way-out
高橋 白蔵主
way-out
彼女が人前で泣かなくなったのは、随分前からのことだ。
それはむしろ逆境にあって心が強くなったというよりは、もっとごく自然なものだった。彼女が泣くのを面白がる人間はとても多い。それを彼女は幼いうちに理解した。彼女の人生は、常に逆境とともにあった。
彼女は別に、極端に知能が劣っているというわけでも二目と見られぬほど醜い容姿であるというわけではなかった。ただ人より少しだけ内向的で、それが人より少しだけ目立つというだけであった。彼女は少女期のただなかにあったが、友達は一人もいなかった。彼女は常に孤独であった。
彼女自身に、それほど特異な点は見当たらない。彼女はどこにでもいる、内気で少し要領の悪いごく普通の少女であった。どうして彼女がそこまで爪弾きにされるようになったかについては少々複雑な事情があったが、端的に言えばそれは、彼女が不運であったから、と言うのがもっとも適切な表現に違いなかった。彼女は単に運がなかったのだ。長い長い被虐の日々を送るうちに彼女は、その日々が当然であり、自分は生まれながらにしてその背中に「わたしを蹴飛ばしてください」と張り紙がしてあったのだろうと思うようになった。
彼女は自分のことを考える時間を作らなかった。意図して作らないようにしていた。人生は長く続く。高校生活であっても、間違いなく三年間は続くのだ。先のことを考えるとおそろしかった。単純に数えても千日あまりのあいだ、自分は椅子を隠され、紙くずをぶつけられ、罵られ続けるのだと考えると、死にたくなってしまうように思ったのだ。彼女は自分のことを考えないようにしていた。
人間は一人では生きてゆけないという。だが、彼女にとってそうは思えなかった。彼女は時折、いつか遠い未来、人間と植物の境界線が曖昧になる世界を夢想した。彼女は誰もいない南の島へ移住する自分を想像した。その未来において人間は、望むならば半分地面に埋まって植物のように大地からエネルギーを得られるのであった。その世界で彼女は横たわり、誰も訪れない浜辺で独り、じいっと夕日を眺めている。特に何をするでもなく、何をされるでもなく生きているのだ。彼女の植わるその隣には何か、青々とした本物の植物が生えているといい。いつか彼女も隣に生えたバナナの樹を見習って、小さな実をつけることができるかもしれない。その浜辺には誰も訪れない。それでいい。誰の食料になるわけでもないバナナが、誰にも知られずひっそりと甘い房を実らせるように、自分もいつか、誰にも知られず、小さな甘い果実を実らせることが出来たらどれだけ幸せだろう。人知れず実り、人知れず熟して、誰にも収穫されぬまま落ちるバナナの房を、彼女は不幸だとは思わなかった。彼女はそれでいいと思った。自分もそれでいい。誰にも知られず、誰の為にならずとも、それでいいのだ。地に落ちて腐り、土に返ったとしてもそれでいいと思っていた。
彼女は植物が好きだった。
別に、自分の境遇や生き方と重ね合わせたわけではない。単純にそのうつくしい緑色や、あざやかな花を咲かせる姿が好きだった。見ていると心が弾んだし、一晩ごとに少しずつ成長してゆく植物の変遷を見守るのは実に楽しかった。だが彼女はしかし、植物を保有しようとは思わなかった。
もっともっと幼い頃のことだ。学級栽培でも彼女の鉢だけは常に割られていた。花壇に花を植えても、彼女の株だけは踏み荒らされ、蹴散らかされていた。彼女は何度も割られた鉢を補修し、パンジーを植えなおしたが、結局のところ同じことだった。鉢を割るのが誰なのか、彼女は突き止めようとはしなかった。ただ割られた鉢を直し、踏み散らされた花を植えなおすだけだ。当時の彼女は泣きながら鉢のかけらを拾い集めていた。悪意のこもった視線がどこからか飛んでくるのを背中に感じながら彼女は、どうしようもできずにただ、泣きながらしゃがんで鉢のかけらを拾うのであった。
