夏の日。森と深海の底。

@seiza

一話完結

 八月のある晴れた日。僕と彼女は、親に借りた白いトヨタのセダンに乗って、武蔵野の山の中に佇む老人ホームへと向かった。


 付き合い始めたばかりの彼女は、高校の美術部の一つ後輩で、在学中は話もしたことが無かった。去年、文化祭の打ち上げで再会し、数回のデートを重ね、今年の4月彼女の大学進学を期に付き合い始めることとなった。

 専門学校生の僕は、バイト代では足りなかった分を親に借り、ようやく念願の車の免許を取った。

 品川の鮫洲運転免許試験場から携帯電話をかけると電話に出た彼女は、

「どう?取れた?」

 僕は、自分の写真写りはともかく、誇らしい気持ちでツヤツヤした免許を見ながら言った。

「うん、今、免許もらった。今度、何処か行きたい所考えておいてよ。近い所でね。」

「おめでとう。良かったね。」

少し間を置いて彼女は。

「行きたい所なんだけど、実はもう考えてあってね、おばあちゃんの所に連れてって欲しいんだ。」

僕は少し拍子抜けして、また、せっかくの初ドライブがおばあちゃんって。不満はありつつも、まぁお金も無いし、むしろ良かったかもしれないと思いなおして快諾した。


 老人ホームに向かっている途中で、ロードサイドの大型スーパーに寄り、彼女は水羊羹の詰め合わせを二つ買った。僕は、フードコートで買ったフランクフルトを食べながら、そんな彼女を遠くから見ていた。

 二人とも、いつものTシャツとジーンズのラフな格好だけど、今日の彼女は真新しいローヒールのパンプスを履き、手土産の水羊羹を買っている様は、少し大人の女性に見えた。


 東京都と埼玉県にまたがる狭山丘陵の中にその老人ホームはあった。

 国道から細い道に入り、2回ほど道を間違えてやっとその老人ホームの駐車場にたどり着いた。

 カーエアコンが全力でも日差しの暑さに負けてしまう程の暑い日で、15・6台は止まれそうな駐車場に車は一台もなく、どうせ日陰ももないので、場所も選ばずに車を止めた。

 駐車場の入り口付近にあった「森と花の憩いの里」と書いてある看板の矢印に従って森に入った。うっそうと茂る森の入り口は土がぬかるみ、一歩森へ踏み込むと天然の冷房とも言える涼しい空気とむせるほど濃い緑の空気に包まれた。セミの鳴き声が途切れることなく鳴き続け、その声の勢いも容赦なく、ここは俺たちの場所だと誇っているようだった。

 ここら一帯は豊かな里山の自然が残っていて、宮崎アニメのモデルにもなった場所だそうだ。板が外れかかった看板が茂みの中にあり、経年で黒く変色した表面にかすかに「トトロの森」と読めた。

 「あ、ほんとだ、看板あるよ。トトロの森って書いてある。」

 僕が言うと、後ろから車に忘れてきた手土産の紙袋をぶら下げて彼女が駐車場から上がってくる。

 「ね、そうでしょ、でもよくわかんないんだけど、ここら辺一帯をモデルにしてて、ここだけがモデルってわけじゃないみたいよ。」

 車から出たとたんに搔いた汗が、急激に冷やされ涼しいを通り越して少し寒いくらいだ。

 この老人ホームでは訪問客は、直接車を着けられず、森の手前すぐの駐車場に車を止めて、森を上がっていくことになっている。

 雑木林には、その言葉のとおり「ナラ」、「ブナ」といった雑多な木が混生していた。太い幹、細い枝の低木、つるっとした表皮の木、ごつごつとした木からはドロッとした樹液が流れていた。地面からすぐ大きく枝分かれするような木はその大きな枝を道にまで伸ばして行く手を阻み、枝をかき分けながら進まなくてはならない。そこは、普段からみんなが使っている道には見えず、獣道のような、とは言い過ぎかもしれないが、この先に老人ホームがあるのか不安になってくる程だった。

 「ねぇここで良いんだよねぇ。」

 僕が聞くと。

 「うん、いいはずだよ何回か来てるし。でも靴失敗したなぁ。」

 彼女は、僕に紙袋を突き出しながら、ジーンズの裾をまくり上げる。おろしたてのパンプスが泥にめり込んでいる。

 僕は紙袋を受け取り、木々の隙間からわずかに覗く真っ青な雲一つない空を見上げた。

 「なんかさぁ、セミの鳴き声って変わった気がするなぁ。こんなんだったっけ。」

 僕が言うと彼女は、反対の裾もまくり上げながら、

 「そういえばそうだね、テレビでもなんか言ってたよ、温暖化で関西のセミが上がってきたとか。」

 「よし、お待たせ。隊長、出発してください。」

 おどける彼女に紙袋を返し、僕が先頭で探検に出発した。

 緩やかな勾配の道を、枝を搔き分けながら進むと、そこここにある蜘蛛の巣が知らないうちに髪の毛につき、後ろからくる彼女が手を伸ばし取ってくれる。

 「なんかすごいついてるし。」

 「あぁそうなんだよ。さっき口に入った。」

 そう言って目の前の枝を払ったその時、眼前に巨大な、どこも欠けることのない完璧な蜘蛛の巣。ゴミ一つついていないピカピカの蜘蛛の巣で、中央には、これまた絵に描いたように立派なジョロウグモが鎮座していた。

