第3話 幽霊の住む城
隣の家に住む幼馴染みの太郎君がひきこもりになってしまった。
もう2週間も部屋から出てこないのだそうだ。あの大きくて白い綺麗な家から。よく手入れされた大きな庭木のある。それをどこかから聞き付けた母は、やけに張り切って私に太郎君を説得するよう勧めた。私は下着姿で本日2本目のソーダアイスを舐めている最中だった。
「何で」
威張ったように指令する母に、私はごく全うな疑問を口にした。
太郎君は私の幼馴染みである。
住宅が密集したコンクリートまみれのそこに私達は生まれ育った。ただし私達の家は酔っ払ったらよく似た他人の家と間違えて入りそうなよくある画一的なデザインであり、一方の太郎君の家は白く四角く他のご近所と比べてもかなり大きい、デザイン重視といった造りの家だった。でもご両親は決して金持ちの嫌味なそれを醸し出している様な人柄ではなく、ほわりと静かに微笑む上品そうなタイプのお金持ちだった。要するに私と太郎君は小市民とお金持ちだったのである。
小学生の頃、隣家である私達は同じ分断に属していたため何人かの近所の子供たちと共に毎朝一緒に登校していた。とは言っても異なる性別であるし先程も挙げた通り私達はそもそもがてんでお家柄が違う。だから私と太郎君はつかず離れず穏やかに幼馴染み付き合いをしていた。うちなんて昔からここに住んでいたおじいちゃんの土地がなければ、小さいとは言えこのような閑静な住宅街にマイホームを建てられるわけがなかったのである。
だから母の提案はあまりいい案とは思えなかった。
そりゃ母の願いなら叶えてあげたいが、小学校卒業以来太郎君と私はもう5年くらいもまともに会話していないのだ。大体にして太郎君はやたら偏差値の高い中高一貫校に通っていたし、私はと言えば地元の公立校を中・高共に順調かつ無難に選び進み生きてきた。そんなわけで小学生時代ならばまだしろ……いくら幼馴染みとはいえ……若者としての生活圏がまったく異なる人間がやいやい口出してきたらたまったものではないだろう。私だったら大きなお世話だしいい迷惑だと思う。母だってその位は承知しているはずだ。だから私は素朴に疑問を口にしたのだった。
しかし母はそんな私の戸惑いなんて気にするそぶりもなかった。それどころか、
「だってどうするのよ、あなたそんな格好で嫁の行き手もないんじゃないの。将来有望な男の子に恩を売っとくのも損じゃないわよ」それに私だっていつまでも見守ってあげられるわけじゃないんだから、と言い放った。
でも結局、割合素直な私もそれもそうだと思ってしまうから始末がない。母の言うことは大抵正しいのだ。私はアイスの棒をゴミ箱に投げ入れると、クリーニングからかえってきて以来床の間にぶら下げっぱなしだったワンピースを着た。誕生日にしか着ない純白のワンピースだ。パンパンと裾をはたいて2階に上がり、自分の部屋へ向かう。心地よく乱雑にしてある私の城だ。ベットの脇には大きな窓があり、今日みたいに暑い日はいつも開けてある。それは隣の太郎君のうちも同様だった。私は私の部屋の窓の格子に足をかけ、50㎝位先にある太郎君の部屋の窓の格子にもう一方の足をかけた。そしてそのまま彼の部屋に転がり込んだのだった。
「うわっ」
太郎君は運悪く窓の下に座り込んでいた。おかげで私は上手いこと彼の上に着地してしまった。
「ごめんごめん、久しぶり」
「びっくりしたなぁもう」
太郎君はあんまりびっくりしていない声でそういう。そうだった、太郎君はこんなやつだった。端正な顔立ちに、繊細そうな白い肌。飄々とした物言い。真夏なのに白い長袖のYシャツ。如何にも弱々しい病弱な王子様みたいだ。いや、むしろお姫様のほうがふさわしい。
「いやね、太郎君を外に連れ出そうと思って」それで私は思わず王子様みたいなことを言ってしまう。お姫様をぬくぬくとしたお城から連れ出す王子様。
「なぜ」
太郎君はさっきの私と同じことを聞いた。そりゃまあそうか。
「いや、結婚しようかと思って、太郎君と」
「僕と、君が?」
「そう、君と私が」
「ふぅん、別にいいけど」
太郎君はそう言ってから、おかしそうに笑った。
「相変わらず君は変わっているねぇ」
私は、でもその種の言葉を褒め言葉と思い込んでいる節がある。少し調子づいてきた私は太郎君を軽く諌めることにした。
「太郎君も相当だよ、こんな暑い日にひきこもりになったりして。せめて冬とかにすればいいのに、冬眠って名目も出来るし」
「うん、でも」太郎くんは長い睫毛をしぱしぱさせた。
「でも?」
「僕はもう、外に出たくないんだ」
「なぜ」
「傷付けるから」
太郎君があまりにもさらりとそう言うものだから、私はバカみたいと思った。
太郎君の部屋はすごく整然としている。小難しいタイトルの小説や、暑苦しいタイトルの問題集がずらりと並んでいるのだ。私がイメージするひきこもりと違って漫画もゲームもテレビもそこにはない。いかにも太郎君の部屋だ。健やかで不健康な部屋。私はごろりと地べたに転がった。太郎君の部屋なら、多分ひきこもっても清潔だ。でも太郎君はそんなはしたない私にも嫌な顔をしたりはしなかった。ただ、すがるような目で私を見てきただけ。私は悪くないなぁと思った。
