隣人とお茶請け

高橋 白蔵主

隣人とお茶請け

 大島蛍子は生まれた街を離れ、弁天街の屋台食堂で働いている。


 弁天街は束菜アーケードでも有数の飲食街だ。多種多様な人間が、まるで炒め物をしている鍋の中のようにごたごたと混ぜ返され、アーケードの屋根まで届く熱気を吐き出している。そこかしこで炒め物をしている音が響き、人の声は途切れるということがない。アーケードの壁と天井に反響して、なんだか本当に鍋の中にいるような気分になることさえある。


 働く蛍子の横をオート三輪が人の波を掻き分けて走る。この街で走るオート三輪にはクラクションが二種類ついている。低音のクラクションを、殆ど鳴らしっぱなしで三輪は走る。時折、けたたましく高温の方が響くと、屋台で食事をしている人間が丼を持ったまま振り返る。大概、運転手が窓から身を乗り出して誰かを怒鳴っている。そして、怒鳴っている最中にも三輪のすぐ横の屋台から女将が出てきて、店の前だからさっさと退けと手を振り回す。運転手も怒鳴り返す。だが喧嘩が始まることは稀だ。怒鳴らないと声が届かないから怒鳴るのであって、本気で腹を立てているわけではない。やがて怒鳴り声は低い方のクラクションに変わり、また三輪はのっそりと走り出す。


 見上げると、アーケードの天井が見える。通りから空は見えない。空の代わりの天井は屋台からあがる煤や油でなかなかに汚い。一年に一度、全ての屋台の営業を止めて、石畳から壁から天井からと、一月がかりで通り全体を磨きなおすのだがすぐに汚くなる。しかし今、このあたりはまだ前回の大掃除から二月しか経っていない。まだまだ綺麗なほうだ。

軽いアーチを描いた屋根を目でなぞってゆくと、直径三メートルほどの巨大な換気扇がゆったりとした不思議なスピードで回っているのが見える。耳を澄ませると、もうんもうんもうん、と振動のようなものが聞こえるかもしれない。こもりがちな生活の熱気を逃がすための巨大換気扇だ。一番手前の換気扇の脇には「コルビーナ」という、蛍子の知らない店の垂れ幕が下がっている。何料理だろう。書体からして、南欧の料理かもしれない。アラビアに近い方だろうか。

 蛍子は肩までの髪をしっかりと結って、黙っていると少し怒ったような眉をしている。それを自分でも知っているので、なるべく化粧をしないようにしていた。中途半端に化粧をすると、かえって顔の印象がきつくなるのだ。

 弁天街は賑やかだ。生活の雑音に混じり、注文の為に自分を呼ぶ声が聞こえる。はあい、となるべく気楽に聞こえるような声を出して彼女はトレイを胸に抱える。そして手を振った眉の短い客に目を向ける。生きるということを凝縮したようなこの屋台街で働くのが蛍子は好きだった。


 蛍子は今年で二十七になる。別段騒ぐような年ではない。だがひたひたと迫るものはある。郷里の友人から手紙が届く回数が目に見えて減っている。きっと皆、中学や高校の頃の人間関係を過去のものにして、新しい世界を開いているのだ。対して私はどうか。屋台で働くのは楽しい。だが、将来はどうか。生まれた街から遠く離れ、過去から切り離されて生きるのは楽しい。だが、未来はどうか。十年後、私は今のままの気持ちでいられるだろうか。

 少しづつ老いてゆくのはなんだか怖かった。どうせなら玉手箱を開けたようにいっぺんに、どかっと老いてしまいたいと彼女は思っていた。気付かない速度で、だが確実に、後戻りできなくなってゆくというのはほんとうに怖い。

 たぶん彼女は、後戻りできなくなった時点で的確に「あの時こうしていればよかった」ということに気付くのだ。彼女は、いつか自分が気付いてしまうであろう、ということが怖かった。気付くだけの賢さがなければ、どうして今の自分がこんなに不幸なのかと悩むだけできっと時間は過ぎてゆく。だが、気付いてしまってはそうは行かない。戻れない時のことを無益に考えながら、後ろ向きに後ろ向きに、どんどん時間の風下へ流されてゆくのだ。幾つも、幾つも分岐を通り越して、ただ流れてゆくのだ。後戻りは出来ないし、後戻りのことばかり考えているから、先に幾つ分岐をしているのかも判らない。彼女は自分の行く末をそんな風に考えていた。

 彼女は気付くことよりも、気付いてしまうことの方が多かった。


 知り合ったばかりの人は大概、将来どんなことやりたいの、と尋ねてくる。一言では言えるほど確固とした何かがあるわけではないし、知り合ったばかりの相手に理解してもらえるとも思えないので彼女は適当にお茶を濁す。曰く、今が楽しくて忙しくてまだ先のことはちょっと考えてないの。曰く、将来は飲食のお店を自分でやったりしたいんだけど。やがて知り合って、この人になら自分のことをわかってもらえそうかな、と思った頃には相手はもう将来の夢など聞いてこなくなる。ただ、今日あったことなんかをお座なりに話して、食事を済ませ、布団に入る。そして彼女は気付いてしまう。この恋愛の先には、何もない。

