エウアンテ2018―星天へ続く坂道―

gaction9969

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 やっぱ、違うやり方にしとけば良かったかぁ、なあぁぁぁ……


 目の前にそびえるかのようにそそり立つかのような、そんな急にも程がある上り坂を前に、そんな今更ながらの思いが、半開きになった口から蚊の鳴くような声と化して、冷えきった早朝の外気に白い靄を一滴、垂らすのであった。


 ―おかあさん入院だって。まあ言って盲腸だから、まあ心配はまあ無いんだけど。


 話は十日前にさかのぼる。週いちばんの山である水曜五限を何とか乗り切って、学童も今年から行かなくなったので誰もいない家にダッシュで帰ってきた彼が、よしゃ今日こそスプラのウデマエを上げるぜぃと、手洗いうがいも何もなく、床に放り出したランドセルにトイレから帰ってきて蹴つまづきながらもその勢いのまま慌ただしくも流れるような体さばきにて携帯兼用ゲーム機に手を伸ばした、正にのその時、固定電話いえでんがぷろぷろぷろぷろ、といったいささか間の抜けていながら、聞く者をざわつかせる着信音を鳴らしてきたのであった。


 父親から珍しくかかってきた電話は、きわめて何でもない風を装ったそっけないものであったものの。


「……」


 「まあ」が多くなる時は、何かを隠したり誤魔化したりしてる場合であることを、人生において付き合いが長くなると容易に分かってしまうものなのであった。


 それでも最初のうちは、あ、そうと平静を保っていた。三つ下の弟はまだ夜寝る時に母のおへそをさわりながらじゃないと誘眠できないため、そして母のいない寂しさも手伝ってか就寝時にぐずぐずとべそをかくので、布団の上で「ちんもみバトル(お互いの股間を狙って蹂躙格闘し相手を悶絶降伏させた方が勝ちという久我家伝統の決闘遊戯)」をして疲れさせて寝に持っていかせたり、ポケモンのしょうもない替え歌を連歌が如く交互にぐひぐひ忍び笑いをしながら組み上げつついつの間にか寝かせたりという匠の技をもってして日々を送ることが出来ていた。


 しかし一週間を過ぎたあたりで、どうしてもいやな考えが鳩尾の少し下くらいのところから染み出してきてしまうのであった。


 入り組んでるとこがあるから、薬で散らしておいて、ちょっと様子見てから手術するんだって、とか母ちゃんは昨日電話で言ってたけど、入院しといてそんなことあるの、との疑問をここ数日抱き始めている。


 もっと大きな病気だったら……それでもし……みたいな考えに嵌まりこんでしまうと布団の中で目が冴えてしまい、寝なきゃと焦るとさらに緊張してしまって、ごろごろと夜明け前までまんじりとも出来ない日々が続いてしまっているのであった。


 さらに父がつくる料理は、カレーが二日続いてのちの肉じゃが二日そしてまたカレーと、子供の目から見ても栄養面/精神面に不安を抱かせるほどの連投からの中二日という強行ローテであり、いい加減、食卓が作業の場と化している。


 そういったことも重なり、早く、早く母ちゃんが元気で退院してもらわないと、という強い意志に突き動かされ、何か自分に出来ることは無いか、と授業中に普段使わない脳の部分をさんざん捻った挙句、「急坂チャリ一気登りできたら母ちゃん退院する」という、独りよがりな「ルール」を選定するに至ったのであった。


 とは言え、それを為すのは大人でも困難であろうほどの生半可ではない坂を、家の目の前にあるからという一点で選んでしまったのが誤算である。


 国分寺崖線。

 関東平野は西、武蔵野台地西南部のフチ部が多摩川に侵食されて出来た斜面は、北西―南東へと約三十キロに渡って泰然と悠然と縦横断しているように望める。


 太古より、その豊富な緑と湧水の恩恵にあずかり人の営みと文化が為されてきた。高度経済成長期にいっとき蔑ろにされてきたその地域環境も、近年では自治体や市民団体などの努力によって市街部との融和を図りつつその景観の保全維持が美しく為されている。


 しかして。


 仙川からつつじが丘方面に向けて下る坂道の中にはとんでもない斜度を持つ「崖」じみたものが少なくないわけで、国道20号こうしゅうかいどうこそ比較的なだらかに長く下っていくものの、そのひとつ奥に入った、車が行き違えないほどの道幅の坂のひとつは、上りは上りで終電まで飲んで帰った酔客のアルコール分を呼気からあらかた気化させるほどに急であり、下りは下りでヘタに早足で臨もうものなら、坂の終わりには全力に近い疾走を余儀なくされるという、気の弱い人ならば見ただけでコケてしまうほどの、微妙に蛇行する・両脇はみっしりと住宅という圧迫感・上りの最後の路面がいやがらせのようにぽっこり盛り上がっているといった難坂なのであった。


「……」


 まさにその坂の下で愛車に跨り、寒さのせいだけでなく固まっている久我少年。11月末の早朝5時半はまだ薄暗くひんやりとした冷気に包まれていて頭だけは冴えてくるものの、かと言って理でどうこうというのは出来なさそうな雰囲気にも覆われているようである。


