燈火②

  商品の金額を打ち、金銭の受け渡しを済ませ、足取り軽く去っていく客の後ろ姿を静かに見守る――そんな流れ作業を繰り返しているとレジ前の客の列が途切れた。どのくらい時間が経ったのか、ふと腕時計に目をやると十七時を少し過ぎていた。そろそろ切り上げてもいい頃だろう。

 フロアにいた先輩のスタッフに挨拶を済ませ、バックヤードに入る。名札を外しながら荷物のあるロッカースペースに行くと、ちょうど凪が着替え終えて鞄の整理をしているところだった。

「お疲れー」

「お疲れさま」

 皺にならないよう脱いだ制服を丁寧に折り畳む。

「そういえば今日、三染ちゃんにクレームきたんでしょ?」

 凪の言葉に身体が強張る。店長の居石咲おりいしさきに聞いたのだろう。

「クレームっていうか……難癖つけられたみたいな感じ」

「うわ、一番面倒なやつじゃん」

 クレームの電話は先週買い物に来たらしい四十代ぐらいの女性からだった。内容は単純なもので、透夏に勧められたデザインのボトムスが所持しているどの服にも合わず気に入らないらしい。しかも購入時はじっくりと試着して選んだにも拘らず、自宅で見たらイメージと違ったというのだ。

 対応の仕方については研修の時に何度も頭に叩き込んだので、電話越しにも伝わるほど低姿勢で話をした。だがその態度がより不満を生んでしまったようで、透夏のセンスがおかしいだの態度がムカつくだのと散々なことを言われてしまった。暫くして透夏の様子に気付いた別のスタッフが代わってくれたので、プライドが粉々にされることはなかったが。

「対応のプロの若入わかいりさんが今日出勤してて良かったよね。後日来店してもらって返金するってことでひとまず解決したみたい」

「途中で若入さんが駆けつけてくれなかったら死んでたかも。心が」

 冗談混じりに透夏が言うと、凪は小さく肩を揺らして笑った。

「じゃあ疲れた心を充電しにいきますか」

 話しながら身支度を済ませた透夏たちは入退勤システムの入力を済ませ、フロアにいるスタッフに挨拶をしながら店を出た。帰宅ラッシュの時間だからか端々に商品を見ている人の姿が見える。人影を抜けビルと外を繋ぐ自動ドアをくぐると生温い空気が肌を包んだ。どうやら雨が降った後らしい。

 鞄から出しかけた折り畳み傘をしまい、隣に並んだビルの角を曲がって路地裏に入る。そこにいつも行く居酒屋がある。

「いらっしゃいませ~!」

 まだ人がまばらな店内をざっと見渡すと、凪が先に動いた。ここに来るとよく座る奥の席へ行くようだ。

 ここの居酒屋は個室風のテーブル席が魅力的だ。一つひとつの席に亜麻色あまいろのカーテンがかかっており、人は時間を忘れて酒と空間を楽しむ。それが奥のほうの席になればなるほど他の客の気配も薄くなり、つい自分たちの世界に夢中になってしまうのだ。透夏はそれが好きで凪と来る時はほぼ奥の席に座ることにしている。

 席に着き上着を脱いで椅子に掛けると、カーテンをめくって店員が早々に現れ伝票を取り出した。

「私ビール。三染ちゃんは?」

「あ、レモンサワーで」

「じゃああとはタレの鶏ももと皮、ぼんじり、砂肝、二つずつお願いします」

 まだ学生だろうか、未熟そうな雰囲気と店内の喧騒には少し浮いている顔立ちの男性店員に注文をする。店員は「かしこまりましたー」と言いながら伝票に手慣れた様子で注文を書き込むと、そそくさと去っていった。気配がなくなったのを機に透夏が口を開く。

「いつも思ってたけど、凪さんは砂肝好きなんだね」

「好きだよ! あの食感が良いんじゃん」

「でも砂肝好きじゃないって人、意外と多いからさ」

 砂肝とは砂嚢さのうという鳥の胃の一部で、歯を持たない鳥類は食べ物と一緒に石や砂を飲み込んですりつぶし、消化しやすくする。そのためほとんど筋肉でできていて、コリコリした食感がするのだ。酒のつまみとしても相性が良く、居酒屋で初めて食べて虜になる人も多い。もちろん透夏もそのうちの一人だ。

「内臓系の中でも砂肝はいけるんだよね。モツは微妙だけど」

「モツは口の中で居残ってバカンスしていくよね」そう言うと凪のツボに入ったようで「確かに!」と笑った。

「あ、三染ちゃんは明日休み?」

「いや、午後から閉めまで」メニューをざっと見ながら透夏は言った。「平日なのが唯一の救いだけど」

「お、ゆっくり寝れるじゃん」

「とか言って寝かせてくれないくせに」

 その返答を待っていたとでも言うように凪はにっこりと笑った。

 翌日仕事があろうとなかろうとこうして凪と酒を嗜みに来るのだが、酒に強い凪に比べると透夏は人並みで、ペースを合わせると記憶が飛ぶことも珍しくない。まだ凪と親しくなったばかりの頃は目が覚めたら凪の家にいて、途中から記憶がなく二日酔いになることも多かった。記憶がない間に暴れたわけではなさそうだったのでほっと胸を撫で下ろしたことを覚えている。それ以来、凪が酒のペースを煽ることはなくなったものの、夜中まで付き合わされることはしょっちゅうあるため水を持参したり食事に気を付けたりしている。

 今日は何を食べようかと考えていると、カーテン越しに人影が近づいてくるのが見えた。

「おまたせしました」

 レモンサワーと生ビールが目の前に置かれる。焼き鳥も一緒のようだ。

「今夜は長くなりそうですな~」レモンサワーを透夏の前に置きながら凪の口元が緩む。

「長くしてるのは凪さんでしょ」

「まあまあとりあえず、乾杯しようよ」

 凪がビールジョッキを手に取る。それに合わせて透夏もグラスを持った。グラスの中の氷がこれから始まる夜に期待するようにカランと音を立てて僅かに揺れる。

「じゃ、かんぱーい」

 グラスが合わさり液体が揺れて音が豪華に鳴った。透夏の目には楽しそうに微笑む凪の表情が映っていた。

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