3 神秘主義
これまでの僕の主張を簡潔に表すとこのようになる。
①叙事詩とは集団のための思惟経済によって生まれた形而上学的な文学である。
②古典劇とは個人のための思惟経済によって生まれた実証主義的な文学である。
それでは、本章では「文学とは何か」という根本的な問題について考えていきたい。
叙事詩も古典劇も思惟経済を必要としている。当然だ、文学を成り立たせている「言葉」というものがそもそも思惟経済の賜物だからだ。あらゆる言葉は認識を普遍化し共有する。言葉は日常言語であれ数式であれ経験の捨象によって成り立っているのだ。
経験の捨象(思惟経済)をやめるとき、言葉は絶える。日食を「太陽―月―地球が一直線になったことによる現象」とも「狼が太陽を飲み込んだことによる現象」とも捉えなくなったとき、人は「日食」という言葉すら忘れて日食を認識する。これが神秘主義だ。
「金の融点は1064℃である」という命題が科学そのものでないのと同様、密教の経典やエックハルトの説教も神秘主義そのものではない(これは当の神秘主義者たち本人が認めている)。科学とは「1064℃」という数値を割り出すための「方法」であり、神秘主義もまた経典や説教の言葉を割り出す一種の「方法」である。
それでは、神秘主義の「方法」とは何か。
神秘主義の「方法」とは思惟経済の停止である。
思惟経済は必ず捨象とともにある。捨象によって意味のある言語世界は形作られる。しかしそれらは経験の捨象から成り立っている以上ものごとを根源から説明するには不完全だ。そのような不完全な言語世界を脱した者は、西田幾多郎が言うところの「純粋経験」と対峙することになる。そして彼はそこで得た何かを言語世界に持ち帰り、一般的に言われている「神秘主義」の思想を築き上げる。
神秘主義の実践と理論の関係は、革命と革命政府の関係に似ている。後者が確立されたとき前者はすでに終わっている。しかし、後者は前者によってのみ根拠を持つ。
能は形式において実証主義的だが、同時に形而上学的な美を体現している。これは能の裏側に流れる根拠としての神秘主義ゆえだ。能は個人の心理や集団の歴史を細やかに描くが、個人の心理や集団の歴史よりも深い地点を起源としている。ここに能の永遠性がある。
神話の形而上学 黒井瓶 @jaguchi975
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