燈火③

 翌日、透夏は部屋の湿った匂いと肌の不快感に目が覚めた。

 また眠気に溺れそうになる頭を振り起こしベランダのほうを見やると、カーテンごと窓が大きく開いていて、外から大胆に入る雨上がりの風と濡れたフローリングが目についた。誰がこんなことを、と思いかけてはっとした。昨夜ゆらゆらと酔ったまま帰宅し、熱を帯びた身体をどうにか鎮めようと雑に窓を開け、そのままソファで眠ってしまったことをぼんやりと思い出したのだ。部屋の床が濡れているのは夜中に降った雨のせいだろう。

 慌てて壁に掛かっている時計を見るとぱちりと分針が動き十時七分を指した。透夏の職場は電車で五駅ほど行ったところにあるが、徒歩の時間も考えるとあと三十分ほどで家を出なければならない。

 仕方なく窓を閉め洗面所からなるべく古めのバスタオルを選び床を拭いた。この季節だから乾くのも遅い。かと言ってのんびりもしていられない。

 食器棚から淡い花柄のカップと茉莉花ジャスミンのティーパックを取り出し、電気ポットをつける。湯が沸く間に着替えを終え髪を整える。酔っていてもポットに水を足しておく癖がついているのは我ながら行儀が良いな、と透夏は思った。

 ポットの湯が沸いた合図を最後まで聞かずにティーパックを突っ込んだカップに湯を注ぐ。色が染み出すのを化粧をしながら待ち、身支度が完全に整ってからやっと紅茶に口をつける。昼食はコンビニで買ってイートインスペースでさっと食べれば良いだろう。そう考えながら飲む茉莉花の味は寝起きのぼやけた身体にふわりと染み渡るようだ。

 カップをキッチンに置き玄関へ向かう。念のため天気を調べると今日は一日曇りの予報だった。傘がないだけで手荷物がだいぶ軽くなるので、透夏はそのまま傘を持たずに家を出た。


 昼食を購入するならこの辺りでは一番品揃えが豊富な東通りにあるコンビニに行くのが良いだろう。東通りのコンビニから駅までは少し距離があるのだが、早めに家を出たおかげで時間にはまだ余裕がある。少し足早に錆びれた『東通り商店街』の文字をくぐると、リニューアルされたばかりの色が弾けるような派手な外装のコンビニが現れた。重みのあるガラス扉を遠慮気味に引くと、軽快な電子音と共に店員の「いらっしゃいませー!」という勇ましい声が透夏を出迎えた。

 いつもなら午後の仕事中に眠気に襲われないよう軽めのものを選ぶのだが、今日は珍しく腹が減っている。パンが並ぶ商品棚を見ると菓子パンばかりで透夏の欲しいものはなかった。仕方なくおにぎりとサンドイッチを見てみると、透夏の好きなハムエッグが売り切れていたのでタルタルチキンとレタスのサンドイッチを購入し、イートインスペースでちんまりと昼食を済ませた。

 透夏がコンビニを後にした時には雲の切れ目から陽が覗いていた。家を出る前に見た天気予報では今日一日曇りだったはずだが、こういうのもたまには良いだろう。

 東通りの穏やかな喧騒の中を歩く。開店準備をしている男性や駄菓子を持ってはしゃぐ子供たちなど、端々に垣間見える生活感に不思議と癒される。忙しなく余裕のない早朝と違い、午後に近づくにつれこの東通りの商店街にも少し落ち着いた雰囲気が流れる。その変化を肌で感じるたび、透夏はしみじみと思いながら仕事に向かっている。誰かの日常に癒されるなんて変だなと思いつつ腕時計に目をやった、その時。

「……え」

 透夏の手の甲に小さな水滴が落ちた。店の看板か何かから落ちてきたのだろうかと顔を上げた瞬間、バケツをひっくり返したかのような激しい雨に襲われた。

 途端に雨に触発されるかのように透夏は走り出した。空にはまだ陽が見えるため一時的なものだろう。先ほどまでの喧騒は一瞬のうちに雨音に掻き消され、人の気配が薄まっていく。ぐしゃぐしゃに濡れた格好で仕事に行くわけにはいかないため、屋根のある場所を探す。すると少し遠くに琥珀色の看板が見え、近づくにつれて広い脇道に沿って建つカフェらしき店のストライプ柄の深めの屋根が目立って見えた。ここだ、と慌てて屋根の下へ入る。

 どうやら屋根はカフェの入口だったらしい。鞄から取り出したハンカチで身体を拭いつつ、店の様子をじっと窺った。定休日なのか扉には『CLOSED』のプレートがかかっており、店内は真っ暗で人の気配はない。扉の横に立てられた看板には『こだわりの自家焙煎コーヒー』と書かれている。東通りにはよく来るのだが、こんな洒落た店があることを透夏は知らなかった。もし開店していたらふらっと寄っていたかもしれない。その上仕事がなければ良かったのだが。

