第4話 ポケット
嫌わないで嫌わないで、嫌わないで。それでも、私を嫌わないで。
私は何かの呪文みたいに呟く。それが精一杯で、多分、全てだったから。
「金山さんは強いですね」
ぽつりと、藍色のパスタ皿を洗いながら新村君が言った。無機質な水の音がゆるゆるとBGMを奏でる。私は洗われた皿を拭きながら、心がしんと落ち込む音を聞いた。閉店間近の22時5分前の話だった。週の中日のせいか、最後の客ももうとっくに帰っていた。
新村君はバイト先の後輩である。私たちは駅からほんの少し外れにある小さなイタリア料理店でバイトをしている。小さな黒板にメニューが書かれたよくあるシンプルな造りの店。私の方がバイト歴・年齢共に彼の2つ先輩だ。そこそこ割のいい給料に、そこそこ美味しくてお腹がいっぱいになるまかないが魅力で始めたバイトだった。バイト仲間は私と新村君と、あまりシフトを入れない先輩の3人だけである。小さな店なので、店長(兼シェフ)と店長の奥さんとこのメンバーでシフトを回している。月曜日と隔週火曜日が定休日。私は、このほの暗くて洞窟みたいな店を割合好いていた。
新村君はいかにも大学一年生らしい、とりあえず染めてみたといった感じの、少し明るすぎる茶髪をしている。切れ長の目の、年の割にはとても落ち着いた雰囲気の青年である。髪型以外はとてもいいこで、くるくると素直によく働いてくれる。実際新村君とシフトが被る日は、よく喋る割にあまり手が動かない一つ上の先輩とやるよりよっぽど仕事が捗るのだった。私は新村君をだからこの店と同じくらいには気に入っていた。ほの暗い洞窟みたいな彼を。その新村君が、唐突にこんな失礼なことを言ったのである。
「どういう意味なの」
私は内心の動揺を悟られないよう何気ない調子で尋ねた。この種のことに悪気はないのだ。大概が。私はわかっていた。特に新村君ならばきっとそうだろう。そのくらいには、私は新村君を信頼していたのである。私の心をよい方にも悪い方にも粟立てない彼だから。わかってはいても愉快ではなかった。はっきり不愉快と言えるほどの気持ちもなかったけれど。でも新村君はそんな私の困惑に気付かないままくるりスープ皿の泡を流した。そして彼はそのままオリーブ色のエプロンの端で指を軽く拭いた。ごく自然な動作で。
エプロンといえば、新村君のエプロンのポケットはいつも私のより一回り大きく妙に膨らんでいる。一度「何が入ってるの?」と何気なしに尋ねたことがあった。すると彼はこともあろうに、
「幸せです」
と(何故か)顔を赤らめながらサッと手で隠した。それ以来私はポケットについて尋ねたことはなかった。普段あまりジョークを言い合うような仲ではないので、余程隠したかったのだろうと判断したのだ(そして私もそれに対する反応の正解がわからなかったのだ)。
「んーとですね、」
新村君はちらっと私を見たあと、視線を皿に戻した。そして訥々と話し始める。新村君の話し方は静かで低くてぽつぽつとしていて、ゆっくり拍をとるメトロノームみたいなのだ。
「実は僕生活費だけ自分で出してるんですよね。一人暮らしの。別に実家が貧乏とかじゃなくてただの教育方針なんですけど。だから他のやつらよりはバイト忙しいしそんな遊び歩いたりは出来ないんですけど、どっかでそれに優越感…?は違うな、何だろう、誇りみたいなもの持ってて。でもどっかでは不満だらけで。なんですけど、僕この前…あ、すみません、退屈ですよねこんな話」
新村君は話始めた時同様、唐突に話を止めた。私は目で話の先を促した。そこで新村君は困った顔がよく似合う青年なのだと初めて気付いた。新村君は皿洗いと話を再開する。泡がふわりと跳ねた。
「えっと……あ、すみません泡とびましたね。大丈夫ですか?あ、よかった。……その、この前店長から聞いて。金山さんお父さん亡くされてて、お母さんも体弱くて、金山さんがほとんど大黒柱になってるって。それなのに勉強もすごくて奨学生として大学通ってるって。なんか、それ聞いて、俺…あ、僕、恥ずかしくなって。どっかで回りのこと馬鹿にしてたからそれまで……なんてゆーか、お前らとは違うんだぞ、えらいだろ、みたいな……すみません、やですよねこんな店長から個人情報又聞いた話なんて、すみません」