 そんな彼女が最後に人と隣り合わせで眠った夜から、もう二年になる。


 高校を出てからもう九年だ。もともとあまり勉強が好きではなかった彼女は卒業してすぐに、飛び出すように街の銀行へ就職した。そして新しい仕事を見つけるたびに少しづつ故郷の岡山から離れるように引越し、現在の束菜アーケードに至るというわけだ。これまでの彼女の職歴は順に、銀行員、居酒屋店員、事務員、医療関係、そして現在の屋台の看板娘である。都合五回目の引越しで、彼女は弁天街から程近い1Kのアパートに住みついた。今のところ、まだその部屋を訪ねてきた人間はいない。彼女の部屋はなかなかに質素だ。長い一人暮らしの末、彼女は必要なものを見極めることに成功していた。夜は灯りさえあればいい。昼は風さえ通ればいい。質素だが、彼女は今の自分の暮らしを愛していた。


 彼女の働く屋台食堂の女主人はネパール人だという。やや浅黒い肌に真っ黒な髪の、きっぱりとした女性だ。興奮すると時々何語だか判らない言葉が混じる。悪い人間ではないが、聖人君子というわけでもない。彼女はそんな雇い主のことが好きだった。生々しい、人間らしい部分の濃いところが好きだった。女主人はネパールに家族を残して日本へやってきたという。仕送りを貯めて、あと十五年も働けば一生遊んで暮らせるようになるという。あと十五年働けば女主人はもう六十だ。一生、というのは一体何年くらいのものだと想定して言っているのだろうか、と彼女は時々思った。故郷のことを話すとき、いつもネパール人は煙草を吸った。蛍子はそんな彼女の向かいでいつも少しだけビールを飲んで菓子を齧った。


 蛍子のアパートの隣の部屋には、変わった人物が住んでいる。

 密かに彼女は、文豪、と彼のことを呼んでいた。文豪氏はいわゆる作家である。それも売れない類の、ひどい貧乏人だ。もやしを種から育てようとしたことがあると聞いて、蛍子は自分の知らない領域の貧乏世界があることを知った。知り合って以来何ヶ月、偉大なことに蛍子はこの人物の弱音を聞いたことがない。

 屋台で働いていると色々な人を見る。ものの食べ方で人の人となりがわかるというのは、ある意味真実だと彼女は思う。お金を使わないで生きていける人はいるけれど、食事をしないで生きていける人はいない。食べ方に生き方が出るというのは真実だ。別に毎日、客の品定めをして働いているわけではないが、食器を下げる瞬間にがっくりしてしまうことは、存外多い。

 その点、文豪氏の食べ方は綺麗だ。魚などは骨まで食べてしまうし、およそ食べ残しというものを見たことがない。かといって、皿まで舐めるような食べ方ではなく、どことなく品のある箸遣いをするのである。

 蛍子は、食べ方の面からも、友人としての文豪氏を信用していた。


 ちゃぶ台をはさんで二人が座っているのは文豪氏の部屋である。蛍子の部屋と同じ間取りではあるが、こちらの方が断然広く見える。おそらく、家具というものがほとんどないからだろう。板張りのキッチンには備え付けの冷蔵庫のほかには何もなく、奥の六畳間には丸いちゃぶ台が一つ。窓側の隅に文机が一つ。逆の壁には本が横にして積んである。古い本が多いようで、背を壁側に向けられたそれらはまるで秘密の古文書の束のようだ。電化製品は備え付けのもの以外見当たらない。


「いやあ、さっぱりですねえ」

 文豪氏はいつもどおりの細やかな箸使いでジャガイモを口へ運ぶ。

 文豪氏の口から出た、さっぱり、というのはまるっきりダメだ、という意味のさっぱりではない。彼女が文豪氏に週契約で提供している弁当の品評のことだった。ジャガイモを酢などで煮たものが本日のメイン惣菜である。ひょんなことから彼女は自分用の弁当の余り物を有償で提供するという契約を結んでいた。文豪氏は作家業よりも副業に忙しい。僕は日本で一番大工仕事と水道管工事の上手い小説家ですよ、と彼はよく笑うものだった。その小気味よいまでの貧乏ぶりに、彼が自分の作る弁当だけで命を繋いでいるのではないかと密かに彼女は疑っている。一度、文豪氏の冷蔵庫の中身を見てみたいと思ってはいるが切り出せずにいる。


 文豪氏の書く物語はつまらなくはなかったが少し難しく、読み始めるとすいすい進むのであるがなかなか手に取る気にならない。要するに売れない物語の典型であった。どこがまずいのかよく判らないが、たぶん、それを欲する人が少ないのが一番の問題なのだろう。蛍子の周りでは、気持ちや財布に余裕のあるときに本を読む人は少ない。文豪氏の物語はどちらかというと、そのような時に向いているもののように思った。

 蛍子は別に文豪氏のファンであるというわけでもないし、部屋が隣同士というだけで、別段不遇の芸術家を応援しなければならない義理もない。勿論、今後恋愛関係に発展する可能性だって、たいへん低い。

 では、なぜ毎日弁当を作っているのか自分でも奇妙に思うが、おそらくそれは食べ方だけに限らず、彼が友人として気持ちのいい人物だからなのである。


「これは、お店で売れば間違いなく売れますね」

「恐れ入ります」

「さっぱりしていて、うまい。幾らでも食べられます」

「先生、妊娠してるんじゃないですか」

 蛍子は軽口を叩き、窓の外へ顔を向けた。実は文豪氏の方が彼女より三つばかり年上である。もう三十になってしまって、ふらふらしている年齢でもないのですが、と文豪氏はすまなそうな顔をする。すまなそうな表情はするが、別段何か気負う様子も、後悔する様子も見られない。もし、世界に仙人というものがいるとしたら、まさにこの文豪氏のような人物なのではないかと時々思う。無論、食生活も含めての話だ。

