海の木の精

羽生零

ソフィーアとマリア

 彼女は見上げるほどに背が高かった。兄弟姉妹たちより頭一つ飛び抜けて大きかったから、彼女は森の全てを見渡すことができた。大きな川がうねりながら流れている以外は、果てしない濃い緑が広がっている。


 ある朝のこと。


 朝日が登る前から、森がとても明るいことに彼女は気付いた。陽の光でないことはすぐに分かった。赤っぽいオレンジ色の光は、森に住むどの鳥たちよりも鮮やかで眩しかった。その光は次第に、黒い衣をまとっていく。煙の中に光がまたたくのを彼女はただ見つめることしかできない。

 しばらくすると、下の方が騒がしくなってくる。

 声に耳を傾けようとしたところで、自分の体を誰かが登ってくるのを感じた。ソフィーアだと気付くと、彼女は木の葉を微かに揺らして挨拶した。こんにちは、ソフィーア。けれどソフィーアはいつものように言葉を返してくれなかった。幹を登り切って木の枝の上に立つと、小さな悲鳴を上げた。

「なんてこと! ああ、森があんなにも燃えてるわ」

 悲しげな声を上げ、ソフィーアはようやく彼女に言葉を返した。

「マリア、私たちの森が燃えているわ。森が無くなってしまったら私たち、もう生きてけない。どうすればいいの」

 嘆く声を上げながら、ソフィーアはマリアにもたれかかった。ソフィーアは近くの村に住む少女で、森に木の実を取りに来るうちに、マリアと言葉を交わせることに気づいた。木々の精たちは物静かで、ソフィーアと話すのはマリアだけだった。マリアも本当は、ほとんど喋らない。ただ、ソフィーアが語りかけてくるうちに、人と言葉を交わす喜びを覚えた。

「どんどん燃え広がってるわ。きっと今朝落ちた雷のせいなのよ。雷は神さまの裁きだっていうけれど、どうして森の木々が焼かれなくてはならないの? 何も悪いことなんてしてないのに……」

 ソフィーアはマリアの幹にすがって涙を流した。マリアは初めて感じる潮の味に驚き、こんなにもしょっぱい味がするのはきっとソフィーアの悲しみが海のように深いからだろうと思った。マリアは海を見たことがない。けれど、毎日のようにソフィーアの口から語られる広い世界の話には、よく海の話が出てきたので、海のことはよく知っていた。

『大丈夫よ、ソフィーア。涙を拭いて……あなたは生きていけるわ』

「どうやって? あんなにも燃えていたら、森はいつか残らず無くなってしまうわ」

『この広い森が無くなってしまっても、あなたは生きていける。あなたはその足で遠くまで歩いて行くことができるし、海だって越えることができるもの』

 涙を拭いてマリアの言葉に耳を傾けていたソフィーアは、その通りだと胸に希望を抱いた。けれどすぐにまた顔を曇らせてマリアに尋ねた。

「けれど、マリアはどうするの? あなたはとても深く根を張って、大地を抱き締めているんでしょう?」

『私は燃えてしまうわ。けれど、私の残した実がきっと、あなたのために別の場所で根を張るわ』

 ソフィーアはまた泣き出した。さっきより激しく、声を上げて泣いた。マリアをここに残して行かなければならないこと。マリアはきっと燃えてしまうだろうということ。二度とこうしてマリアと話すことはできないだろうということ。それを思うだけで、まだ一歩も動いていないのに、遠く離れた知らない場所に、独りぼっちでいるような気持ちになり、それがあまりにも辛くて、舞い上がる火の粉が見えるほど火が近くに来ても涙を止めることができなかった。


 ソフィーアは、何度もマリアに大丈夫だと言われ、涙を拭いて地面に降り立った。するとソフィーアの横に一つ、マリアの枝になっていた実が重い音を立てて落ちた。硬い殻の中に入っていた種子を受け取ると、ソフィーアはマリアの木の幹に、涙に濡れた唇で別れのキスを何度も送った。

 やがて、彼女を探しに来た大人たちに連れられて、ソフィーアはマリアの側から離れていった。マリアはずっとソフィーアを見守っていたかった。けれど小さなソフィーアの姿は、まだ燃えていない森の緑の中に消えていってしまった。


