距離が大事だと言うけれど、実はそれほどじゃないかもしれない

水;雨

本編

 甲高いさえずりが耳鳴りで遠い。

 光量から推し量るに、朝らしい。

 くしゃくしゃになった原稿用紙に顔を突っ込み、溺れるように目を覚ます。

 すぐにそばの冷め切ったコーヒーを下品に啜ると、目下の駄文に目を落とす。



 虐待を加えていたイヌ


 全然抵抗しない


 ただ見つめてくる


 ひどく痛めつけて飲んで帰ってきた日イヌがかつて死んでしまった愛する人の姿で横たわっていた


 甲斐甲斐しく介護する


 イヌだろう?かつての人?


 全然喋りもしない


 死にかけ、これだけを言いたかった


 元気だよ


 犬の姿で息絶える


 星がやけに綺麗な



 …いまいちだな。

 小説を書いていたはずなのに、けったいなものを書き殴っていた。

 椅子で雑な伸びをすると、のんべり寄り掛かり、窓をぼんやり見やる。

 なかなかうまくいかないものだな。

 人生ってこんなものか?


 あなたのそばには一秒だっていたくない


 それがすべてだった。

 荷物をまとめて出て行った妻の最後の言葉。

 まるで無機物を見るときの眼差し。

 いや、あれは汚物を嫌そうに、我慢して見ていたんだ。

 怒りと憎悪とが綯交ぜにした悪意が吹き出してきたが、閾値を超えるとフッと収まった。

 なんぼのもんじゃい。

 どうってことはない。

 距離だ。

 距離どりが大事なんだ。

 それ以外は必要ない。

 あらゆるモノは、ヒトさえも適切なキョリに置かれさえすればそれぞれ相応の力を発揮し始める。

 それは位置であるかもしれないし場所なのかもしれない。

 それでも重要なのは、なんにつけても、距離なのだ。


 雀の、サイレンの、車や歩行者の騒々しさが、興を添える。

 予感以下でも以上でもない。

 外の大気の蠢きのイメージが身体に障る。

 何かが起き始めるザワザワ感だけで、気がそぞろになっている。

 ただ動悸がいつもよりはやまっている、それだけなのに。

 窓からは世界の一部だけで、世の中が現前している。

 タバコなんぞやったことないのに、一服やりたくなってきた。


 薄暗がりで椅子にじっと座ったまま俯いて待ち続ける黒いレースに白いワンピースの女。

 動かない。

 羽ばたかない。

 泣いている?

 存在だけで突き刺さってくる。

 そんなの望んでいない。

 なんでこんなことが過ぎる?


 にゃー

 気づいたのはそのときだ。

 何もつけていない裸の若い娘。

 驚きはしなかった。

 血塗れで、それどころではなかったからだ。

 助けたいが、どうすればいいのかおろおろするばかりで。

 息も絶え絶えだったが、

「抱きしめて…」

 絞り出して言ってきた。

「えっ?!」

 手を引っ張られ、引き寄せられて、抱き合う形になった。

 抱き合った。

 生暖かい。

 ほんわりしたやわらかさだ。

 ずにゅりぐるりぐるると、傷がみるみる癒着していく感触が伝わってきた。


「もういいわ」

 未練げにつきはなし、

 ふうと、腹をさすり、伸びをし、身体をストレッチすると、とんとんとんと、低いジャンプをし、

 確認しているようだ。

「あいだが大事なのよね」

 思わずへっ?と気の抜けた返答をしていた。

 くりくりした瞳の、目鼻立ちがスッキリした女の子だな。

 スタイルはいい。胸が大きいのもグッドチョイスだ(?

 元気が取り柄です、そういう雰囲気ありありで、なおかつ、尽くしますオーラが掬い取れてなにも言うことなしだ。

 都合のいい女。

 距離のどうでもいい女、ってことか?


「ぶっそうな世になったものよねえ」

 言葉で急に懐に飛び込んできたものだから、不意打ちを喰らった。

 どう答えようか考えあぐねていると、

「まっ、どうでもいいのよ。いれる場所さえあれば」

 こちらの方を意味ありげに上目遣いでフフンと見てくる。

 そういうことか。

 いてもいい距離。

 共有距離だ。

 その態度を了解ととったのか、リビングの冷蔵庫からビールを勝手に出して飲み出した。

 かんぱーい、出航開始〜、ヨーソロー

 なんだか場が明るくなる。

 賑やかな日常が戻ったようだ。

 そのままバタンとグースカ爆睡し始めた。

 …ただ都合がいいだけか?


 それから一緒に食事をし、下らない話で盛り上がり、性交をしたりして日々をなかなかに充実させて過ごしてみた。

 家事も危なげながらもそこそここなすし、こちらの話にもついてこれる。

 理想的じゃないか。

 距離はあってないようなもの。

「アタシってどう見えてる?」

 妙なこと聞くな。

 キミはキミじゃないか。

 シラーーー変わった名前だ、は、いつもそう言って俺をハッとさせる。

 これは夢かもしれない。

 朝起きているかどうか確認することもしばしばだ。

 宇宙飛行士なのよのね、キリンも、水の滴りもが

 彼女の言葉は巧みだ。そうじゃない。連なりがとてもやわらかいのだ。距離が自在というか。

 だけど、小説向きじゃない。

 物語が成り立つ前に、ぐにゃぐにゃで壊れてしまうからだ。

 あれはほとんどゼロ距離でなければ構築できない。

 なんだ、俺は距離教にでも入信したか?


 ある満天の夜空の下、シラはアタシには遠くに知り合いがいるけど、やっぱり実際の距離って寂しいよねと独りごちた。北極星をほんやりのぞんでいた。

 ぶるっと身を竦ませる。

 身を寄せてきたので、一緒にぬくんであったまった。


 シラはいなくなりはしなかった。

 ほぼ一年後に息を引き取った。

「アタシは四十雀だからね、それぐらいなの」

 特に鳥に変わったりもせず、ただ、いつもの朝に聞こえていたさえずりが、いつの頃からか聞こえなくなっていたのに気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。

 病気持ちだったが、うつるものではなかった。


 気づいていれば、泣いていた。

 ぽろぽろ涙が止まらなかった。

 悲しいわけじゃない。

 物語に泣いていたのだ。

 真実がどうこうであるのはどうでもいい。

 受け取った俺がそうであればそれでいいんだ。

 その夜一匹の瀕死の四十雀を庭で助けていた記憶を夢として思い出して、ささやかな小品として書き上げた。


 元妻の再婚相手の連れ子が転がり込んできたのはそれから数日の後である。

 家出らしい。

 近藤しら、そう名乗った。

 さえずりは聞こえない。

 夢ですでに受け取っているが、予感と言えるほどではない。

「あたし変わっているって言われてるの」

 巡り巡って、距離のわからない日常がまたやってきた。

 居場所、距離、そして愛。

 よろしい。

 ならば、適切に処するよう計らおう。

 そうすることで、少しでも多くの四十雀が報われますように。

 ちょっぴり動物愛護家になれた気がする。







 四十雀については:

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%AB%E3%83%A9




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距離が大事だと言うけれど、実はそれほどじゃないかもしれない 水;雨 @Zyxt

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