 蛍子が尋ねてくると、決まって文豪氏はドアを開け放したままにする。ドアストッパーなどというものはない部屋で、代わりに小さな木の椅子をドアにかませるのである。ドアから吹きぬける風は適度にぬるく、少しだけ油のにおいがする。弁天街の喧騒も、耳を済ませれば聞こえてくる。遠い喧騒は、夕暮れの遊園地のようだった。


「いやね、大島さん」

 ひとしきり芋をつつき、文豪氏がいやに改まった顔をした。貧乏人のくせに、なぜか育ちのよさそうな顔が少しだけ翳る。

「ひとつ、話を聞いてもらいたいんですよ」

 蛍子の目を見ずに、彼は手馴れた仕草でお湯を急須にいれる。お茶ではなくただの白湯だ。急須には茶葉も何も入っていないが、気分ですよと彼は言う。黒地の小さな湯飲みに注ぐと、確かにちょっと白湯には見えない。

「どう話したものか、ちょっと途方にくれるんですが」

「はあ」

「出来れば、お知恵を拝借したいと思うのです」

「なんでしょう」

「いや、何、気楽に聞いて、気楽に話していただければ、それが」

「はあ」

 文豪氏にしては回りくどい喋り方だった。

 蛍子は自分の前に置かれた白湯を一口飲んだ。真似して自分の部屋で入れたときはお湯にしか思えなかったのたが、何故だか、この部屋で飲むとお茶よりもお茶らしいような気がする。不思議だな、と思っていると湯飲みを持つ手が熱くなる。あち、と小さく声を出して離すと、文豪氏はもう一口ジャガイモを口へ運ぶところだった。もごもごと口を動かしながら、天井に目をやる。

「お金を、貯めるとしますよね」

「はあ」

「僕は貧乏ですから知っていますが、それはなかなかに大変です」

 文豪氏は箸を置き、ようやく蛍子の目に視線を合わせた。いつもと変わらない目だった。明晰そうな視線である。話が見えてこない蛍子は相変わらず生返事のままである。

「貯金ですか。先生」

「ええ。多分、お金を貯める人は目的があって貯金する訳です」

「それは、まあ、そうでしょうね」

 不意に金銭の話を振られて、蛍子は自分の預金額を考えた。実はちょっとした額が貯まっているのだが、目的のない貯金だった。付き合いもせず、贅沢もしなかったから貯まっただけの貯金だ。欲しいものがないから使うこともせず、時折、この金で何が出来るだろうかと考えてみるだけの金である。通帳の数字は、何かのチャンスを棒に振った回数のように思えるときがあった。

 使い道を考えてみても今ひとつぴんと来ない。どうにかして自分の生活レベルを上げたい、とは思わない。お金で買えるもののうち、必要なものはすべてもう持っているし、今の生活を辛いとも思わない。それに貯金といっても、無駄遣いをすれば遠くないうちに使い果たしてしまうような額だ。

ではこの貯金は一体なんだろう。

 自分にとって、何某かの意味を持つのだろうか。


 ぼんやりしていると、文豪氏の声でこちら側に引き戻された。

「例えば、あのホープダイヤを欲しがった人がいるとするでしょう」

 ホープダイヤが何のことだか判らず、蛍子は怪訝な顔になる。ただ、どこかでその名前を聞いたことはあるような気がした。

「新しい煙草の銘柄ですか?黒い箱の」

「それはラストホープですね」

「はあ」

 蛍子が誤解したのは映画『スターウォーズ』の公開何十周年かを記念に発売された煙草だ。蛍子の屋台では置いていないため詳しくは知らないが、売れ行きはいいようである。ともあれ文豪氏は、ダイヤを指で形作ってみせた。

「ホープダイヤは持ち主が死ぬことで有名な、呪いのダイヤモンドですよ」

「呪いのダイヤ」

 口に出してみたが、余計現実感が湧いてこない。この貧乏極まりない部屋でダイヤの話をするのは、真夏に吹雪の辛さを考えるようなものだった。そこへさらに、呪いの、と付け足されればそれはもう、熱帯夜に木星の凍る夜を思うようなものである。

しかし、文豪氏は呪いのダイヤに思いを馳せるように視線をさまよわせながら沈黙してもう一度ジャガイモを食べた。皿にはもう、二かけも残っていない。この調子で行くと、文豪氏の夕食は貧相なものになりそうであった。


「話を戻しましょう、大島さん」

「すみません」

「貯金の話でした。ホープダイヤを手に入れたいと思った人が貯金をするんです」

「わざわざ呪いのダイヤですか?」

 いきなり話の腰を折ってしまったので、なるべく口を挟まないようにと思っていたのだが、やはり思わず聞き返してしまう。

「だって、手に入れたら死ぬんでしょ」

 言われて初めて思い当たったように文豪氏は目を丸くする。

「ああ、そうか、それもそうですね。確かにそれもそうだ」

 彼は少し仰々しいくらいに繰り返し、頭をかいた。別の例えを探しているのか、部屋のあちこちを眺めていたが思いつかなかったらしい。もしかしたら文豪氏は、例えば、と言ったがそれは例え話ではなく、実際にホープダイヤを求めている人の話をしたかったのかもしれない。蛍子は自分が文豪氏の話のいちいちに口を挟んでいることに、さっきよりも少しつよく反省した。さめた湯飲みに手を伸ばし、肩をすぼめて小さくなる。