 それから一日ほどで、ソフィーアが暮らしていた村も、村を包む森も、マリアも全てが焼けてしまった。ソフィーアは幾度となく泣きながら、マリアの種子に語りかけた。

「私たちの森が燃えてしまったわ。もう帰る場所が無くなってしまったの。私はこれからどうすればいいの?」

 その問いかけに、マリアはもう答えられなかった。燃え落ちて灰と炭になり、大地に降り注いだマリアはいま、小さな種子に宿っていた。種子の姿では語りかけられない。種子は人間でたとえれば、産まれてくる前の赤ん坊のようなものだった。だからただただ、ソフィーアが流す涙を受け止めて、心の中で幾度となく、大丈夫だと願うように思った。


 それからソフィーアは、森を離れて北へと向かった。北には森より多くの人間が住んでいたが、森で空を見上げるよりも、目に映る木が少なかった。豊かな実りも柔らかな土も無く、外を出て木漏れ日の下を走り回る喜びから引き離され、ソフィーアは毎日のように泣き暮らした。

 森の中で暮らしていたソフィーアに、町の中に居場所はなかった。暮らしは貧しく、まだ幼いソフィーアは町に出て働かなければならなかった。木の実の代わりにゴミを拾い漁り、さえずる鳥と歌う代わりに、布とべたつくワックスを持って道行く人の靴を磨いた。

 ソフィーアはいつしか、海を越えたいと思うようになった。

「だって、マリアが言ってくれたんですもの。海も越えられるって」

 ソフィーアは部屋の隅で、ひとしきり涙を流した後に、マリアの種子にそう話しかけた。マリアとはもうずっと話していなかったけれど、その言葉は、まるでついさっき言われたことのように思い出せた。特に、たくさん言ってもらえた『大丈夫』という言葉は、辛いとき、苦しいときにふと耳の奥でよみがえって……まるで側でマリアがそう言ってくれているように感じ、元気づけられたものだった。


 ソフィーアは町を出る決意を固めて、自分で稼いだお金とマリアの種子を服のポケットに入れると、ある日家を飛び出した。


 電車に乗り、バスに乗り、少しだけパンを買うと、手元にはもうほとんどお金は残らなかった。空腹を堪えながら、ソフィーアは歩き続けた。

 海を越える手段をソフィーアは一つだけ知っていた。

 海の向こうへと連れて行ってくれる人がいるのだという。親がその人のお世話になるかどうか、話し合っているのをソフィーアは何度も聞いていた。だから、どこで会えるかも何となくは分かっていた。二日も歩き続けて、ようやくソフィーアはその建物を見付けた。

 その建物の前にはたくさんの人が詰めかけていた。親切な人がいて、みんなに綺麗な水とパンを分け与えていた。その人たちはみな、ソフィーアのように海を渡るのだという。ソフィーアもいっしょに海を渡ることになった。

「マリア、もうすぐ海が見られるのよ。私、海を渡るの」

 目指していたことがもうすぐ叶う。だというのに、ソフィーアはどうしてか、とても心が苦しい気持ちになって泣き出してしまった。自分の側にはもう、森の木々も、鳥のさえずりも、温かな木漏れ日も無い。そしてまた、両親からも、靴を磨いてくれと頼む人たちからも遠く離れてしまったことに気付いた。

 あの森へ帰りたい、マリアの側にいたくてたまらない、と泣き続けるソフィーアの涙を、マリアはいつものように、ただ黙って受け止めながら、心の中で彼女を励まし続けていた。その声が届いたように、ソフィーアはそのうちに涙を拭った。


 もう少ししたら船が来て、それに乗っていくのだという。いつの間にかできていた人の列に、ソフィーアは加わった。



 ソフィーアを乗せた船は、北へと向かってこぎ出した。小さな船に人がぎゅうぎゅうになって押し込められて、足の踏み場もないほどだった。ソフィーアは船の隅でマリアの種子を握り締めて、ぎゅっと縮こまっていた。ときおり、高波が船を襲い、ソフィーアは頭から海水を浴びた。マリアも海水を浴びて、涙は海と同じものなのだということを知った。


 やがてソフィーアが船に乗った場所が見えなくなり、水平線ばかりが見えるようになった。ソフィーアは恐る恐る顔を上げて、船の縁の向こうを見た。森の緑は柔らかかった。けれど、海は聞いていたよりもずっと硬くて鋭いものだった。青いと思っていた海の水は、曇り空の下で灰色がかって見え、凍えるように冷たかった。隣の人と身を寄せ合ってソフィーアは耐えた。大丈夫だというマリアの声が聞こえていた。