「傷付いたんじゃなくて?」
「うん、傷付けるんだ。わざととかだったらまだいい。後からいくらでも謝れるから。でも、人はそれと知らないうちに人を傷付けることが出来るんだ。それに気付いてしまったから、僕はもう、ここを出ないことに決めたんだ」
「でもそれで、お母さんたちを傷付けているとは思わないの」
太郎君は目をぱちくりさせて、「気が付かなかった」なんて言うものだから私は少し気が抜けてしまう。
「それで誰を傷付けたのよ」私は仕方なしにそう聞いてあげる。太郎君が聞いて欲しいのはわかっているからだ。それをあえてしなかったら、太郎君の言う『わざと傷付ける人』になってしまう。私はそちらの方が嫌だった。太郎君は、少し戸惑った顔をして、それから小さく口を開いた。
「クラスの友達」
「親友?」
「そうでもないけど」
「ふうん、何て言ったの」
「お前なんて虫歯だらけのくせにって」
太郎君は、あまりに情けない顔でそんなことを言うもんだから私はうっかりキスしてしまいそうになった。気だるい空気を食べていると、次第にそんな怠惰な気持ちになってくる。実に人間的な私だ。だったあんまり可愛いんだもの。
「何だってそんなこと言ったの」
それにしても暑い部屋だった。太郎君は汗ひとつかいていないが、私は暑くて仕方なかった。自分の体を汗が蛇のように這っていく。母は大丈夫だろうか、とぼんやり考える。母の部屋は日陰であるし、かなり強くクーラーをかけてきたはずだけれど。私はもうすっかり仰向けになってうつ向く太郎君を見上げた。星空よりも綺麗な風景だ。美しい男が整然とした部屋で子供のような瞳で懸命に私を見下ろしているのだ。私は幸福だと思った。随分と久々に。
「ただの、冗談のつもりだったんだ。彼はいつも僕より勉強ができて、僕はそれがとても嫌だった。それで彼が歯科検診でぼろぼろにひっかかっていたのをからかった。彼は一瞬困った顔をした。それから、またいつも通りの愉快そうな顔に戻った。でも僕は、その一瞬がなぜか忘れられなかった」
太郎君は淡々と物語る。でも懸命に。それは離さないで、離さないでと静かに呟くような声だった。だから私は彼を愛しいと思った。幾ばくかの冷ややかさと共に。
「それから暫く後、僕は彼と一緒に行った図書館で、彼が下宿しているという彼の従兄弟に会った。彼が席を外している間、その従兄弟と雑談をしていた。従兄弟は、何気なく彼がずっと長い間、実の両親から虐待を受けていたことを僕に言った。僕は、昔見た新聞の記事を唐突に思い出した。子供の虫歯が虐待の手がかりの一つになるという記事だ。虐待を受けている子供は、歯磨き何て概念すら知りようもないから。そして彼がどんなに死にもの狂いで勉強してきたかを知った。如何に僕が彼を傷付けたのかも」
言い終えると、太郎君はぽろぽろと涙を流した。蟻から見た雨みたいな涙だった。私はでも、ぼんやりと母のことを考えていた。多分、その従兄弟はわざと傷付ける人だったのだ。太郎君以上に純粋に、その友達のことを妬んでいたのだろう、きっと。
でも私は、それを太郎君に教えようとは思わない。太郎君が傷付くことを知っているから。
太郎君は何にも知らないだろう。例えば、父に殴られたきりもう一週間も目を覚まさない私の母のことだとか、それきり帰ってこない父のことだとか、時折語りかけてくる母の思念だとか、知らぬ間に私を傷付けている太郎君の言葉だとか、そういった煩わしいものたちのことを。
自分勝手な私は、だから「誰かを傷付けた分だけ私を愛せばいいんじゃない、釣り合うわよ」と呟いた。闇雲に放ったボールみたいに。そうすると太郎君は少し困ったように笑うのだ。私はそうすると逆に悲しくなってしまう。太郎君がよいこだから。
開いていた窓から一陣の風が吹いた。汗の上を撫でていく。ふいにワンピースが膨れ上がり一瞬だけ私の痣だらけの太ももがむき出しになった。
太郎君は、然り気無く枕を落としてそれを隠した。
そうして私は、困り始める自分に気付く。愛しくて憎らしくて悲しいと思う。手を伸ばしたいのか、伸ばして欲しいのかわからないのだ。だってそんなこと誰も教えてくれなかった。
太郎君はわざと何も言わない。微笑んだまま私を待っている。静かに私を待っている。本当は泣きそうなくせに。正解が、わからないくせに。
私は腹が立つ。父にも母にも太郎君にも。大きく手を広げて、私のめちゃくちゃなボールを逃さないように、彼は、わざと黙って私を待っている。いつまでもいつまでも。
私はでも、どうしたらよいのかわからない。
助けを求めて外に顔を向けると、窓越しに見える私の城で母の思念が幸せそうに手を振っていた。
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