「ごめんなさい。話の腰を折ってばかり」

 文豪氏は、いえいえと手を振りお湯を飲んだ。本当に気にしていないようである。何かを言いかけ、そして止め、彼は話を再開する。

「すみません、例えが下手ですが、続けますね」

「はい」

「その人はお金を貯めて、もう少しで、ホープダイヤが買える額の貯金が出来るとします。いや、実際に貯まったんですよ」

 文豪氏はうっかり口走る。彼がしているのはおそらく、たとえ話ではなかった。ホープダイヤか、ホープダイヤに似ているがそうではない何かのために、おそらくは彼自身が貯金をしていた話だ。蛍子は目の前の貧乏人を眺めながら、はたしてそれは何だろうと考えた。考えてみたが、ホープダイヤのようでそうでない何か、というのは存在するものだろうか。判らなかった。手に入れたら破滅すると判っていても手に入れずには居られないもの。果たしてそれは何か。


 奇妙な間を空けて、文豪氏は結んだ。

「お金は貯まったのですが、いざ買いに行こうとした矢先、ホープダイヤは怪盗カバリに盗まれてしまったのです」

「あ」

 蛍子は思わず口に手をやる。ホープダイヤという名について、聞き覚えのある理由をついに思い出したのである。それは怪盗カバリの物語だった。カバリは一昨年、アーケード目抜き通りの「換気扇」を盗む、という華々しいデビューを遂げた怪盗である。ちなみに換気扇といっても屋台街にあるのと同じものだから半径が6mはある巨大な換気扇なのだが、誰の目にも留まらずにカバリは盗んでのけたのである。

 以来、大小さまざまなものを予告状つきで盗んでまわるカバリには、アーケードの内外を問わず支持者が増えているようだ。支持者というよりは、単純なファンと言った方が良いかも知れない。義賊というわけではないが価値の高いものよりも、盗みにくい、奇妙なものを盗むことが多い。おそらく、趣味か名誉目的のものだろうと支持者たちは噂している。子供たちは怪盗カバリごっこに夢中だが、怪盗と自ら名乗るだけあって、その目的だけでなく正体についても性別・年齢を問わず、誰も知らない。


 ともあれホープダイヤであった。

 普段から金銭目的とは思えない盗みばかりの怪盗にしては珍しくその晩、カバリは高価なホープダイヤを盗み出した。展示されていたホープダイヤは、網状の特殊な材質で作られた籠に入れられていた。カバリからの挑戦状を受け取った興行主は、自分たち以外には中身のダイヤを傷つけずに取り出すことは不可能です、と公言していた。つまり、盗まれたとしてもそんな籠に入れたままでは売買できないだろう、という見込みのセキュリティだったのである。勿論、籠にはGPSもついていて、今回ばかりはいくら怪盗カバリもあきらめるだろうと思われていた。

 しかし、怪盗はやってのけたのである。カバリはダイヤを籠ごと盗み出し、その翌日、ダイヤだけを灰にして送り戻したのである。GPS付きの特殊素材の籠は工業主が自慢しただけあって、軽く煤がついただけで無傷であった。GPSの位置座標は、展覧会場のそばのスラム街で燃やされたことを示していたという。怪盗カバリ曰く、人を殺める魔性の宝石なれば燃やしてしまうことこそ善行というものではないか。


「定めなればすみやかに灰へ」

 文豪氏は、ダイヤの灰に添えられていたというカバリのメッセージを諳んじた。深みのある声である。それは、何もない部屋を満たし、そしてゆっくりと消えていった。

 文豪氏の声は、端的に言うと美声ではない。だが、どこか余韻を残す声である。蛍子はしばらく、ひとつの物語を聞き終えたような気分で座っていた。しかし、冷静に考えると話は終わるどころか始まってもいない。

 手に入れるために貯金していたが、肝心のホープダイヤはカバリに盗まれて燃やされてしまった話。二度と手に入らない話。

 それで、一体何の話を聞かせたかったんですか、と聞き返しそうになった機先を制して文豪氏がぽつりと言った。


「実はですね、先日、母が死にました」


 米びつに米がなくなりました、と伝えるような声であった。一瞬、話が切り替わったことに気付かず、ふんふんと頷いてしまった蛍子は、たっぷり間を空けてから聞き返した。

「えっ」

「業病でしたが、最期は苦しまなかったそうです」

 文豪氏の淡々とした口調は、逆にどこか、鬼気迫るものを感じさせた。もう文豪氏は蛍子の目を見ていない。俯くわけではないが、ちゃぶ台の上の湯飲みをじっと見つめている。その様子は、さっきまでと打って変わって、相槌すら許さないようなものを感じさせた。

「その結末まで含めて、まさに僕にとっての母は、ホープダイヤのようであったのだと思います。手に入れたいと願っても叶わず、手が届きそうになった途端、灰になってしまった。……不思議ですね」

 文豪氏は依然として湯飲みを見つめている。

「僕が母と最後に会ったのは、もう二十年以上前です。だから、今も、悲しいという気持ちは特にありません。葬式にも、行かないつもりです。たぶん、呼ばれることもないと思いますが」

「…」

「母は、移植待ちのうちに死にました」

「……」

 文豪氏は目を上げた。その湯飲みを見つめる表情にあった得体の知れないものはすでに消え、いつもよりも若干悲しそうな顔ではあるが、いつものそれである。

「僕は母をたぶん、憎んでいたと思うのですが、愛してもいました。おそらく。きっと」

「先生」

「僕の命は、母にもらったものです。産んでもらったときだけでなく、何度も、僕は母に助けてもらったのです。僕の家庭は、一言で言えば幸福とは言えない家庭でした。あまりこういう言葉を使うのは気が引けるのですが、凄惨といっても差し支えないと思います」