 やがて曇り空から雨が降り始めた。水平線から太陽が顔を出すことはなくなり、出航してから何日経ったのかも分からなくなった。風は恐ろしい唸り声を上げ、波はあざ笑うような音を立てて船に打ち寄せた。恐れとおびえに船の上はすすり泣く声でいっぱいになっていた。ソフィーアもまた涙を流していた。どうして一人でこんなところに来てしまったのだろうかと後悔した。けれどもう、戻ることもできなかった。

(ああ、早く着いてくれないかしら……)

 せめて陸地が見えれば、きっとこの涙も雨の中に消えてしまうのに、とソフィーアは少し腰を浮かせて辺りを見回そうとした。

 すると突然、ひときわ高い波がボートへと打ち寄せた。

 あちこちから、鳥が警告する鳴き声のような悲鳴が上がるのを聞きながら、ソフィーアは船の外へと投げ出されていった。


 体に硬い物が打ち付けられたかと思うと、それはすぐ柔らかく掴み所を失ってソフィーアを包んだ。自分の身に恐ろしいことが起きたことを悟り、ソフィーアはぎゅっとつぶった目から涙をこぼした。涙はすぐ海の水の中に溶けてゆく。涙と共に、自分自身も冷たい海の中に溶けていくようで、ソフィーアは恐ろしさのあまり大声でマリアの名前を呼んだ。

『ソフィーア、大丈夫。私があなたを護るわ』

 マリアの声が聞こえたかと思うと、ソフィーアは自分の体がとても小さくなったような心地になった。そして、背中を丸めて、手足を縮こめたような感覚になったかと思うと、とても近くにマリアを感じた。

「マリア? そこにいるの?」

『ええ、ソフィーア。私たちはいつでもいっしょよ』

 マリアがそういうと、途端にソフィーアは、木の葉に包まれるような温かさを覚えた。マリアの上に登り、枝葉に包まれているときの温かさに、ソフィーアは安心して目を閉じた。

 目を閉ざせば目蓋の裏に、木漏れ日を感じた。耳の側で風に揺れる木々のささやきが聞こえ、枝に留まる鳥たちの歌があたりに漂った。そして、マリアの声が聞こえていた。大丈夫よ、ソフィーア……。



 マリアの種子の中に抱かれたソフィーアは、深い深い海の底へとたどり着くと、長い長い眠りに就いた。そして自分が生きた年と同じほどに眠ると、ある日突然、目を覚ました。


 ソフィーアは自分が、海の水をゆっくりとかき分けていることに気付いた。海の中で芽吹いた新芽が海流を押し退け、やがて硬い木の幹と枝が天を目指して一直線に伸びていった。

「マリア、私たち海の中で芽吹いたのね! 海の水で木は生きていけないのに、不思議ね」

『それはね、ソフィーア。あなたの涙が海と同じだったからなのよ。私たち、産まれる前に海を知っていたの。だから海の中でも生きていけるのよ』

 海底に根を張り、海の中をぐんぐん伸びるソフィーアは、マリアと共に生きられる喜びに声を上げて笑った。ソフィーアが笑えば、芽吹いたばかりの若葉が海の中で揺れた。

 ソフィーアはもう海を渡ることはできない。それでも、マリアと共に海の木の精として生きていけるのなら、他には何も必要なかった。大切なのは生きていく場所ではなく、どこで生きていても大切な存在と共にいられることだった。



 やがて、ソフィーアが少女として生きた時の十倍もの時間が流れた。兄弟姉妹の誰よりも背の高かったマリアの種子から芽吹いたソフィーアとマリアの木は、海面から顔を出し、陽の光をいっぱいに浴びて枝葉を豊かに茂らせた。いつしか枝には木の実が実り、海を渡る人々の恵みとなった。木の幹に船を繋ぎ、生い茂る葉は降り注ぐ雨から船を守った。


 人々は海底に根を張る不思議なその木を、ずっと昔に船から投げ出されてしまった少女の名前で呼んだ。

「ありがとう、ソフィーア」

 そう呼びかける船乗りに、ソフィーアはくすくすと笑ってこう語りかけるのだった。

「私はソフィーア。けれどこの木の名前は『マリアとソフィーア』なのよ」

 その声を聞くことができる者はまだいない。だからその木の正しい名前を、誰も知らないのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海の木の精 羽生零 @Fanu0_SJ

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