 ……とにかくやってみるしかないぃぃぃかぁぁ。


 思考停止感は漏れ出た掠れ声からも明らかだったが、それでも意を決し、ペダルに足を掛ける。今年の誕生日に買ってもらった7段変速のクロスバイクは、平地での走破性はこの上ない快適さであったが、この坂はまだ一度も登り切ったことは無い。と言うか、端から無理なのが分かっているし途中で倒れるのも嫌なので、普段は最初から押している体たらくなのであった。


 その坂に、挑む。


 なぜそのような考えに至ったかは、もはやどうでも良かった。困難と思われる任務ミッションをやり遂げれば、何か見返り的にいい報酬リワードが貰えるんではないかという、世間や世界を甘く見た小三男子の浅はかなゲーム脳的考えではあったかも知れないが、本人は真剣というか至極当然のこととして為そうとしているのであった。


 しかし。


 あ駄目だ、と3メートルも進んでいないところで足を突いてしまう。漕ぎ始めからして渾身の立ちで全体重を掛けないと1ミリも進まないのであった。しかもそれで片足半回転分させてもにじり進むのはわずか20センチほど。30メートルはありそうなこの坂の頂上はただただ先が霞むほど遠く、辿り着くイメージすら湧かない。それでも戻ってギアを最大限まで軽くすると、助走を出来る限りつけつつ突っ込んでいくのであった。


 勢いが功を奏したのか、中腹あたりまではするりと行けた。だが、そこからまた斜度がくおんとキツくなるという、三十路何とか女子が如くの性悪なガードの固さを見せるのであった。それでもうら若き無垢なる勇者は臆せず踏み込んでいく……が、運悪く、上からのロービームが目を刺す。ひとつ前で国道に出るべき道を間違って入り込んでしまった不運な他県ナンバーの軽が、不運な自転車とかち合ってしまったのであった。


 荒い呼吸のまま愛車を押して坂下の家までとぼとぼ歩く。明日、明日こそ……とがくがくになっている脚を引きずりながらも決意を固めるのであった。


 翌朝。早朝5時。


 眠いんだけど、と渋る弟に真っ黄色の目立つダウンを羽織らせると、母ちゃんのためなんだぞ、と説得力の欠片も無くそう無理やり言い聞かせて坂の頂上に立たせる。車が来たら兄ちゃんが上り切るまで待っててもらえ、と言い置いて素早くまた坂下へ。


 一発勝負だ。昨日の経験と疲労度から勝負所をそう定めた久我少年は、とにかくペダルをふん、ふん、ふんふん、のリズムで回せばいけるということを体感で掴んではいた。勢いよく発進した車体は危なげに左右に振れるものの、想定通りに地面を掴むかのようにして自転車は登っていく。しかし、


 いける……と思った瞬間、右ふくらはぎに剛直なまでの引き攣れが走るのであった。あおあぁぁ……という声無き声を歪んだ口から発しながら、それでも漕ぐのはやめない。


 ……母ちゃん、またみんなで調和のプール行こうよ。


 上半身を跳ねさせ、曲がりづらくなった右脚を無理やり押し込んでいく。


 ……母ちゃん、串カツ田中でまたゾロ目出すからいっぱい飲んでよ。


 食いしばった歯から、声変わり前の高い唸り声が漏れる。


 ……母ちゃん、母ちゃん。


 あと1メートルほど。がんばれがんばれと応援する弟の姿も近づいてきた。が、


「……」


 右足が滑り、踏み外したペダルが回転して脛を撃つ。凶悪な追い打ちに、遂には横倒しに崩れ落ちてしまうのであった。


 痛みと悔しさで泣きそうになるのを堪えて、打った右膝をかばって立ち上がる。しかしもう漕げる状態ではないことは痛い以上に分かってしまっているのであった。そんな中、


 おぅいおうぃ、とののんびりとした呼び声が坂下の方から掛かる。小太りの身体を揺らしながら、ゆっくり上って来たに違いないくせに、丸顔の父は丸眼鏡を曇らせ、息を尋常じゃないほど荒げているのであった。


 二人ともいないから心配したじゃないかぁ、あれ、これは何をやってたの、との呑気な声に激しい憤りを感じる久我少年だったが、


 おかあさん明日退院だって。との言葉が何気なく続いたのを聞き、え? となってしまう。え明日? と聞くが、えそう聞いたけど。ちょっと嵌まりこんでて手間取ったみたいだけど、おととい手術したしそんなもんでしょ盲腸って、と返される。


 力が抜けてへたり込んだところを、あ、転んだな膝擦れてる、と久しぶりにその丸い背中におんぶされるのであった。そのままひょいひょいと思わぬ身軽さで、坂道を、片手で自転車を転がしながら下っていく。


 いつもは気を付けて足元ばかりを見ていたから気付かなかった、坂上から見下ろす街並みや緑は、うっすら明るくなってきた中でぐわと広がっていて、少し高い視点からそれを眺めていると、空を飛んでいるかのような、どこか爽快な気分になるのであった。


 上に視線を向けると、そこにはまだ紺碧の夜空が繋がっていて。


 そこには確かに光る、ひとつの光点。


(終)


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