「…」

「母が僕を捨てたのではなく、あらかじめばらばらになる運命の家庭だったのです。そして、その一番最初がたまたま、母が家を出るという形だっただけだと、思っています」

 それでも最初は随分と恨みました、と彼はさびしそうに笑った。

 蛍子の頭の中を、奇妙な感覚がぐるぐると回る。目の前の人物が不意に別人になってしまったように思えた。文豪氏は生まれつき文豪氏ではなく、子供の時代があったのだということが、当たり前であったが結びつかなかった。文豪氏だって多感な子供時代を経て、さまざまな夜を越え、今のアパートに至るのだ。考えたこともなかった。蛍子は、ずっとこれからも文豪氏は売れない小説を書き、貧乏に愚痴をこぼすことなく生きてゆくとどこかで思っていた。年もとらないのではないかとどこかで考えていたのだ。


 喉の乾く話であった。聞く側だけでなく、話しても喉が乾くのだろう。文豪氏は白湯を飲み、話を続けた。少し声のトーンが低くなっていた。

「ずっと、母に返さなければならないものがあると思っていました。母が出て行ったことで、それは永遠に宙ぶらりんになってしまいました。さまざまな事柄が頭を占領していたせいでしょう。僕は母を憎んでよいのか、愛してよいのか、判らなかったんです。だから正直な話、母が病床にあると聞いて、ひそかに僕は喜びました。ようやく」

 文豪氏は一瞬言葉に詰まる。

「ようやく、母に返せる。借りていたものがなんだかよく判りませんでしたが、とにかく借りていた何かが、移植の費用を肩代わりしてやれれば、返せると思いました。これで、ようやく母を憎んで良いのか愛して良いのかわからない日々も終わる。そう思いました。僕は母に借りたものを返し、自由になる。そうすれば迷いなく母を憎みきるか、愛するか、ちゃんと判断できるようになる。そう思った矢先でした」

 先日、母が死にました。

 蛍子は頭の中でその言葉を繰り返した。

 咄嗟に蛍子が思い出したのは、自分の母のことであった。ほんの時々、電話をかけるだけの母。彼女の生活を心配したような言葉をかけてもらった記憶がない。きちんとやってるの、と問いかける声は心配ではなく詰問のようだと時々思う。それが重荷になって家を出たのだ。

 蛍子はいつの間にか、家に帰りたいと思うようにならなくなっていた。同じように、帰りたくないとも思わなくなっていた。多分、目の前のものを片付けることで精一杯で、気をつけないとその手からこぼれてしまうもの以外に目を向けなくなってしまうのだ。彼女はゆっくりと、今、その目に見えていないもののすべてを心から締め出してしまうようになっているのかもしれない。


「大島さん」

「はいっ」

 不意に名前を呼ばれて蛍子は反射的に背筋を伸ばした。

「僕は、身の上を聞いてもらいたかったわけではないのです」

「はあ」

 相変わらず気の抜けた返事になってしまった。ホープダイヤ、文豪氏の生い立ち、家族関係、考えるべきものが立て続けに幾つもあったせいで、もう蛍子の脳内は散漫になっている。文豪氏の言葉がうまく頭に入ってこない。

「大島さんなら、目的を失ったお金を一体どうしますか」

 文豪氏は微笑んだ。

「ご意見を頂きたいのは、その件なのです。僕は問題の当事者すぎて、うまく考えられないのです」

 結局、貯めたという金の使い道は決まらなかった。

 お母さんのためのお金、と連呼することに文豪氏が難色を示したため、M資金、と呼ぶことにしたのが最初で唯一の決定だ。命名を聞いて文豪氏は、なんだか深刻にならなくてよいですねえ、とどこか場違いな感想を漏らした。後に聞いたところによると、都市伝説の中にも、同じくM資金と称された裏金伝説があるという。

 文豪氏のM資金が一体幾らであるのか、額面についてさらりと教えられそうになったのだが、咄嗟に蛍子は断った。その数字を聞いてしまうのは、何かいけないことのような気がしたのだ。


 M資金なのだから、文豪氏の母のために使うのが筋だろう、というところで大筋の合意が成立した。だが具体的に何、となると選択肢は余り残されていないように思えた。文豪氏の母はすでに故人であることから、彼女のために出来ることといえば葬式の費用くらいしか残っていないように思えたし、それは勿論、文豪氏が一人で考えていた時から判っていたことだった。だが、文豪氏の考えでは葬式は故人のためではなく残された家族のためのものであるから、それに出資するというのは「母のため」からは少し外れてしまうのではないかということなのである。