新村君はそう言うと、少し頬を赤らめて、薄青いグラスの泡を流す。排水口に吸い込まれたそれは私の気持ちの様だった。またか、と思った。仕方のないことだけど。でもこのこは本当にいいこなのだな、とも思った。しいて言えば悪いのは新村君ではなくて、シフトを決める際に簡単に説明した他人の家庭の事情を勝手に漏らした店長である。それでも、自分勝手な私はやはり新村君に少しだけがっかりしていた。がっかりするという現象は、何だろう、すごく消耗する。怒りや悲しみに比べて、より自分にも非があるように感じるせいだろうか。私は、そうだ、今でも自分の非に追い詰められている。かつて、新村君と同じ様に私を強いと言った人に。とても弱い、弱い人だった。
幼馴染みだったその人が死んだのは、中学2年の夏の終わり頃のことだった。
多分、自殺だった。私に何が出来ただろうか。と幾度となく私は私に尋ねた。答えは至極単純でわかりきっていた。たった一つだ、何も出来なかった。だって彼女は私に無いもの全てを持っていたのだから。
彼女はとても恵まれていたと思う。少なくとも私はそう思っていた。優しい両親、均整のとれた顔、ほっそりと美しい体、努力しなくとも行く宛のある家計、たくさんの友達、素敵な恋人。彼女が得られなかったものがあるとすれば、せいぜい私の本心位だったろう。それでも彼女にとっては些末なものだったに違いない。ただ、人より少しばかり長く互いの存在を認識していたというだけで。そして私は心底彼女が嫌いだった。悩むべきところではないところで無意味に悩んでいる彼女が。
彼女はでも死んでしまった。このまま生きていても先が見えてしまうのだそうだ。だからどちらにしても同じだと考えたのだそうだ。だから、彼女は最も美しく皆に愛されていた絶頂の時を選んで亡くなった。彼女の経歴におけるただ一つの汚点は私だったかもしれない。私は彼女が心底心底心底嫌いだったから。
家庭環境も容姿もどん底の私はでも生きることに貪欲だった。彼女は私を見て、こんなことで悩んでちゃだめだよねとよく言った。それはぽつりぽりと、雨粒に打たれた革みたく私の心に染み付いた。貴女は強いわね、と。私は弱いから、と。霧雨みたいな声で彼女は時折そう言った。夢を見ているみたいに。でも現実しか見ることの出来ない私は、彼女が存在しない世界をよく夢で見た。でもそれは決して彼女の死を望んでいたとかではなく、本当に最初から彼女が存在しない世界だった。その世界でも、結局私は不機嫌だった。だから本当は同じだったのだ。彼女なんていてもいなくても。けれど彼女はいなくなってしまった。あんなにも、幸せだったのに。ポケットいっぱいの幸福を溢れさせて、その価値に気づかないまま彼女は、消えてしまった。まるで最初からいなかったみたいに。
彼女がいなくなってしまってからも、彼女のような少女は何度か現れた。私はあの日以来、より一層そうした少女らと近付きすぎることのないよう気を配るようになっていた。そうして離れた場所で彼女らを見ていると、ぼんやりと共通性がわかるようになった。そんな風に分析を始める自分がひどく冷酷なことも理解はしていた。何故だろう、そうした少女は大抵皆、優しい友人たちに囲まれ、恵まれた家庭環境に育ち、美しい容姿を持っていた。あのこと同じように。そして、SNSで息苦しさを呟いた。言葉では自分の容姿を卑下していた。そのわりに自分の写真を載せるのだ。そして、皆はいつも「可愛いよ」「大丈夫?」と声をかけてあげるのだ。私は彼女たちよりも皆の優しさに驚いた。あのこの、一番側にいた私があげなかったもの。皆が当たり前のように注いでいる優しさ。それを、私は与えなかった。自分が不幸であると考えている暇があれば私は家のことや勉強に時間を割きたかった。不幸ぶる暇などなかった。でも彼女は、私にそれを思い出させた。
だから私は彼女の求めるものをあげるのを止めたのだ。
だからだ。
私のせいで彼女は死んだのだ。
私は気づいてしまった。そう、気付いてしまっていたのだ。もうとっくに。
私のせいだったのだ。
