水曜日の子どもたち
陽本雨響
第1話 水曜日の子どもたち
気が付くと私は河童の世界にいた。
地下鉄で会社に向かう最中だった。自分の膝小僧を見つめぼうっとし、つっと視線を前に戻すと、もう電車はすっかり水の中だったのだ。少し色落ちした小豆色の座席には苔やら何やらが張り付いている。無数の小魚たちがゆらゆらと泳ぎ、つり革の円の間をくぐり抜けては遊んでいる。そして対面式の座席には、ずらりと河童たちが座っているのだった。彼らは皆一様にぷくぷくと嘴から泡を吹き出していた。
私はそれらを眺めながら、あぁまたこの世界に来てしまったのかと考えた。
正確に言うと河童の世界に来たのはこれが初めてである。しかし河童の世界ではないにしても私は時折こういった事態に陥いった。それは例えば、壁という壁が豆腐になってしまう世界だったり、掌が巨大な蟹になってしまったりする世界だった。どの世界にも何の示唆も意味もなくて、ただ単に、立ち現れるだけなのだ。そして今回はそれが河童の世界だった。つまり私の頭はてんで狂ってしまっているのである。狂ってしまっているのを承知しているくらいには私はまともだった。承知しているにも関わらず受け止めているくらいにはまともではなかった。
電車はゆるゆると、水の中を進んでいく。それにしても、と私は河童たちを観察する。さっきから、皆が皆ひたすらに泡を吹き出しているだけなのだ。確か子供の頃読んだ本では、河童に尻子玉という何だかよくわからんものを盗られてしまった人間は、腰が抜けふにゃふにゃになってしまうと記されていた。何だってそんなものを盗るのだけしからんと、幼心に腹を立てたものだった。彼らにはもしかして大人なんて概念が存在しないのかもしれない。私はぼんやり考える。だってお話の中の河童は皆、尻子玉抜いたりキュウリばかり食べたり相撲ばかり強かったりととてもまともな大人の河童がすることとは思えないのだ(果たしてまともな大人の河童が何なのかは私は知らないけれど)。それに目の前の河童たちなんて馬鹿みたいに泡ぶくばかり吹いている。私は、今まで河童の姿形が子供みたく小さいから河の童と書くものかと思っていた。でもそれだけじゃないのかもしれない。そんなことをぼんやり考えていた。
観察に飽きてきたので少し首を伸ばし、電車の奥を覗いてみた。この河童の群れはどこまで続くのだろうなんて思いながら。すると延々続く河童の並びに、一つだけ白いものが混じっていることに気付いた。私は少し驚いた。河童ではないものがいるのだ。私はその正体を確かめることにした。ふわっと席から立ち上がる。河童たちは見向きもしない。だから私はどうどうと白いものの方へ向かっていった。水圧でゆっくりとしか進むことができない。お利口に並んで泡ぶくを出す河童を横目に見ながら、徐々に前へ進んでいく。白いものの正体が見えてきた。それがはっきりと視野に収まった瞬間、私は息を飲み込んだ。それは人間だった。この世界に私以外の人間が登場したことなんて一度もなかった。そして、そう、おまけに、それは先生だったのだ。
私は少しばかり動揺しながら、先生の前に立った。実に三年ぶりのことだ。こちらに引っ越してから、てんで思い出しもしなかったのに。先生はいつもみたいに白衣を着て、静かに本を読んでいた。くしゃくしゃした黒い髪の毛、分厚くて丸い眼鏡。何にも変わっていない。仕方ない、だって私は三年も先生の顔を見ていないのだから。先生は、ぽかんと棒立ちしている私に気付いた。そして先生は、私を見上げ優しく笑った。三年前と同じ笑顔だ。そういえば私は先生のこのしずかな微笑みがとても好きだった。先生は、私たちの話を聞くたびにこの微笑みを唇と目に浮かべた。心底楽しそうな顔で。私は、だから先生が嫌いではなかった。そうでなかったらあんなばかみたいな場所に、真面目に通うことはなかっただろう。
「お久しぶりですね」
私はなんでもない風な声でそう言った。先生はいつもの柔らかいテノールの声で答える。
「そうですね」
毎週水曜日、私はこの声を聞くためにあそこに通っていたのだ。何で忘れていたのだろう。私は自分がうんと大人になったような気持ちで、馬鹿丁寧に質問した。
「お元気でしたか」
先生は、すると、困ったような顔を浮かべるのだ。
「どうでしょう」
私はドキドキしながら目をしばたかせた。三年前の逆みたいだ。あの頃の先生みたく、さりげない調子で言葉を重ねる。
「どうしたのですか」
「うん……そうだな、どちらかわからないんだ、僕は元気なのかな」
「元気そうに見えますよ」
「よかった」