 文豪氏の考える、無法な金の使い方のルールは二つだ。


・文豪氏の母(故人)以外の利益にならなければならないほどよい

・お金の使い方は、無駄でなければないほどよい


 まるで、その貯金がある限り自分は囚われたままだ、というような鬱屈を表情に滲ませ始めた文豪氏をほぐすため、蛍子は冗談めかして言った。

「いっそ、お母さんに直接聞いたらいいんじゃないですかねえ」

 文豪氏はその発言に食いつき、顔を輝かせた。

「どうするんです?」

 意外な食いつきのせいで冗談だというタイミングを逃し、蛍子は目線を逸らしながら答えた。

「いやあ、イタコ、呼んだりとか?」

 本来、話のオチであるはずの蛍子の発言を聞いて、文豪氏はなんとも玄妙な顔をした。


 その発言があっての屋台食堂である。蛍子が相談を持ちかけられてから一週間が過ぎていた。文豪氏の配管工の仕事が一段落した水曜日であった。

 たまたま他の客も一段落ついたところで、蛍子は屋台の丸椅子に座って通りを眺めていた。ラジオからニュースが流れてきている。全国ネットの、他愛もないニュースだ。岡山県で銀行強盗。岡山、岡山ねえ。岡山ちゅうても、広いけんねえ。心の中で呟きながら、蛍子は故郷の、かつて勤めた銀行のことを思い出す。ラジオが読み上げた地名は彼女の故郷からは随分離れている。故郷と、ニュースの街と、この束菜アーケードのことを考える。思えば遠くへ来たものだ。彼女はかつての同僚の顔を思い浮かべる。エプロンの裾で手をぬぐって水を飲んだ。ぺらぺらした合板に肘をつくと、こと、と、浮いたテーブルの足が暖かい音を立てた。

「あ」

 そして彼女は思わず声を上げた。

 文豪氏が女性を連れてやってきたのである。


「先生」

 文豪氏の隣にいる女性は背が小さく、まるで女学生のような短い三つ編みを左右に下げていた。年のころはよく判らないが黒髪に浅黒い肌だ。デニムに細かい花柄のシャツを着ている。蛍子は年齢を当てるクイズに正解できた試しがなかい。外国人ならば尚更だった。幾つくらいだろう、と考えるが答えが出なかった。十七、八のようにも見えるし、二十三、四のようにも見える。逆に意表をついてまだ十四、と言われても納得してしまうかもしれない。蛍子に判ったのは、多分年下だろうということだけであった。

 文豪氏はその少女を手で指し、微笑む。

「彼女、アンナさんから紹介してもらいました」

「えっ?」

 アンナ、というのは屋台の女主人の名前である。本名はもっと長いらしいのだが、短くそう呼ばせている。本当はなんと言う名前だったか。蛍子はしばし考え始め、しばらくしてから顔を振った。女主人の本名は、今は関係がない。

 蛍子は文豪氏と女主人を見比べた。一体何が起きているのか。咄嗟に蛍子の頭に浮かんだ文字は、何故だか新聞の見出しのようだった。

『屋台女主人が、売れない小説家に対し、ヨメ一人、斡旋』

 しかし、それは文豪氏のキャラクターには合わないような気がする。女主人の人脈の謎を思うと、そちらに関してはイメージにぴったりだ。思わず蛍子は来客に対して腕組みをして難しい顔になった。


「折角だから、アンナさんのお店でと思って」

 事情の説明をせずに微笑む文豪氏は、女主人を呼んでほしそうな素振りを見せた。注文が聞き取れなかった時よりも難しい顔をして蛍子は振り返る。まだ彼の来訪に気付かない女主人は店の奥で鍋を振っていた。鍋の中で貝の擦れる音が響く。がりり、がりりという硬質なようで暖かい音だ。

「アンナさん、アンナさあん」

 大声で呼ぶと女主人は首にしたタオルで汗を拭きながら三人を見る。文豪氏と少女に気付いた彼女は、目を丸くして笑った。

「イヨッ、毎度ッ!」

 すこし甲高い声で、女主人は力こぶの盛り上がった左腕を振る。蛍子は腕組みをしたまま小さく呟く。

「初めてじゃんよ」

 その横で文豪氏は、女主人に向かって力士がするように手刀で空を切った。

「センセ座ってって。あとケーコ、もうすぐ豆スープあがるヨー!」

「はあいっ」

 蛍子は反射的に返事をして腕組みを解く。

「アンナさん、この度はお世話になります」

「はあい、二名様ご案内ぃ」

「アンナサーン、チャオー」

 活気はあるが、まるで無法である。それぞれが微妙に違う方向を向いている。話がかみ合っていない。蛍子は思わず少し笑った。

「大島さん、すみません、忙しい時間帯なのに」

「いえ、それより、どうしたんです、急に」

「スープあがったよォ」

「実は、例のM資金についてなんですが、大島さんの助言のお陰で」

「はあ」

「アンナサーン」

「いや、あとでゆっくり話します」

 一体何が起こったものか、文豪氏は随分上機嫌だった。もともと回りくどい喋り方をする人物だったが、今はいつもと比べて明らかに興味が分散してしまっているようだ。女主人、屋台の空気、蛍子、傍らの少女。文豪氏は順繰りに色々なものへ意識を向けている。

「あのう、そちらの方は」

 遠慮がちに蛍子が問うと、少女がにっと笑った。小さく、粒のそろった白い歯が見える。笑うと本当にチャーミングな感じになった。


「ワタシ、イタコー。ネパールノ、イタコ ヤッテルヨー」


 片言の日本語。思わず蛍子は一歩、後ずさった。弾けるような笑顔で、邪心のようなものはどこにも感じないが、語感があからさまに詐欺くさい。ネパールの、イタコ。あるのか。イタコ。ネパールにも。断片的な疑問が頭の中に踊る。

