Epilogue(1)
【時間については、今日にいたるまで、我々は何かしら決定的なことを知りえずにいる(アンドレイ・タルコフスキー / 芸術家、映画監督)】
その日、摩耶子からの出産を知らせる一枚の葉書が、村尾のもとに届けられた。島での生活にもすっかり慣れたその様子に、村尾はほっと一安心した。
普段は筆無精な村尾だが、この日は柄にもなく返事を書こうと思った。電話をすれば済むことなのに、なぜかその日は手紙を書きたい気分だった。普段、最新鋭のコンピューターに囲まれた仕事をしている村尾だが、自宅にはパソコンすら置くのを嫌い、こんなときは妻の旧式のワープロを借りるしかなかった。
「あれ、ワープロのリボンが切れちゃってる。予備はなかったかい?」
文章を打ち終えてから、試し刷りのために紙を差し込もうとした村尾は、すぐそばにいた妻に聞いた。
「確かどこかに買ってあったと思うけど……。ちょっと待ってて、すぐ探してみるから。取りあえずは裏返して使っててよ」
この手の古いタイプのワープロは、専用のリボンを装填して印字するようになっているので、こんなときには困ってしまう。
妻に言われるがままに、村尾はカセット式のリボンを取り外すと、ひっくり返して装填し直した。リボンには、これまで打った文字がうっすらと残っている。何度も繰り返して使うと字が薄くなってしまうが、試し刷りにはこの程度で十分事足りる。
キュルキュルと左右に世話しなげに動くリボンを見つめていた村尾に、急にある記憶が蘇った。そう、あの晩のことだ。望が飛降り自殺をしたあの晩、マンションでもこれと似たような体験をした。あのときも確かこうしてオープンリールテープの入れ替えを行ったのだ。
村尾は再生を終えて空回りしているテープを外して、再生側のリールへ装填した。そして再生ボタンを押すと、音楽はすぐにかかった。そう、ものの十秒もしないうちに41番は流れ出したのだ。
4トラック2チャンネルという一般的な機種だと、カセットテープと同じように、1番目と3番目のトラックがA面の左右ステレオ、2番目と4番目のトラックがB面の左右ステレオに対応しているので、A面を再生し終えたテープを反転してかけても、B面が再生されるだけだ。だが、音質を重視したプロ仕様の2トラックのオープンリールの場合には、テープは片面しか使えない。つまり、テープは録音も再生も一方通行しかできないのだ。
あのとき、村尾は無意識にテープを反転させて装填した。すると41番はすぐに流れ出した。だから何も不思議に思わなかった。気も動転していたのだろう。だが、よくよく考えてみれば妙な話じゃないか。望のデッキは、プロ仕様の2トラックだったのだ。巻き戻しをしなくともすぐにかかったということは、それまでテープは逆に装填されていたということを意味している。
あの夜、再生し終わったテープは空回りをしていた。普通ならそれを再生側のリールにかけ替えて、新たに再生するためには、まずは一旦巻き戻しをする必要がある。テープが切れて、音楽が終わってしまったのだから、それは当然だ。しかし、あのときはすでに頭出しがしてあったじゃないか。だれかが巻き戻したというのか? そんなはずはない。警察の連中だって、まだ手を触れていなかったはずだ。空回りしているテープに最初に手を付けたとき、自分もその場にいた。周囲には警察官もいたが、彼らの見守る中で、実際に操作方法を指示したのは自分自身だった。
(いったい、どういうことなんだ!)
村尾の全身に稲妻が走った。
村尾の、いや、あの場にいた連中の記憶が正しければ、テープは最初から反対向きに入っていたということになる。それは通常は考えられないことだ。だが、そうとしか考えようがない。なぜ、わざわざテープを逆回転にして聴いていたのか。それではまともな曲になどなりっこない。なら、いったい何のために? テープを逆に回すだって? クイズ番組の曲名当てじゃあるまいし……。
(望さん、あの夜、いったい何が起きたんだ?)
「はい、新しいインクリボン、やっと見つかったわ」
村尾の耳に、妻の声は届かなかった。
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