彼女は悩み、そして苦悶した。どうして自分ばかりがこんな目に遭うのか。違う。どうして自分の好きな鉢植えばかりがこんな目に遭うのか。それは自分が関わったせいなのか。隣にある鉢と自分の鉢は、遠くから見れば何一つ変わらない。ならばどうして自分の鉢ばかりが割られるのだろう。自分という人間から出る、何か被虐の波動のようなものが、どういう理屈かは分からないが補修する指先から鉢植えにまで伝わり「わたしを蹴飛ばしてください」と、周りの人間を引き付けているのではないだろうか。
ある日、彼女は鉢を直すのをやめた。踏み荒らされた花壇にも近づかないようにした。幾日か経つと、おそらくは誰か、親切な誰かが片付けてくれたようであった。そしてそこには新しい鉢がやってくる。新しい鉢に彼女の名前は書かれていなかった。彼女は遠くからそれを眺めた。誰にも見ていることを知られないように、彼女は本当に遠くから新しい鉢と株を眺めた。そして彼女は学習した。彼女が近づきさえしなければ、花壇も、植木鉢も、いつまでも無事なのだった。彼女は思った。自分が関わると花壇は荒らされてしまう。だから、なるべく花壇に関心のないふりをしていよう。それが自分にとっての、最大の愛情表現なのだ。
彼女は心の底から花壇や植物を愛していたが、その日を境にぷっつりと関わることを止めた。彼女は、クラスメイトが花壇を踏み荒らしているのを見かけても眉一つ動かすことなくそこを通り過ぎるようになった。そして、一晩中その光景を反芻した。眠れなくなり、風呂で泣き、よっぽど夜中に花壇まで行こうかと考えたが、もしもその姿を誰かに見られてしまっては余計に花壇が荒らされてしまう。そう考えると足がすくんだ。彼女は他人を恐れていた。その臆病さはほとんど病的なまでに強まっていた。
眠れずに過ごした翌日、彼女は登校する道すがら、息を止め、誰にも気付かれぬように花壇を盗み見る。用務員がしゃがんで何かをしているのを見つける。ああ、よかった、やってくれる人がいた。安堵して、彼女はもう二度と花壇には目を向けない。彼女は花壇の様子を眺めて楽しむことはない。それでも彼女は植物を愛している。無視して、関心がないように振舞うのが彼女の愛し方になった。
そんな日々を重ねるうち、いつしか彼女は、自分の感情が人に知られることを極端に恐れるようになっていた。好きになればなるほど目線を隠し、彼女は距離を置くようになった。それが正しいことかどうかは誰にも判らない。
彼女に似た境遇の同級生がいた。男の子だった。
彼は、いわゆる教師受けの良い生徒だったが、それが一部の級友たちの鼻についたようだった。教師に媚びていると陰口を叩かれ、やがて彼も彼女と同じように虐げられる側へと押しやられた。彼はいわれのない中傷や、暴力を受けてもじっと黙っていた。蹴倒され、俯いて床を見つめる彼の目には、彼女と違う光があった。そんな彼のことを、少しおそろしい生き物のようだといつも思った。彼の目の光は、おそろしい復讐を計画しているようすではない。もっと違う何かだった。得体の知れない強いものが、彼を、無抵抗に見せている。彼の無抵抗は彼女のそれとは違う。それは見せかけだけの無抵抗だ。その奥には、何か得体の知れないものが隠れている。得体の知れないものの正体を、彼女は知りたくないと思った。
彼女は、彼に近づかないように過ごした。
避けて過ごしていたが、ひょんなことから彼女は彼の事情を知った。知ってしまったという方が正しいかもしれない。別の用事で呼ばれた職員室である。彼女より先に、彼が担任の教師と話していたようだった。扉を開けた瞬間、偶然耳に入ってしまったのだ。
「…じゃないと。うち、兄弟も多いし、全然お金ないから」
咄嗟に、がた、と音を立てると彼は彼女の方を振り向き、そして口をつぐんだ。彼女は聞かなかったような顔をして、軽く担任教師に会釈をした。彼のことを見たりはしない。机の上に奨学金の案内冊子がちらりと見えたが、彼女はそれも見えていないふりをした。担任教師が何気ない様子で机の上を片付ける。教師に媚びている、と後ろ指をさされる彼の事情が、何となく判った気がした。先生また今度、と挨拶をして彼が彼女と入れ替わりに職員室を出てゆく。すれ違うときに少し心がざわついた。