「今日は、母を呼んでもらおうと思っています」

 真面目なのか、それとももうすでにどこかがおかしくなってしまっているのか、いつになくきりりとした文豪氏の顔を見つめながら、蛍子はもう一歩後ずさった。

「ケーコ、ケーコ、スープ!」

 女主人の声。


「もっと、こう、集中力とか、必要じゃないんですか。儀式とか」

 蛍子の疑問ももっともだ。ミーナと名乗ったネパールのイタコはビーフンの皿を前に、フォークでくるくるとビーフンを回しながら逆の手をこめかみに当てている。眉間にだけは皺が寄っているが、全体としては気軽な雰囲気だ。

「こういうのは、形じゃないんですよ」

 どういうわけだか文豪氏がひそひそ声でネパールのイタコを擁護する。文豪氏は何を根拠にそんなに信用しているのだろう。もしかしたら、彼が貧乏な秘密はそのあたりにあったりしまいか。蛍子はひそかに思う。

 物珍しいのか、女主人も料理の手を止めて文豪氏とイタコのテーブルのそばに来ていた。褪せたピンクのシャツにタオルを巻いている彼女は、まるで自分の子供を見るように愛情深い表情で二人を眺めている。

 蛍子と目が合うと、女主人は力強い顔で頷いた。

「…そういうものなんですかね」

「そうよケーコ。あと、ビール飲む?」

 もうどうにでもなれ、だ、と蛍子は半分諦めて様子を見守ることにした。自分に責任はない、と彼女は自分に言い聞かせる。冷蔵ボックスからビールを出してコップを二つ出した。屋台は本当にひと段落して、放っておいてもかえって喜ぶような常連くらいしかいない。

 女主人のコップに注いでいると不意にイタコが声を上げた。

「アッ」

 閃いたように顔を上げたが、何かが降りてきた様子ではない。息を呑んだのも一瞬だった。ああ、ああ、とため息のように声を漏らしてビーフンを口へ運ぶ。

「サメチャウ」

 うっかりビールをこぼしそうになったが、不思議と彼女に嫌悪感は湧かなかった。むしろ好感を持ったといってもいい。ビーフンをまわす手つきは、食べ物で遊んでいるようにも見えず、少しうっとりしたように食べている姿もほほえましい。


「アッ」

 口に物が入ったまま、イタコは再び顔を上げた。

「キタヨー」

 まるで厳粛さは無いが、ともあれ降りてきたのだそうだ。イタコはとりあえず口の中のビーフンを飲み下して胸をたたく。その気楽な表情と裏腹に文豪氏の表情が硬くなった。

「本当、ですか」

 イタコは、どん、と胸をたたく。モチロン、と片言で答えると文豪氏はさっきまでの鷹揚さを失い、テーブルに肘をついてしまった。助けを求めるように蛍子の方を見る。

「どうしましょう」

 不意に意見を求められて蛍子は頓狂な声を上げる。

「どうしようって、どうしたいんですか」

「いえ、僕は、その、何を聞いたらいいのか、実物を前にしてしまうと」

 実物かどうかは相当怪しいものだと蛍子は思う。しかし、鰯の頭も信心から、溺れるものは藁をもつかむという。無理にあら探しをするよりは、壷を買わされたり水を買わされたり、話が変な方向に進んだときに割り込んでやればいいのではないだろうか。

「とりあえず、お母さんしか知らないことを聞いて、本人かどうか確認したりとか」

「ケーコ」

 一瞬、名前を呼ばれたのかと思ってびっくりした。イタコはさっきと同じようにビーフンを回しながらにやっと笑う。

「ママ、名前、ケーコ。ソウデショ?」

 文豪氏が目を見開いた。蛍子の方を見て頷く。

「お母さんの名前、けいこ、なんですか?」

 無言で三度、こくこくこくと頷く文豪氏。

「でも、それだけじゃ、別に、本物と決まったわけじゃ」

 何故だか蛍子は動揺してしまう。得体の知れないものを見ているというよりは、本当にこの話に乗ってよいものか、恐れているようだった。彼女は気付いてしまうことの方が多い。信じて裏切られることだって多かった。なるべく信じないように、深く関わらないように、彼女は比較的そうして生きてきた。ましてや前に座っているのは信憑性のある部分の方が少ない少女である。損得が関係ないからといって、むやみに信じてよいものか。

「センセイ、何キキタイノ?」

「母が、最期に何を望んでいたのか、僕は、母に何が出来たのか」

「オッケイヨー」

 目をつぶったイタコに蛍子は尋ねる。

「けいこ、ってどんな字を書くんですか」

「ワカンナイヨ」

「え?」

「ワタシ、漢字ムズカシイ。横ノ線、多イヨ。書ク?」

「母は、圭子です。土をふたつの、圭子。たしかに横棒、多いです」

 文豪氏はいつもの沈着な感じからは想像も出来ないくらいに迂闊だ。イタコが本物かどうか、もう少し疑ってもいいのではないかと蛍子は思う。蛍子の不審な視線に気付いたのだろうか。イタコは肩をすくめた。

「ワタシ、ママ、呼ブケド、ママ読メル漢字デモ、ワタシ読メナイノ読メナイ」

「はあ」

「ママ、カラダ、交代シテアゲタイケド、ダメネ。ルールダメ」

 ネパールのイタコ、ミーナは片言ながら、少し厳粛な表情になった。


「ママネ」

 しばらくの沈黙の後、イタコは語る。

「死ヌ前、歯ガ悪カッタネ。心残ルネ」

 文豪氏が振り向いて頷く。蛍子は女主人の方を見て首をかしげる。女主人はビールを飲んで頷き、イタコを促す。奇妙なサイクルだ。

「食ベタイモノアッタ」

「なんです」

「ワカラナイ」

「わからない?」

 拍子抜けするが、ミーナの表情はさっきまでと違って真剣そのものだった。それは必死で何かを思い出そうとしている表情だ。

「アノネ、ワタシ名前シラナイモノ。ワカラナイ」

「どんな形の」

「木ノ枝ミタイ。木の穴、開イテル。カタイヨ」

 手振りで必死に伝えようとしているのが伝わってくる。蛍子は木の枝みたいな穴、というものを思い浮かべた。節にある穴のようなもの。洞のようなものだろうか。洞のある食べ物。ドーナッツのようなものだろうか。

