしまう。

 そう思っていたミアだが、次の機会は翌日に訪れた。

 小さな馬車でミアの家の前までゲルトはやってきたのだ。


「殺風景な景色に小さな家だね。……あの時俺が追い出したから君はこんな暮らしを……」

 いやいつ貴方が追い出したんですか。自分から出ていったんですけど。何か記憶が混ざってない? あとこの暮らしが王都の平民の一般的なものだと思うけど。最初の頃はともかく今は別に不自由もしてないし。


「今日はこれを」


 そう言ってゲルトが差し出したのは高価なものだと一目で分かるオルゴールだった。綺麗なものを見るとどうしても女心はうずく。ましてこんなもの今までの人生で見たことがないしこれからも縁のない日々だと思っていたのだ。文句を言うのを忘れる。


「それじゃあ……」


 話が終わると彼はすぐ去っていった。貰ったオルゴールは優美な音色を奏でていた。

 翌日も彼は何かを持って訪れたが、ヒモじゃないんだからと思ってミアはさすがに注意する。


「ゲルト様、あの……」

「え? 何?」

「心苦しいです。どうしてここまでしてくださるんですか? お返しもできないのに」


 遠回しに迷惑だ、と言っているのだが、ゲルトは遠慮しているのだろうと取った。


「俺としてはもっと送りたいくらいなんだけど」

「い、いえ。困ります。うちみたいな家があんな高価な物……盗んで来たかと思われます」


 せっかくプレゼントしてやったのに、と怒られるだろうかと思ったが、ゲルトはそれを聞いて青くなった。


「あ、そっか……そうだよな。俺、また君に迷惑かけて……何も変わってないな」


 ずるい。そんな傷ついた顔をされたら無下に出来ないとミアは思う。


「昔のことなら気にすることないんですよ。私、過去のことでゲルト様を縛りたくない」

 気にしてるならむしろもう会わないでくれと思う。そうするのがお互い平穏なんだから。


「そんなの無理だ。だって、君がこんなに優しいから……相変わらず優しいから……君がこんな場所にいるのも心配で、少しでも君の歓心を買いたくて、気がつけば贈り物をしてしまうんだ。あんなことをしたんだ。再会した時怒鳴られても仕方ないと思ってたのに、君はまるで俺が優しい人みたいに扱ってくれる。救いを求めたくなるんだ」


 それもう病気じゃないかなあとミアは思う。何があったか知らないけど苛めたことで相当あれこれ言われてトラウマになってるんだろうか。けどそれを私にぶつけられても。あと私が君に優しいのは、昔は妨害なく逃げるためで、今は身分が上の相手だからで別に私の本心じゃない。理想を押し付けられるのもしんどいからこのへんで終わりにしてくれないかな。


「ゲルト様、でも私のようなものが身近にいたら、色々差しさわりが出て来るでしょうし。庶民の女が周りをうろうろしているなど未来の結婚相手はどう思うでしょう」


 正論で説得しようとしたミアだったが、ゲルトの顔色が変わった。


「……そんなこと聞くってことは、実はミアには恋人がいたりするの?」


 がっしと肩をつかまれて言われる。その表情は無そのものでなんか怖い。


「あの、痛い……いません、いませんから」

「あ、ごめん。でもそうか。いないんだ……」


 向こうがひたすら下手に出てくるから今まで気楽に話せたけれど、ミアは急にゲルトが怖くなった。トラウマかなって思ってたけどまさか私のこと……いや、まさか。


「ゲルト様は好きな人はいらっしゃらないんですか?」

 いくら女嫌いっていっても屋敷にあれだけ美女がいたら一人くらい気になる人がいるはず。ミアはそう呑気に考えていた。

「……」

「あ、あの……」

「君。……って言ったらどうする?」


 怖いです。それがミアの正直な気持ちだった。けれど再会してからよく尽くしてくれるし、あの頃の横柄な態度が綺麗さっぱり消えているのは認める。むしろ昔の傍若無人そのものだった姿を知っていると、なおさら今の卑屈めいた様子が哀れに思えてくる。腐っても貴族だし、まあリップサービスくらいなら……。