出会ってからしばらくが経つ彼と彼女の視線は、まだ一度も合わされていない。
ある日のことだ。
長い髪を綺麗に結った学級委員が、仲の良い女生徒たちと喋っていた。
注意深く観察すると判るかもしれないが、その瞳は、喋っている相手を映していない。過去の自分を見ているのか、それともここにいない人物を見つめているのだろうか。よく通る声に反して、その目には暗い光があった。学級委員は、首を突っ込んだ藪がいかに居心地の悪い藪だったかを取り巻く友人たちに語っていた。
あいつ、ちょっとかわいそうだと思ってたけど、もういいわ。本当に点数稼ぎ以外に興味ないみたい。助けてあげようなんて思うだけ無駄だったよ。
学級委員が話しているのは彼のことであった。
学級委員は、日頃の扱いを見かねて、純粋な親切心から、誰かに相談をするよう勧めたのだという。ところが彼は、いじめられているなんて知られたら評価に響くから出来ないと言い返したのだそうだ。それも、とても迷惑そうな表情で。信じられる?と学級委員は両手を広げてあきれてみせる。女生徒は悲鳴のように、信じられない、と大きな声を上げる。
この教室に彼はいない。休み時間、いつも彼は姿を消している。いないからこそ遠慮なく飛び交う陰口と噂話。
当人のいない教室で、尾ひれをつけて広まってゆく噂が、もしも自分に向けられたら、と考えただけで彼女はそれを恐れた。続いて口々に話される彼の噂を耳に入れることさえも恐れた。
そういえば私もこんなことしてるの見たよ。周囲に聞こえるように、女生徒が声をひそめている。聞いた話だけど、あいつってさあ。まるで憎憎しげに男子生徒が声をあげている。曰く、暇があれば職員室に授業の質問に行って内申点を稼いでいるらしい。曰く、内申点のためだけに、負担の少ないボランティアを選んで参加しているらしい。曰く、抜き打ち持ち物検査の日程は彼が告げ口してアドバイスしているらしい。
心が、がさがさにかき乱されるようだった。ああ、これは、鉢植えをひっくり返されたときと同じだ。彼女は強く思った。わたしの気にしているものは、いつもと同じように、ずたずたに壊されてしまう。何処かで自分が失敗してしまったのだ。彼女は心の底から思う。本当にごめんなさい、わたしが、ちゃんと知らん振りをできなかったから。だから、こんな。
いっそのこと教室を出て行きたかったが、彼女には出来なかった。
彼女は思う。わたしは目立ってはいけない。慎重に、空気のように溶けてしまわなければならない。わたしの背中の張り紙は、おそろしく目立つのだ。わたしが彼のことを気にしていると気付かれたら、彼はきっと今よりももっとひどい目に遭わされてしまう。今、彼が不在のまま吊るし上げられているのも、わたしが彼のことを考えているからだ。そうに違いない。きっとそうなのだ。
彼女の精神は、いくらかすでに病んでいる。彼女は、今そこに自分が存在していることさえも恐れている。
やがて、彼が戻ってきた。
彼が教室に入ってくると、空気がしんと冷えた。何気ない風で帰ってきた彼もその異変に気付き、少し窺うように教室を見渡した。
「なんだよ」
普通ならば誰も気に留めない彼の物言いが、何かを刺激したようだった。男子生徒が一人、ゆっくりと彼に近づいていった。
「おい」
男子生徒の低い声に、全員が聞き耳を立てている。ことの成り行きを、息を呑んで見ている。幾つも突き刺さる好奇心、加虐心、彼女は自分のことのように身体をこわばらせた。
「お前、どこ行ってたんだよ」
まるで立ちふさがるように彼のために立ったのは、言動の柄だけでなく、成績もあまりよくない男子生徒だった。対する彼は一瞬黒板の方を見て、肩をすくめた。
「別にどこだっていいだろ」
「職員室だろ」
彼は一瞬、驚いたような顔をしたが、文字通りすべての視線が自分に集まっていることに気付いて教室を見渡した。学級委員が顔を背けた。その仕草で彼は何かを理解したようだった。少しだけ溜息をつき、彼は絡んできた相手を見返した。
「……駄目なのかよ」