「ベーグル?」

「ベーグルクライ、知ッテルヨ!」

 怒られてしまった。

「ホネ?……チガウ。ホネジャナイヨ」

 手振りからすると、相当小さなもののようだった。骨のようで洞のあるもの。それでいて硬い。一体なんだろう。

「ああっ」

 文豪氏が立ち上がった。

「思いつきました」

 自信に満ちた目で文豪氏は辺りを見回し、闊達な調子で宣言した。

「買ってきます!」

 答え合わせもせずに文豪氏は屋台を飛び出してゆく。

 女主人は動じた様子も無くビールを飲んでいる。イタコは走り去った依頼人にちょっと面食らったようだったが、すぐにビーフンに興味を戻した。蛍子だけが宙ぶらりんである。釈然としない。一体何をしたものか。

 黙っていると、むくむくとある考えが湧き上がってきた。それは、おそらくあまり褒められた行いではない。だが、このまま話を終わらせるには少し、すわりが悪すぎる。

「ねえ」

 意を決して蛍子はイタコに話しかけた。

「?」

「私も見てもらってもいい?」


 それは意地悪な試みだった。まだ存命の母を呼んでくれないかと頼んだのだ。別に、いんちきを暴いてやりたいと思ったわけではない。ただ、はっきりさせておきたかったのだ。はっきりと気付き、知って、明らかにしておきたかったのだ。

「イイヨ」

 疑う様子も無く、ビーフンをあらかた片付けた少女は、両手をこめかみにあてた。

「何キキタイノ?」

「何か、私に言いたいことがあったかどうか」

 わずかに残酷な気持ちだった。私は人を信用していない。冷えたように彼女は少し考える。別に、彼女を糾弾しようというのではなかった。もっともらしいことを言われたとしても、真相を暴いて楽しもうとは思っていない。神妙な顔をして頷くつもりだった。しかしいずれにせよ、残酷な気持ちには変わりがないのかもしれない。

「アノネ」

 少女の言葉を、息を止めて待った。

「キチントヤッテンノ?ッテ」

 心臓が止まるかと思った。イントネーションは片言ではあったが、確かに母から言われ続けた言葉だった。蛍子は口をぱくぱくさせて少女を見た。少女はちょっと困ったように首をかしげて蛍子に微笑んだ。

「デモネー、コノヒト、生キテルヨー」

 もう一度心臓が止まるかと思った。女主人が後ろで低く笑った。

「ケーコ、疑い深いねえ」

「イイヨー、ショガナイヨー」

「人生、嫌なことばっかりじゃないってば」

 以前、同じことを女主人にいわれたことがある。疑ってばかりいてもよくないし、考えないのもよくない。大事なのはバランスなのだといわれたのを思い出した。明かりも落ちた屋台街でスポットライトのような屋台の照明の下、やっぱりビールを飲みながら話をした。

「ケーコのこと、騙そうとしてる人ばっかりじゃないヨ」

「ソーヨー」

 違うんです。蛍子は心の中で呟いた。騙されたことなんてないんです。私は、ただ不安なばかりなんです。せめて騙された経験でもあれば、自分に言い訳を出来たかもしれない。しかし、いまだ傷つけられたことなどないのに、傷つくことが嫌で、過剰に自分を守っているのだ。その先に一体何があるものか。

 不意に悲しくなって、彼女は泣いてしまいそうになった。


「みなさあん」

 そこへ文豪氏が走って戻ってきた。皆さん、と言ったのか、ミーナさんと言ったのか。判断がつかなかったが全員に目を合わせたところから、おそらく皆さんと言ったのだろう。手には紙袋を抱えている。その駆け込み振りに蛍子は涙を流すタイミングを失った。

「ミーナさん、さっきの、これじゃないですか」

 文豪氏がテーブルに広げるのは、かりんとうの袋である。上手い具合にどこかの店で売れ残っていたものがあったようだ。その黒蜜のかかったごつごつの菓子には確かに木の洞のようなものがあり、そして、どこか骨にも似ている。つやつやとした光は、屋台の照明の下でとても美味そうに見えた。

「センセ、持ち込みはお金取るよォ」

 ビール片手に愉快そうな女主人の声。袋をやぶく音。気にせずミーナがかりんとうに手を伸ばした。

「ウマーイ!」

 ぼりぼりと小気味よい音を立てて黒糖の揚げ菓子をかじる。

「コレダヨ、コレー」

 イタコは満面の笑みである。かりんとうを味わっているのがミーナなのか文豪氏の母なのか、よくわからないが、どうでもよくなってしまっていた。文豪氏は満ち足りた顔で腕組みをしている。女主人は変わらない。イタコはふたつ目のかりんとうに手を伸ばしている。蛍子は、泣くタイミングを失ったと思っていたが、いつの間にか三人と同じように笑っていたのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

隣人とお茶請け 高橋 白蔵主 @haxose

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