私が持たない何もかもをも持ちながら、努力もせず不幸ぶる彼女がそのくせ私を不幸にさせたがる彼女が憎かった。その憎しみで私は彼女を殺したのだ。自らの手を汚さないという一番汚い手を使って。
彼女が死んだあと、彼女の両親はぽつりと言った。彼女は、亡くなる少し前から心のセラピー教室に通い始めたばかりだったという。真っ白な家の。そこでの彼女は、すごく穏やかそうだったのだという。私は何も知らなかった。知ろうともしなかったのだ。ある時期から、毎週水曜日だけ彼女は私と帰らなくなった。いつもやたらとくっついてくる彼女が。でも私は尋ねようともしなかった。何も。
私は、自分が化け物のように感じた。
この苦しみは、彼女を失った悲しみではなく、彼女を消した罪悪感によるものだと思った。だって私は、彼女が嫌いだったから。でなきゃ辻褄が合わない。そこまで私の心は人でなしだったのだ。彼女は、私を強いと言った。あなたは強くていいわね、と。無邪気な人だった。私よりもずっと、心の綺麗なこだったのだ。本当は。純粋に、信じていたのだ。
私はこんなにも醜いのに。
お願い、私を嫌わないで。私を一人にしないで。こんなにも醜くエゴイストで狡い私を、どうか嫌わないで。私は強くなんかない。私は強くなんかない。私は人を羨むことしか出来ない。親友の死を悼めない。それすらも妬む始末だ。私は醜い。私は。
「私は強くなんかない」
自分でも戸惑うほどの震えた声が出た。唐突にこんな声を出されたら、出された相手も戸惑うだろう。一欠片こぼれ落ちた私の醜い本心。私が決して彼女に与えなかったもの。あんなに憎んでいながらも、彼女から私は、離れることが出来なかった。嫌われたくなかった。そうだ、私は、彼女に。
私は、彼女にがっかりされたくなかったのだ。
「え?」
「私は、幸せでいっぱいのポケットに気づかないで私を強いと称する人間を憎しみで見殺しにするような人間だよ」
私は新村君の顔を拳で潰すような気持ちで見つめた。粘土のようにぺちゃんこに。新村君は、でも、私の予想とは裏腹に怯まなかった。きゅっと水を止める。彼はひどく、冷静な顔をしていた。私は驚いた。新村君は包み込むみたいに口を開いた。私を真っ直ぐ見ながら。
「僕は幸せにもポケットがあるように、苦しみのポケットもあると思うんです」
「……」
私は彼は何を言っているんだろう、とぼんやり思いながら、同時に新村君の顔を初めてちゃんと見たような気がしていた。彼はこんな顔だっただろうか。でも、呆けた様な私をしゃんと見据えたメトロノームはコツコツと柔らかな音を刻み続ける。私を守るように。
「金山さんの苦しみのポケットは、多分人よりもとても大きいんじゃないかって。簡単に溢れたりしないように。その重たいポケットを持つ強さがある人だと思ったんです。だから、金山さんが苦しんでないとかじゃなくて、なんだろう。すみません、上手く言えないや……ただ俺は」
新村君は言葉を切ると、私のエプロンのポケットをひっぱった。そして、自分のポケットから何かを取り出して私の方に入れた。そしてひたすらに、出しては入れて、出しては入れてを繰り返した。
私のポケットは次第にパンパンになっていく。ついにはポケットからそれらがぽろぽろと溢れだした。キャラメル、チョコレート、キャンディ、マシュマロ、エトセトラエトセトラ。
こぼれていく、ありったけの彼の幸福。
「俺は、あなたの大きな苦しみのポケットを幸せのポケットに変えたいんです。そしてそれを溢れかえさせたいんです。変なこと言ってすみません。とても、強くて弱いあなたを、俺は、あなたが……その、あなたが、」
段々と支離滅裂になりながら、真っ赤に染まっていく新村君を私は上手く見ることが出来ない。新村君のポケットはもうぺちゃんこになってしまった。私のポケットはパンパンだ。彼の幸福で。なのに新村君は、幸せが溢れてるみたいな顔で困ったようにはにかむのだ。空のポケットを携えて。
水曜日の子どもたち 陽本雨響 @himotoukyou
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