にっこりと、先生は笑った。でもそれはあの優しい小さな微笑みではなく、固くて苦いものを飲み込みながら笑っている人の顔だった。
「……先生、どうしたのですか」
先生は、私を見る。子供みたいな目だ。
「僕はもう先生じゃないよ」
「えっ」
「辞めたんだ」
私はしばらく呼吸困難の金魚みたく口をパクパクさせた。先生が、先生を辞めた?あんなにも先生は、先生だったのに。果たして、先生が先生じゃなくなったら何になるのだろう。いや、そんなことより、どうして。先生はあんなに、私たちの話を幸せそうに聞いていたのに。
「どうしてですか」
そう言ってから私は思った。何だか質問ばかりしているな。まるであの頃の逆みたいだ。
「うん、どうしてだろうな。何だか、昔の逆みたいだね」
先生はまたくすっと笑う。今度は優しい微笑みだ。私は先生が私と全く同じことを考えていたことがわかって少し恥ずかしかった。そして、少し誇らしかった。
「先生は、先生の仕事がやだったのですか」
「それはない」先生は即答する。「僕があの仕事を嫌ったことは一度もないよ。誓って。ただ、そうだな……自信がなくなったんだ」
「自信?」
先生は困った顔をしている。迷子みたいな。私はこの顔を知っていた。とてもよく知っていた。それは、毎週水曜日、熱心に話を聞いてくれた先生の瞳に映る私の顔であった。先生はでも話すのをやめないのだ。聞いてくれる人を見つけた私たちは、そこに懸命にしがみついた。簡単に離れて行ってしまうことを知っていたから。それが逆効果だとしても、やめることは出来なかった。きっと今あの時の顔が私の目には映っている。
「僕はある時公園でブランコを漕いでいた。長い間患っていた母を亡くした五日後のことだった。僕は、彼女があまり好きではなかった。だからかな、ひどく苦しかった。足元を見ながら、ゆっくりゆっくりとブランコを漕いでいた。それが、彼女との唯一の穏やかな思い出だったんだ。ゆっくりゆっくりと漕ぎながら、僕は自分がずぶずぶと沈んでいくような心持ちがした。先生なのにね。そうやって俯きながら、ひたすら漕いでいたんだ」
先生は、ゆるゆると言葉を紡ぐ。私は綺麗な音楽みたいだと思った。あの時は、いつも先生が私たちの話を聞いてくれた。でも今は私が先生の話を聞いている。先生の世界の話。私の世界の中の、先生の話だ。
「10分もたった頃かな、ふと顔を上げた。すると、そこはカワウソだらけの世界に変わっていたんだ。僕はそりゃもう驚いた。だってさっきまで僕以外誰もいなかったんだもの。それが今や、カワウソばかりが悠々と遊んでいるんだ。中にはラジオ体操なんかしているカワウソもいた。優しい優しい微笑みを浮かべて。そこには母も僕も煩わしいこの世のものは何もなかった。そして、僕は少し呆然として、頭をひとつ振って、またぼんやりと彼らを眺めながら瞬間、気付いてしまったんだ。僕は君たちを健康そうだと思っていた。つまり健康だとは思っていなかったんだ。それはつまり何も信じていなかったんだ、君たちのことを。でも、ほら、今だって僕の目の前で河童たちが熱心に泡ぶくを出している。僕は彼らと一緒にラジオ体操をしながら思った。もし、この世界が本当だったら?僕の今までの仕事は君たちの世界を塗りたくって馬鹿にしていただけになる。僕はそれまで確かに君たちの世界を少しでも穏やかにすることに喜びを感じていた。でも僕はその世界を信じてすらいなかったんだ。そういうことになってしまうと思った。もし、この河童の世界の方が本当だったとしたら」
先生は、そこまで言い切るとやっと口をつぐんだ。あの日々の、先生に話を聞いてもらって満足しきった私のように。私は、いつの間にか泣いていた。先生が可哀想だった。あぁ、もうあの先生はいないのだと思った。二度と会えないのだ、あの、私たちを守ってくれたあの先生の世界には。
でも、涙は河童たちの泡ぶくに混じってよくわからない。
先生は再び本の世界に戻っていった。ずぶすぶと沈んでいくみたいに。そうして電車は相変わらずゆらゆらと進んでいき、私は目を閉じた。本当の世界に戻らなくてはと思った。私たちが先生を連れてきてしまったのだ。この温かで無意味で悲しい世界に。だから、今度は、私が守らなくてはと思った。先生の世界を。
目を開けると河童の群れはいつの間にかスマートフォンを見つめるサラリーマンと高校生たちの群れに戻っていた。画面を熱心に見つめぽこぽこと無表情でゲームをする彼らは、河童のようだった。
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