 「おいおい勘弁してくれよ。」

 僕の肩越しに覗き込む彼女は、

 「げ~、怖わっ、でもちょっと奇麗だね。」

 僕も、この大作を壊すのはしのびなかったが、仕方が無いので心を決めた。

 「さすがにこれは手じゃ無理だな。」

 彼女の肩を借りて、片方のスニーカーを脱いだ。

 「潰して殺したりしないでよ、何か恨まれるかもしれないし。」

 もちろん僕もそんな手荒なことをするつもりは無い。

 「了解。女郎蜘蛛は男を食い殺すんだってさ、妖怪のほうのやつね。」

 「へぇ、そうなの、妖怪も本物も同じ名前なのね。」

 「たしかね。」

 僕は、右手でつかんだ靴を大きく振りかぶると、怪我をさせたりしないように集中して、一呼吸入れて、水平に蜘蛛の巣ごと蜘蛛を払い飛ばした。暗い森の中に吸い込まれていった蜘蛛はもう見えなかったが、おそらく大丈夫だろう。またあの大きな巣を張るのは大変だろうな。少し同情する。

 残った蜘蛛の巣も、適当に靴で払い落してからスニーカーを履きなおした。

 それから五分も歩くと細かい砂利の敷かれた道になり、開けた場所に出た。

 右手奥に茶色のような、黒いようなタイル張りで、3階建ての公民館のような建物が現れた。ここが目的地だろう。

 山の奥へと続く道は、今までよりもさらに大きい木々の、深い森が続いていた。

 建物の前にも人影は無く、そこも木々の影が覆いかぶさり、薄暗く、壁のタイルは何枚か剥げ落ち、何年も前に閉店したショッピングセンターみたいに見えた。

 先程まで途切れることのなかった、セミの声が一瞬止み、静寂が耳に痛く、緊張を誘った。

 「何か急に静かだね。」

 彼女はそう言うと、僕を追い越してコンクリ―トで出来た大きな階段を、4、5段上り老人ホームの受付に向かう。私も後ろから付いて行くが、この期に及んで気恥ずかしくなってきた。

 一階は全面ガラス張りで、外から見えた室内も電気を減らしてあるのか、薄暗く、彼女がガラスドアを開けるとやけに大きな「ピンポーン」という音がシーズンオフの老舗旅館のようなロビーに響き渡った。

 誰もいないように見えたロビーには、車いすに深く沈み込んだ、小さなお婆さんが二人仲良く並んで、黙ったままテレビを見ていた。お昼のニュースが無音で映っていた。

 受付を終えた彼女がバッチを二つ持って戻ってきた。

「訪問客バッチだって、これ付けてね。おばあちゃんは3階だって。」

 冷ややかなホールに響く彼女の声は、水の中を伝わってくる様な、変な響きを帯びていた。老人ホームに入ってから彼女の声以外の音は、何も聞こえない様だった。全ての音が深海の底の砂に沈んで行く。そこでは少しづつ呼吸が出来なくなるが、それを受け入れるしかないのだ。


 それからのことはあまり細かくは覚えていない。

 でも、3階のベランダからの見晴らしが最高で、冷房の効いた室内に注ぎ込む日差しも心地良かったし、彼女のおばあさんや周りのお年寄りたちが元気そうで、なんだかほっとしたのを覚えている。

 そうそう、ホームの人も、おばあさんも水羊羹はすごく喜んでた。孫がお婿さんを連れてきたって、僕を連れて水羊羹を配りまわってたな。


 翌週、おばあさんは亡くなった。

 彼女には、

 「あなたのおかげで、ギリギリ生きている時に会えて良かった。」

 とお礼を言われた。

 僕も、

 「会えて良かった。」

 と言った。

 その後些細な喧嘩で、そのくらいの年齢の男女には良くある理由で、彼女とはすぐに別れてしまった。

 彼女には、もう何年も会っていないし思い出すことも無かったんだけれど、実家に帰って冷蔵庫に水羊羹を見つけて、ふと思い出した。

 あの日の記憶と水羊羹が、彼女の中でも結び付いているといいのだけれど。

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