翻弄①
一瞬にして駆け抜けた冒険を終えて出勤した午後、店内は意外にも混雑していた。透夏がバックヤードで業務日誌を読むと、どうやら今日から店の公式アプリに期間限定クーポンが追加されたらしく、その影響で客足が伸びているようだ。しかもちょうど透夏がフロアに入る午後一時からタイムセールを行うとも日誌に書いてある。
――嫌な予感がする。
午前中から出勤しているスタッフが三人。透夏が入って一人が交代で休憩に入る。今店内にいる客だけでもレジは混みつつある。じわじわと胸に不安が黒く広がるのが分かった。シフト表に『三染、十三時~十四時、十五時~十六時 キャッシャー』と書いてあったからだ。
制服に着替え、名札を付ける。出勤時間を打刻するためパソコンの前に向かおうとした時、ふと凪のロッカーが目についた。ロッカーは扉のない簡素な作りでできているため、綺麗に畳まれた制服と名札が揃えて置かれているのが遠目からでも見える。
凪は今頃何をしているだろうか。以前休みの日のことを聞いた時は相変わらず一人で酒を嗜んでいると言っていた。凪なら連日飲んでいてもおかしくはないが、休みの日ぐらいは友人と過ごしたり何かしらの趣味に明け暮れたりするだろう。仕事が終わったら連絡してみるのも良いかもしれない。
出勤前の作業をパソコンで済ませ、キャッシャーに入っている先輩の
――三時間後。
四十五分の休憩をもらった透夏はしょぼしょぼとバックヤードで手のひら程のバウムクーヘンを食べ始めた。
休憩に入るまでの時間は台風のように忙しく過ぎ去った。透夏はほとんど会計で手一杯だったが、行列ができてしまった時は商品の梱包や隣のレジでの対応を他のスタッフに頼らざるを得なかった。また在庫の有無や取り置きの問い合わせ、クレームなどの電話対応もしなければならず、慌ててミスをしてしまうこともあった。電話対応はバックヤードでの在庫確認や店長とのコンタクトをとる必要があるため、会計と違い時間がかかる。冷静に対処しなければと意識はするものの、電話の向こうから感じ取れる怒りは透夏の不安を駆り立てるのに充分だった。早急に動くうちにミスが増え、透夏のミスがさらに他のスタッフの焦燥感を煽った。ミスについて店長からの注意だけに留まったことだけが唯一の幸いだ。
「はぁ……」
無意識に溜め息を吐く。鼓膜にびりびりと張りつくような電話の音が頭から離れない。仕事とはいえ他人からの苦情と𠮟責の言葉が積もるたび、時間が経つごとに受話器をとる透夏の手に躊躇いが見えていった。何とか成し遂げることができたが、入社して数か月経った今でも電話への苦手意識は消えない。帰宅する頃には心身共にくたくたに疲れているだろう。昨晩凪と息抜きできたおかげで難なくこなせると思っていたのだが。
ペットボトルのお茶を一口飲み、何気なく携帯電話を取り出す。画面をつけると約一時間前に凪からメッセージが来ていた。
『今日疲れてるだろうし、うちで一緒にご飯食べない?』
直後、心が軽く弾ける音がした。不安という液体で満たされたグラスの中身が蒸発していくような、不思議な感覚。それと同時に透夏は誰かに頼りたいほど参っていたのか、と自嘲した。
もしかしたら昨日よりもやばいかもしれないな、と思いながら『じゃあ、適当にお酒とつまみ買っていくね。駅着いたらまた連絡する』と打つ。すぐに既読のマークが付き『待ってるー』というメッセージと共にハートを持った兎のスタンプが送られてきた。
ご飯ということは凪の手作りだろうか。凪の家に行くのは初めてだ。普段あまり人を呼ぶことはないと聞いていたが、気が変わったのだろうか? 気になることはいくつかあったが、また今晩も凪とゆっくり話せるという事で頭がいっぱいになり、どうでもいいように思えた。
パソコンの横に貼ってあるシフト表を見ると明日は休みになっていた。ついでに凪の欄も確認するが、透夏と入れ替わりで出勤になっている。朝から夕方までのようだ。凪の仕事に影響が出ないように今日は早めに帰宅したほうがいいかもしれない。
ひと息入れたことで先ほどまでの不安も軽くなった。店のフロアも喧騒を終えてだいぶ落ち着いたようだ。あとは何とかなるだろう。
余った休憩時間でトイレに行こうと腰を上げ、ぐっと伸びをする。食べ終えたバウムクーヘンの袋を小さく結び、透夏はバックヤードを出た。
朝露のように散る 明夏あさひ@イラストにもお熱 @RR_ak72
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