Epilogue(2)

 電話のベルが鳴り響くまで、キース・ブリッジズは夢を見ていた。けたたましい呼出音が、彼を現実へと引っぱり上げた。自分の部屋の電話の呼出音とは違う、その無神経な音から、キースは今自分がどこにいるのかをぼんやりと思い出した。

 山の中腹にある、この中継所に到着したのは、深夜のことだった。頭の芯がまだずきずきと痛む。飲み過ぎたせいだ。空になったバーボンのボトルが、床の上に転がっている。だが、お陰でさっきまで見ていた悪夢からは抜け出すことができた。

 夢の中のキースは、沼地のようなところでもがいていた。這い上がろうといくら頑張っても、なかなか身動きがとれないのだ。粘り気のある土砂が足にまとわりついているためだ。疲労で身体が鉄のように重く、息苦しかった。

 現実が夢に完全に投影されているのだ。それなら、まだ夢を見ている方が楽なのかもしれない。キースは、自分が今置かれている現実に目を背けていられるなら、どんな悪夢でもすすんで受け入れたいと思った。


 妻から提示された離婚のための条件を、キースはほとんど受け入れた。こんな仕事をしているから、今まで落ちついて話をする間もなかった。妻とのまともな会話はどれくらい途絶えていただろう。だが、妻はそんな自分を理解してくれていると思っていた。すべて勝手な思い込みだった。

 いつからかキースの心の中で、彼女の地位は妻から単に娘の母親にすり替わっていた。気が付くと、妻には別の男がいた。このとき、自分の甘さを嫌というほど思い知らされた。思えば、娘の顔もずいぶん見ていなかった。彼女の考えていることなど、気に留めたこともなかったが、いつまでも子どもだと思っていたが、気が付くと十代半ばにまで成長していた。自分の気付かないところで、家庭の崩壊は確実に進行していた。


「こんな状態になるまで放っておいて、今さら家長気取りしないでよ」

 妻の言い分に返す言葉が見つからなかった。不信感に満ちた娘の視線を妻の背後に感じたとき、キースはすべてを失った。


 キースは自分を責めた。どうなるものでもないことはわかっていながら自分を責めた。唯一、酒だけがキースの心の痛みを和らげてくれた。いや、それだって単なる一時的な逃避であって、何も根本の解決にはなりはしないのだ。しかし、このことを頭から遠ざけておくには、酒に頼るしかなかった。完全に悪循環だった。

 そんなここ数週間のできごとを反芻しながら、受話器を取りあげると、いきなり叫ぶ声がする。


「チーフ、今すぐに来て下さい!」

 声の主はキースの部下にあたるジョンだった。かなり取り乱した様子だ。


「どうしたんだ?」


「もっ、木星が妙なんです……」

 ジョンの声は得体の知れぬ恐怖に震えていた。



ここハワイ島、マウナ・ロア山の北側にあるマウナ・ケア山に、口径220センチの反射望遠鏡が設置されたのは1970年のことだった。

マウナ・ケア山は、標高4205メートル、富士山より400メートル以上も高い休火山である。気圧、気温、周囲の環境など、人間が住むのに、これほど過酷な条件が重なったところもそう多くはないが、ハワイ大学の研究家たちの根気強い努力が、それらの困難を克服し、この地に天文台を建設した。頂上に近付くにつれて空気が希薄になり、ゆっくり歩かないと息苦しくなってくる。しかし漆黒の夜空を求めて、彼らはあえてこの頂上を選んだのだ。

星の位置を正しく測るということは、ギリシャ時代から何千年と続けられている。現在でも、より正確な位置を求めるために、新技術を駆使した望遠鏡が開発され、観測が続けられている。

マウナ・ケア山の夜空は、非常に暗く見える。特に星のない部分は、吸い込まれてしまうのではないかと思うほどに暗い。上空の大気も薄いので、星はあまりチカチカとまたたかない。天体観測という目的からすれば、まさに最高の条件を備えたところであるといえるだろう。

天文台での仕事は、通常の登山のように一日、二日だけ山に留まれば済むというものではない。かなりの長期間に渡って山頂で過ごすのだ。また、大きな望遠鏡を動かすためには、様々な肉体労働も伴う。この天文台の建設当初、医療関係者たちは、計画の中止を求めた。山頂の環境があまりにも劣悪かつ過酷だったためだ。しかし、天文学者たちの夢はそれらの困難を乗り越えた。もちろん、健康上の問題を無視しているわけではない。頂上へは自動車のための舗装道が一本通っているが、彼らは一気に頂上にまで登ることはせず、3000メートル地点にある中継所で一泊して、身体を気圧に慣らしてから頂上へと向かうようにしている。

山頂では、すべての動作をゆっくりと行なわなければならない。そして、万が一に備えて、あちらこちらに酸素ボンベが設置されている。こちらに来たばかりの頃、キースも作業中に帽子を風に飛ばされたことがあった。うっかり走って取りに行ったはいいものの、それから、2、3時間は心臓の鼓動が激しいまま収まらず、とても気分の悪い思いをした。だが、この天文台がきっかけとなって、各国の天文学者が協力し合い、大型望遠鏡を建設しはじめた。


「いったい、木星に何があったっていうんだ」


まだ夜明け前の薄暗い気配の中、急いで着替えを済ませると、キースは4WDのピックアップトラックに乗り込んだ。これは頂上と、この中継地点の往来専用にチューンナップされた特別車で、エンジン、吸気系統、トランスミッション、サスペンションといった主要パーツのすべてが強化されている。

