第2話 小さな城
例えば、貴方が逃げていく白い犬を見た時、お気に入りの眼鏡を買った時、信号に三回連続引っ掛かった時、一番に伝える相手が私でありたいの。
その人は、そういう告白の仕方をする人だった。その頃の僕は既にちょっとした小さなことにさえ彼女を連想してしまう位には彼女を愛していた。つまりとっくに彼女は僕にとってのそういう相手になっていたのである。
彼女はとても繊細な人だった。蚊を潰す前にじっくりと観察し、そうしてその命に気付き、潰せなくなって狼狽してしまうような弱さを持つ人だった。ベジタリアンだろうが僧侶だろうがどうやったって何らかの命を奪ってしまうのは仕方のないことだ。でも僕は決してその言葉を口にすることはなかった。だってそんな当たり前のこと彼女もわかっていたからだ。それはどうにもならない種のことだった。例えば、真っ白な部屋の真ん中に大きな埃が一つ落ちていたら誰しもが拾いたくなるだろう。それと同じくらいどうしようもない衝動だったのだ。彼女にとっては。
「そこいら中に目玉があるの」
彼女はよく、その気持ちをそのように評した。
「椅子にも天井にも食べ物にも何もかもに目玉がついているの。1歩踏み出せばその目玉をきっと踏み潰してしまうの。それが、とてもとても怖いの」
でも、僕に、何が出来ただろうか。彼女が命を大切にすればするほど、皮肉にも彼女自信の命は無下にされるのだ。だから僕はその役目を僕が担うことにした。彼女が僕の分まで(あるいはそれ以上)他の命を大切にするのだから、僕が彼女のために生きたところで何の問題もないはずだった。むしろ上手いこと均衡が保たれたんじゃないだろうかと思う。でも結局のところ僕に出来たのは、ただ彼女のおかげで僕が今生きているのだと彼女に知ってもらうことだけだった。勿論彼女がいなくても僕は生きていけた。日常は残酷なものだから息を吸って吐けば僕らは生きていけてしまうのだ。その法則を僕は無視することにしたんだ。それ以外に方法がわからなかったから。
「眠れない夜はどうすればいい」
彼女はよく子供みたいな目でそう言った。僕は彼女が眠るまで話続けた。例えばこんな風に。
「今が昼間だと思えばいいんだ。僕たちはきっとお日様が昇らない世界に来てしまったんだよ、だから僕たちはま昼間にこうしてぼんやりと何時間も過ごしてるんだ、幸せな世界に生きてるんだ」
そうやって僕は、ことある毎に幸せな世界に生きてるんだと言うようにしていた。だって彼女の生きる世界はあまりに苦しかったから。僕の世界が彼女といることで幸せな世界になるように、彼女の世界も僕がいることで幸せな世界になって欲しかった。それだけが唯一で最大の望みだった。
そして往々にしてそのような望みほど失うのは簡単なのである。
ある日、彼女がおかしな様子をしていた。いつもと違ってあまりに穏やかなのだ。僕はその幸福そうな顔に一抹の不安を感じた。彼女は、フレンチトーストを作りながら歌うように口を開いた。
「このままじゃね、だめだとおもったの、私。だから、白い家に行ってみたの。お母さんと一緒に」
「白い家?」
僕はその時、とうとう彼女の心が壊れてしまったのかと思った。白い家だなんてそんな何かの象徴みたいなもの。でも彼女は、ころころと楽しそうに笑うのだ。それに僕は何処かでわかっていた。これは象徴じゃなくて現実なのかもしれないという警報。僕は自分の爪を弾きながらフレンチトーストをひっくり返す彼女の背中を見つめた。そうしないと彼女が溶けて消えてしまいそうな気がしたから。でも、彼女は何にも気付かないで朗らかに話続けるのだ。
「うん、白い家。お母さんがね、見つけてきてくれたの。これから毎週水曜日にね、そこに行くことになったの。最初は怖かったけど、おかしな人がたくさんいてとってもとっても楽しかった。『先生』も優しいの。笑って私の話を聞いてくれるの。やな笑いじゃなくてね、楽しそうなの。『目玉があるんですか、それじゃ踏まないようにするのは大変ですね、象の足が必要だ』ですって。ねぇ知ってる?象の足の裏はとっても柔らかいんだって。卵を踏んでも割れないんだって。それからね、皆ほんとに変なの。掌がね、蟹になったり角のはえたお父さんに焼いてないお餅を投げられたりするんだって。それからね、」
そうやって話続ける彼女を僕はぼんやりと見ていた。話が違う、と思った。全然話が違うじゃないか。僕は彼女の口をふさいだ。優しくそっとだ。彼女は目を丸くさせた。悪戯に失敗した子供みたいな顔だった。
「そんなおかしなところに行かなくても、君は大丈夫だよ」
僕は優しく微笑んだ。彼女を守る恋人であり、保護者であるような気持ちだった。でも、彼女は泣きそうな顔をした。裏切られた子供みたいな。その瞬間に僕は彼女を失ったらしかった。僕と彼女の本当の約束を僕は破ったのだ。彼女は一番に僕に"何でも"伝えたいと思っていたのに。でも僕は聞きたくなかった。彼女の口から、僕らの世界以外の幸福な形を。全然、聞きたくなかったんだ。彼女を愛していたから。とても愛していたから。
彼女がその次の水曜日、僕の家から出ることはなかった。いつもみたいにずっと二人部屋にいて、静かに緩やかに時を過ごした。いつも通りな幸福の風景だ。でも、彼女は時折不安そうな目で僕を見つめるのだ。間違えていないか確認しているように。僕は違うのに、と思った。外の世界は不安だらけだ。でも、僕は不安じゃない。つまり、彼女にとっての。僕は彼女の不安を消してあげたいんだ。彼女を不安にしたいわけじゃない。僕が不安のろ過装置になりたいのだ。彼女が息を出来るように。だから僕は不安じゃないのに。彼女は間違えてる。僕は彼女の髪を指ですく。彼女は小さく呼吸している。
夜になるといつもみたいに彼女が眠りにつくまで僕は話続けた。そして彼女が眠ると、僕もゆっくりと眠りに沈んで行った。水曜日はもうとっくに終わっていた。
目を覚ますと、彼女はいなかった。僕は自分でも意外なほどに冷静だった。顔を洗い、眼鏡をかける。机には彼女の母親の文字で短い手紙が残っていた。丁寧に手帳を千切ったような小さなメモだ。僕は三回読んで三回めにやっと理解した。理解したわけではないけれど、どういう言葉の羅列が並んでいるかは理解することが出来た。
「このこには、貴方が必要です でも、貴方以外の世界も必要なのです 貴方と同様に 大切にしてくれて、ありがとう」
呪いのような言葉だと思った。それだけだ。僕はキッチンに行くとその手紙をライターで燃やした。でもやっぱり呪いは残っていて、僕は未だにその手紙のことをくっきりと覚えている。少し茶色いメモの触れた感じだとか、左斜めに上がる癖のある字体だとか。
これで、僕らの話はおしまいだ。彼女がそのあと僕の家に来ることはなかったし、目玉の話をすることもなかったし、眠れない話をすることもなかった。でも、残念なことにやっぱり僕は生きていた。息を吸って吐いて生きていた。今だってそうである。
一度だけ彼女を街で見かけたことがあった。白いワンピースを着ていた。彼女はまるで大人みたいな顔で、隣に立つ男に話しかけていた。そして、時折子供のように笑った。僕は保護者みたいな気持ちで彼女から目をそらした。大人になった彼女から。ただ、それだけの話だ。
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