最終話

俺が記憶喪失。


そう言った話はフィクションの世界ではよく耳にする。

まさか、自分がなってしまうとは思っていなかった。


ただ、日常生活に支障はなかった。

日常動作は体が覚えていたからだ。


半年間の大学生活の記憶だけがない。

だけど、ショックだったのは、記憶喪失前の俺には大学で一人も友達がいなかったという事実だ。これにはかなり打ちのめされた。

担当の教員が言うには知り合いもなく、いつも独りだったらしい。


俺の出席を待っている友達などいなく、三流大学の講義にも興味がもてない。

そういう理由から、記憶喪失と診断された俺は大学には足が中々、向かなかった。


街中を歩くうちにある店に目がいった。

店先で、忙しそうに掃除をする女の子が俺を見て、「本日開店です」と笑った。

大学生にもなってブラブラしている俺に比べて、この子は中学生くらいなのに偉いな、と店の看板を見た。


パティスリー・クボタ……。


俺は甘いものが好きだ。その感覚は覚えている。

自然とその店に足が動いていた。

そういえば、俺が検査で口走った言葉も「クボタ」だったっけ。


入ってみると、こぢんまりとした店で、

「い、いらっしゃい」と小太りの店主らしき人物が挨拶してくる。


俺はショーケースに並んだ商品を見た。

様々なバリエーションがあるものの、商品はなぜかプリンばかりだ。


その中で目が留まったプリンに俺は思わず吹き出した。


「この、普通のプリンって何なんすか」


店で一番オーソドックスだと思われるプリンに「普通のプリン」という商品名がつけられている。


「い、いや、僕は名づけが下手で」


カビパラのような顔をした店主が、「あの……」とおずおずといった調子で口を開く。


「良かったら名前をつけてくれませんか?このプリンに」

「え?」


俺は一瞬、聞き返した。初めて来る客にそういう申し出をする店主の意図がわからない。謎だ。それでも俺は少し嬉しくて、こう続けた。


「じゃあ……最高のプリン、とかどうっすかね?」


パティスリー・クボタの店主は顔をほころばせて「……はい!」と答えた。

さっき店先で掃除していた女の子が、俺が頼むプリンを笑顔で箱詰めしてくれる。


「もしかして、妹さんですか?」

女の子の方が数倍可愛いが、店主と目元がそっくりだ。

「ええ。家族経営です」

店主は満面の笑みだ。プリンを名付けた俺に店主は「最高のプリン」を一個おまけしてくれた。

「また、来てくださいね!」

妹さんと店主は店先まで出て来てくれた。

プリンしか置いてないけど、きっとこの店は繁盛するだろう。


甘党の俺は我慢できなくて、家に帰る途中の河川敷で「最高のプリン」を食べた。


「うンま!」

俺は最高に機嫌が良くなった。

そして、寝転がって青い空を眺めている内に、何だか今の生活も悪くはないな、と思えた。

とりあえず、大学はちゃんと卒業しよう。

パティスリークボタ。クボタな。


俺は魔法のようにその店名を覚えて、新しい気持ちで立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

久保田君の謎 kirinboshi @kirinboshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