助手席に置いてあったポテトチップスの袋が、気圧のせいでパンパンに膨れている。キースが握りこぶしで袋を叩くと、パンと小気味いい音を上げて封が開いた。キースはシートに散らばったポテトチップスをむしゃむしゃと頬ばった。


それより数時間前、イギリスのグリニッジ天文台でも、木星に同様の異変を観測していた。

グリニッジ天文台は、1675年に建設された世界で5番目の近代的な天文台だ。世界中に植民地を持つイギリスは、自国の天文台と北極点を結んだ、南北に走る線を経度のゼロとして、ここを中心に世界各地の位置を表した。

当直スタッフたちは、驚愕の観測結果を直ちに英国政府に報告した。


「木星の動きが妙なんです……」

 キースの到着を待ちわびていたジョンは、直ちに報告をはじめた。


「大赤斑周辺の動きが、にわかに活発になりはじめています」


「大赤斑だと……?」


「はい、もしかしたら、大噴火の予兆なのではないかと……」


「……」

ジョンがおそるおそる発した言葉は、いみじくもキースの胸の中にわだかまっていたものでもあった。


十ヶ月程前に彗星のかけらが衝突してからというもの、木星の内部では静かな変化が起こっていた。

NASAが観測したところによると、木星は地球の千三百倍の体積を持っていながら、密度は四分の一程度でしかないという。これは木星が金属や岩ではなく、水素やヘリウムなどのガスで構成されていることを意味している。

衝突した岩塊は、このガス層を突き抜け、中心部にある核にまで達していたのだ。表面的にはかすかな衝撃ではあっても、それは核とその周囲を囲む液体金属水素を目覚めさせるに充分足るものだった。そして、次第に膨張した中心部は、自らを解放する場所を求めて、表面のある一箇所----天文学者が『大赤斑』と呼ぶ、目玉のような模様のある地点----に集結していた。ここのところ、その部分の温度が急激、かつ異常なほどに上昇をはじめていた。

太陽系の惑星の大規模な噴火など、観測史上、一度も起きたことはない。ジョンは、果たしてそれが何を意味するのか、理論的に推測することはできなかった。過去に例がない場合、天文台では、その先を予測することは困難なのだ。


「引き続き、木星から目を離さないでくれ!」

 ジョンは深くうなずくと、持ち場へと戻っていった。


未曾有の体験に、スタッフたちはみな興奮していた。観測室を巡回したキースは、スタッフひとりひとりに最高レベルでの警戒をするようにと伝えた。その間にも、大赤斑の温度はぐんぐん上昇していった。もういつ何が起こっても不思議ではない状態だった。

わずか数時間後にそれはやってきた。

十二分に力を蓄えた中心が、ついに大赤斑から燃えたぎった炎の塊を吐き出したのだ。地球の体積の数倍はあろうかと思われるそれは、二本の角を突き立てて、木星から発射された。それはちょうど荒れ狂う闘牛が、生け贄の待つ闘技場に解き放たれたかのようだった。そして、そこに仕留めるべき対象を見つけるやいなや、それは情け容赦なく突き進んでいったのだ。


マウナ・ケア天文台のスタッフは、全員でこの狂った猛獣の行方を追った。恐怖を感じる余裕もなく、各自が自分の持ち場で、ひたすら自分のすべき任務に徹した。彼らの任務とは、最新鋭のコンピューターを駆使して、そのルートを追跡し、先の行動を予測することだった。その結果如何で、彼らが抱いている不安ははじめて現実のものとなるのだ。


「チーフ、木星から飛び出した彗星の軌道についてですが……」

 結果は意外に早く割り出された。報告するジョンの手が小刻みに震える。


「どうした。何かわかったか」


「それが……」


「何だ? はっきりと言え!」


「はい、このままでは、いずれは地球軌道に接近するのではないかと思われます」


「何だって! そいつは確かなのか?」


「はい、何度も計算し直しました」


「もう一度やり直してくれ!」


「しかし……」


「何だ?」


「グリニッジからも、やはり同じ結果報告が入ってきているのです」

 ジョンの言葉にキースは沈黙した。妻と娘の面影が、一瞬、頭をかすめる。


「それでも構わん、いいからもう一度やるんだ!」

 キースの語勢にジョンは震え上がってコンピューターに向き直った。だが、計算ミスを願うのはジョンも一緒だった。

数十分後、ジョンは空しく、同じ計算結果をキースに報告した。キースは無言のまま唇を噛んで、足下にあったコーラの空き缶を、力任せに踏みつぶした。アルミ缶が潰れるぐしゃりという音に、そばにいたスタッフたちが驚いて振り返った。

何の対策も打ち出せないまま、時間は刻一刻と過ぎていく。その間にも、割れたゼウスの頭から、勢いよく飛び出した燃えたぎったアテナの女神は、迷うことなく、まずはすぐ内側を周回していた赤い獲物、格好の標的である軍神アレス(火星)へと向かって、まっしぐらに突き進んでいった。二本の鋭い角のある冠と頑丈な鎧で完全武装した戦の女神は、投げ槍をしっかりと握り直すと、相手の心臓に狙いを定めた。

そして、その視線にはすでにその先にある次の標的、地球をも捉えていた。


「神話」あるいは「音楽」というかたちで世界各地に散りばめられた「時間を越えた物語」は、数千年もの歳月を経て、今ようやく成就の時を迎えた。


『天球のシンフォニー……』


その第一楽章のタクトは、今まさに力強く振り下ろされた。



(完)

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天球の交響曲(アマデウス・コード)〜「風の時代」に捧ぐ 喜多川リュウ @ryu2013

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