まさか言い返されるとは思っていなかったらしい男子生徒の背中が、彼女の席からはよく見えた。男子生徒自身、何が気に食わないのか、自分でも判っていないのだろう。とにかく気に食わないのだ。思春期らしくない、打算的な行動を隠そうともしない彼が、気に食わなくて仕方ないのだ。男子生徒の言語化されない衝動が、その背中をぐるりぐるりと二度巡ってから声に姿を変えた。
「んだッ、てめッ」
衝動的な暴力だった。彼女にぶつけられる紙屑みたいに些細で、すぐ消える悪意ではない。思春期の若い身体を循環している名前のない力が、怒声になり、やがて行く先を見つけて形になった。男子生徒は彼の胸を突いた。もともとが華奢な体格の彼は、思わずよろけて黒板にぶつかった。
「汚ねェんだよ!」
続けざまに胸倉を掴み、男子生徒は彼をもう一度壁に押し付けた。
「何が、汚いんだ」
彼が音を立てて息を吐きながら、男子生徒の空いた手を押さえた。その声に被虐の色はない。少し震えていたが、殴られたにも関わらず冷静な声だった。教室は静まり返っている。
「僕がお前に迷惑をかけたか」
冷静だったが、その声には抑えられた怒りが滲んだ。一瞬、胸倉を掴んでいる男子生徒が怯むようすが見えた。しかし、怯んでしまったことが、彼を加速させたのかもしれない。掴まれた腕を振り払い、まるで発作的に男子生徒は彼を殴った。ご、と硬い音がした。遠く教室の隅で彼女が身を竦ませる。殴られた彼は、前髪が顔にかかって表情が見えない。そのまま彼は低く呟いた。
「どうしていけないんだ」
呻くような声だった。殴られた跡に手を当てようともしない。彼が顔を上げた。
「どうして、いけないんだよ」
気圧されて男子生徒が動きを止める。殴られた彼の目は、男子生徒を捉えてはいたが、その声が眼前の相手だけに向けられていないことは明らかだった。
「反抗しなきゃいけないのか」
彼の声が一段低くなるだけでなく、世界の色が変わったように思えた。おそろしくなって彼女は顔を伏せた。見ないように、知らないように、関わらないことで一生懸命逃げてきたものに捕まってしまうように思ったのだ。いつか、職員室で彼の言っていたことが甦った。
彼には奨学金が必要なのだ。彼には、大人受けしなくてはならない理由がある。問題を起こさない理由があるのだ。彼は、他の人間が思うよりも複雑な何かを内側に隠しているのである。彼女は下を向いてぎゅっと手を握り締めた。
「楽だよな、そうやって思ったまま暴れてりゃあ、我慢しなくてすむもんな」
彼の内側に隠れていた何かが顔を出しつつあった。それは、果たして級友たちに受け容れられるものなのだろうか。彼女は息をつめる。わたしは、彼に、興味のないふりをしなければ。彼女はじっとうつむき、机の天板を見つめる。
「でも、それを僕に押し付けるなよ」
彼の声が、まるで泣き出す前のように少し歪んだ。教室の誰もが声を出さずに注目していた。
「お前みたいに空っぽに暴れて、好きなようにやって、ぜんぶ台無しになったら誰か責任取ってくれんのか。やりたいことのために、今我慢するのがそんなに汚いことなのかよ」
がらんとした舞台に響くように、彼の悲痛な声は空っぽに響いた。誰も、彼の叫びをきちんと受け止めていない。多分、誰も、本当の意味では彼を理解しようとしていないのだ。殴られて腹を立てたクラスメイトが、殴り返すのかどうか、それだけを注目しているのだ。
「我慢して、ちゃんとやって、お前たちに何か迷惑かけたのかよ!」
誰も返事をしなかったが、新しい暴力のにおいが立ち込めたのがわかった。彼は、おそらく男子生徒を殴りつけるだろう。場合によってはもう少し手ひどいこともするかもしれない。彼女は身構えるようにその結末を思った。教室内に期待するような、奇妙な熱情が満ちる。幾つもの、逃げ場のない暴力的な視線だった。
今、誰かの声があがれば、シャボン玉の膜がはぜるようにぱしゃっと空気が変わるのだろう。誰かが、やめなよ、と声をあげさえすれば、今の教室に満ちている緊密な暴力の予感は一気に散るはずだった。誰か、誰かが声をあげてくれれば。彼女は、助けを乞うように学級委員を見た。しかし彼を見る学級委員の頬は仄赤く、まるで彼が暴力を振るうのを待っているように見えた。