 少し残念だなと思いながらも鞄を拭いていると、カフェの扉がカランと音を立てて開いた。紺鼠色こんねずいろのエプロンをした若い青年がメニュー表を持っている。ぱちりと目が合った。

「あ……」 

 咄嗟に言葉が出てこない。何か言わなければとは思うのだが、悪い事をしているわけではないので謝るのは違うだろう。青年は透夏の言葉を待っているのか、様子を探るように目を揺らしてたたずんでいる。まずはこの状況を説明しようと透夏が口を開きかけたが、青年は黙って店内へと戻ってしまった。

――変だと思われたかな。

 今すぐ移動したいところだが何せこの雨だ。すでに服も髪も濡れてしまっているので、どこかで身だしなみを整えなければ仕事には行けないだろう。とは言っても、透夏の持ち物で使えそうなのはハンカチ一枚と櫛だけだ。もう少し大きめのハンドタオルでもあれば、ついでに傘もあればこうはならなかったのにと自分の不甲斐なさに透夏は溜め息を吐いた。あの青年にも迷惑だと思われたかもしれない。雨が止んだらすぐここから出ようと考えていると、ふたたびカフェの扉が開いて青年が出てきた。

「これ、使ってください」

 青年の手にはフェイスタオルがあった。わざわざ店のものを持ってきてくれたらしい。

「でも……」

「これから仕事とかですよね。時間気にしてるみたいだったので」

 そこまで見抜かれているのかと透夏は驚いた。焦りが無意識に出ていたのだろうか。青年の表情は先ほどから変わらないが、悪くは思われていないようだ。

「風邪引いたら大変ですし」

 と、さらにタオルを近づけてきた。申し訳ないと思いつつも、青年の言葉に甘えて使わせてもらおうと「ありがとうございます」と受け取った。さっそく前髪からタオルを押し当てるように拭き始めると、馴染みのある匂いが微かに鼻をくすぐった。

「……あの、これってもしかして茉莉花ジャスミンですか」

 透夏の言葉に青年の表情が僅かに曇る。何かまずいことを言ってしまっただろうかと思っていると、青年は少し目を伏せたあと「すみません、嫌でしたか」と気弱にこぼした。

「いえ、大好きなんです。紅茶も花も」

 途端にふわりと青年の顔が晴れ「良かった」と呟いた。どうやら青年も茉莉花が好きなようだ。

「……男が花を好きなんておかしいって言われたこともあるけど、紅茶を勉強し始めたらどんどんハマって。特に茉莉花は好き嫌いが分かれやすい花なので、どうすれば飲みやすいのか自分でも試しているんです。そのタオルはカウンターから持ってきたので茉莉花の茶葉の香りがしたんだと思います」

 確かに茉莉花は独特の上品な香りが特徴で、紅茶の味は好き嫌いが分かれやすいと聞いたことがある。花自体は好きだが紅茶は飲めないという人もいるらしい。男性で茉莉花が好きというのは珍しいかもしれないが、紅茶にこだわっているなら納得がいく。客に提供する側ならば茶葉の魅力を最大限に引き出す方法を知っているからだ。

「ということは、ここのカフェは紅茶の種類も多いんですか?」

「多いと言えるかは分からないけど、定番のアールグレイとセイロン、アッサム、ダージリン、茉莉花、ローズヒップ、レモン、アップル、チャイがありますよ」

「そんなに?」

 アールグレイやダージリンなどはどこのカフェでも提供しているが、チャイやローズヒップがあるのはこの辺りでは珍しい。ローズヒップはハーブティーの中ではビタミンが豊富なことで有名だが、安い茶葉だと本来の優しい甘酸っぱさが酷く主張されていることもあり、苦手な人は本来の味を知らないまま避けるようになってしまうことが多い。カフェで飲めるハーブティーは良い意味で味がので市販のものより美味しいのだ。

「良かったら今度飲みに来てください。紅茶は主に俺が入れているので」

「……じゃあ、来週の休みに来ますね」

 紅茶の話で盛り上がっているうちに雨はすっかり止んでいた。透夏から受け取ったタオルを手に店内へと戻ろうとした青年がはっとしたようにこちらを振り返る。

「名前、聞いてもいいですか」

「あ……三染透夏みそめとうかです。三つの染めるに、透明な夏」

「透明な夏……」響きが気に入ったのか青年が小さく名前を繰り返す。「良い名前ですね。俺は新代律生にいしろりつきです」

 どちらからともなく小さく頭を下げ、微笑み合う。髪をさっと整えてひとつ息を吐くと透夏は足を踏み出した。背中越しに律生の「いってらっしゃい」が届く。後ろを振り向き小さく手を振って再度歩き出した。

 空は先ほどの暴雨が嘘のように晴れていて、濡れた地面を照りつける陽の光がきらきらと散っている。腕時計を見ると十一時九分だった。何とか仕事には間に合いそうだなと考えながらも、律生と話した余韻が忘れることを惜しむように耳に残っていた。

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