「素敵なことだと思います」

 でも例えばの話でしょう? と続く前に抱きしめられた。

「ありがとう……ありがとう。一生大切にするから。もう二度と、誰からも君を傷つけさせないから」

「あ、あの……」

 女の子が夢見るようなプロポーズのシーン。けどゲルトの目に一切の光がない。これ絶対ロマンチックなシーン違う。

「父に相談するよ。待っててね」

 何を相談するんだろう。嫌な予感がするので両親にもう一度夜逃げって出来るかと聞いた。

「どうしたんだ? あれは準備が必要だし、田舎から王都へはともかく王都から田舎へはな……どこもよそ者には厳しいだろう」

「母さんも今の仕事をやめるにも手続きが必要だからちょっと……何かあったの? ミア」

 いっそ一人で逃げようか。いやでも残された二人が……。

 そうこうしている間に馬車が来て両親共々乗るように言われる。

 ついた先は侯爵家で、長々と小難しい話をされたが要するに私をどこかの貴族の養女にするからゲルトと結婚してねということらしい。いやなんで?


「あの、仕事が……」

「大丈夫。もう連絡しておいたから。ご両親のところにも」

 何したんですか? ねえ何したんですか? さすがにドン引きして後ろに後ずさるミアに執事が声をかける。


「ゲルト様は本当に異性に関心がなく、お世継ぎが危ぶまれていたので……。元の身分など些細な問題です。貴方様もこうすることで安泰な生活が送れるのですよ」

「どうして私なんですか」

「あの方が貴方様以外に一人でも反応すれば話は違うのですが……」


 苛めた相手に縋るとか恥ずかしくないのだろうかとちょっと思ってたが、なんかそれどころじゃないような話を聞いた気がする。反応って話しかけても応答がないとかじゃないの? 下世話だけど夜のほう? 


「ミア様。お召し代えをお手伝いいたします」


 濡れたタオルで身体を拭くだけの生活だったのに、お湯たっぷりのお風呂は物語に出てくる王女様にでもなった気分だ。入浴後にメイドが持ってきたのは女の子なら誰もが憧れるようなドレスの洪水。それを収める部屋もなんて綺麗なことか。

 

 ただそれでもずっと現実感がない。夢の中にいるようだ。結婚……私とゲルトが? 昔のままのゲルトだったら死んでも抵抗しただろうけど、今のゲルトは人間に苛められまくった子犬みたいな風情で、嫌だというのは罪悪感が……。無理に逃げても両親がどうなるか。そもそも無理に逃げようと思うほど今の条件は悪くもなく。一家三人で働いているけど首都に住むにはお金がかかりまくる。愛情なんかなくても向こうがどうしてもって言うなら結婚してやってもいいんじゃないか、今まで通り良い人の仮面をかぶって。そうするだけで一生お金に不自由しないんだから、と俗な考えがわいてくる。

 そう部屋で考え事をしていると、メイドが式に関する書類を持ってくる。受け取ろうとして、ミアの指が切れた。


「い……つ」


 そこへちょうどゲルトが入ってくる。ミアの指の血を見てメイドに激怒した。


「お前がミアに怪我をさせたのか!」

「も、申し訳、申し訳ございません!」

 必死に謝るメイド。怒鳴りつけるゲルトは何をそんなに怒るんだろうと思うくらい怖い。

「ゲルト、そんなに怒らなくても……」

 止めるミアにゲルトはこう言った。

「二度と傷つけないって約束したじゃないか。だから……一度でも傷つけたやつは追放するか死罪を与えるしかないんだ。このメイドも紙職人も君を傷つけるやつ予備軍だ」

「ゲルト……」

 支離滅裂なことを言うゲルトを見てミアは――優越感を覚えた。


「大丈夫。大丈夫だから。私の好きなゲルトくんは無闇に人に罰を与えたりしないよ」

 そう言ってぎゅっと抱きしめると、母親に甘えるように抱きしめ返してくる。


  ……同じ人間に、昔雑巾投げつけられたり叩かれたりしたんだよね。

 ここで私が何もかも忘れて諦めて好きになればハッピーエンドなんだろうな。

 

 それが出来るほど私の心は広くない。


 一生聖女の仮面を被って相手してあげるから、お金に不自由はさせないでね。貴方が好きになったのも仮面を被った私なんだから。


「ミア……ミア……」

「うん……大丈夫」

 見方を変えれば、昔はサンドバッグ。今は都合の良い相手。私ばっかり被害者よね。だから――一生騙すことに罪悪感なんてこれっぽっちもないわ。

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