彼女はぎゅっと目を瞑った。
彼女は決して彼の目を見ない。彼女が関わるものは不幸になるのだ。近寄らず、ただ無視を決め込むのが彼女の愛し方なのだ。壊された鉢植えは、誰かが植え直してくれる。投げ捨てられた本だって、誰かが拾って棚に戻してくれる。わたしが出来る唯一のことは、彼に関わらないことなのだ。だからわたしは今、彼を見ない。彼がクラスメイトを殴り、問題を起こして奨学金や指定校推薦をふいにしたとしても、わたしの、わたしは。
わたしには。
がががが、と自分がたてた派手な音を、まるで他人事のように聞いた。
椅子が引き摺られた音であった。彼女はぎゅっと瞑っていた目を開く。一瞬、世界が低く見えた。気付くと、ぎゅう、と音を立てるように視界が狭くなった。
彼女は、いつのまにか立ち上がっていた。
息を呑む音が聞こえた。きっと教室中の視線が彼女に向いていたのだろう。しかし、彼女にとって余計なものは何一つ見えなかった。ただ、黒板の前に立ち尽くす彼だけが見えた。
「――」
声は出なかった。彼女は彼を見つめ、胸を押さえた。なぜだか、そこがずきずきと痛かった。彼女はいつのまにか涙を流していた。ただ、涙が流れていた。頬を伝い、顎を濡らした。叩かれても、罵られても、隠し通してきたのに、何故だか今、彼女は泣いていた。
泣きながら彼の目を、初めて真っ直ぐに見た。
二人の目線が絡まって、彼女は、あらゆる余計なことを忘れた。周りの目も忘れたし、自分で決めた掟も忘れた。彼の叫びだけを思った。お前たちに何か迷惑をかけたのかよ。彼の声は、彼女の声だった。彼女だけにそれは届いた。それは彼女がとっくの昔に諦めてしまったものだった。今を我慢した先に、一体何があるのだろう。自分の未来のことなんて、考えるのを止めてから随分な年月が経っていた。夢を見るように、南の島で植物のように暮らしたいとは思っていたが、実際に考えるのは、高校をやりすごすことだけだった。
だが、彼は先のことを思っている。
彼女と同じような被虐の日々にあって、未来を考えていたのだ。
彼女が彼のことを、おそろしいように思っていた理由が、ゆっくりと溶け出して来たように思った。考えないようにしていたことが、判ってしまった。彼のようになりたいと、いつか思ってしまうことが怖かったのだ。そして、彼を見ることで、彼が自分に汚染されてしまうことを恐れたのだ。彼女は彼のことを、愛していたのだ。
彼女は距離を置くことで、見ないことで、世界のすべてを愛してきたのだ。
彼女が立ち上がったとき、彼は、自分を殴った男子生徒に熱い返礼を見舞う寸前だった。拳骨を固めていた彼は、彼女を見つめ、それまで彼女が見たことのない表情を見せた。遠くから、気付かれないように見つめていただけでは、見ることの出来なかった表情だった。瞬きもなく、彼の拳から、ゆっくりと力が抜けた。
彼の表情を見つめながら、やがて彼女は我に返った。
自分が音を立てて立ち上がり、注目を集めたことで、彼を包んでいた暴力への圧力が逃げて行ったことを知った。誰か、ではなく、自分がそれを行ったのだ。
一度四散した暴力への期待が、加虐心となって小さく集まり、視線になってちくちくと刺さってくるのも感じ始めた。いつもならば、背中を丸めて彼女は隠れようとしただろう。哀れなまでに萎縮した様子で、小突かれ、罵られる時間を最小限にやり過ごす努力をしただろう。
だが、彼女は、そうはしなかった。
彼女は、強く涙を拭い、忘れないように彼の顔をしっかりと見つめた。
背筋を伸ばしたまま彼女は、ゆっくりと教室を出ていった。元々ここに、わたしの世界はなかったのだ。わたしは、わたしの大事に思うものだけを大事にして、構わないのだ。
ドアを開く時、まるで火照った顔を冷やすように、祝福するように、つめたい風が吹きつけた。冷気を額に受け、彼女が微笑む横顔を、彼だけが見た。
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