2 世界観について

 前章でも紹介したマッハはニュートン力学の強烈な批判者だった。ニュートン力学はあらゆる現象を絶対時間・絶対空間の中で記述しようとするが、マッハはそれに反対したのだ。科学は現象Aと現象Bの関係(因果の有無など)に終始すべきであり、それ以上のこと、たとえば根本的な「世界観」の提示などをしてはならない……マッハの主張をまとめるとこのようになる。ちなみにかのアインシュタインはこのマッハの思想から強い影響を受けている。

 マッハはニュートンの力学を「形而上学」だといって批判した。しからばマッハ自身は反形而上学的な実証主義者だということになるだろう。

 この形而上学/実証主義という対立は神話的な精神世界にも存在する。正確に言うと、「実証主義的な神話」はあまり神話と見なされていないようだが……そう、「実証主義的な神話」とは呪術や迷信や風習のことである。呪術は「照る照る坊主」という現象Aと「降雨」という現象Bの間の関係のみを記述する。それに対し、形而上学的な「狭義の神話」は一つの世界観を記述する。ユグドラシルやヴァルハラは絶対時間や絶対空間と同じく演繹的なモデルであり、呪術の効用のみを重視する実証主義者にとっては不必要な概念だ。

 文学は神話から生まれた。よって文学も形而上学/実証主義という対立を神話から受け継いでいる。要するに、文学を「世界観の記述」として捉えるか、「関係の記述」として捉えるかという対立だ。

 古代ギリシアを例に出すと、形而上学的文学とは叙事詩であり実証主義的文学とは古典劇である。

 叙事詩人ヘシオドスは『神統記』の中で神々の系譜を、『仕事と日々』の中で人類史の変遷を説き尽した。またホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』を含む「叙事詩環」は、天地の初めからトロイア戦争による世界の荒廃と英雄時代の終焉を包括的に描き切っている。ギリシア人は叙事詩によって全世界をモデル化しようとしたのだ。

 巨視的な叙事詩に対し、古典劇は形式・内容ともに微視的である。ソフォクレスの『オイディプス王』はライオス殺害やスフィンクスの謎かけなどの出来事を作品外の前提として捨象し、雄大な歴史を避けて個々人の心理描写に徹している。これはまさに外的現象と内的現象の間の「関係の記述」であり、そのためには必要最低限の前提しか求めないという反形而上学的態度の表れである。

 形而上学的文学/実証主義的文学という対立軸は近現代にも受け継がれている。一番分かりやすいのはいわゆる怪奇文学だろう。アメリカ怪奇文学において、ラヴクラフトは形而上学者でありポーは実証主義者である。ポーの短編には必要最低限の舞台装置しか用意されておらず、デュパンは現象間の関係を「分析」する。それに対しラヴクラフトは微視的な現象を飛び越え、宇宙全体のモデルの変更を読者に迫る。それゆえラヴクラフトの作品は狭い意味において「神話」と呼ばれる。

 文学における形而上学/実証主義の対立は、それぞれ集団/個人に対応している。人間は形而上学的な「世界観」を共有することによって民族の一員となり、その中を生きるのだ。「世界観」の記述である叙事詩やラヴクラフト作品が共同制作へ向かっていったのに対し、「関係」の記述である古典劇やポー作品が何にも派生せずそれ自身として完成しているのはこれが理由だ。いわゆる狭義の「神話」は世界観の記述であるため集団的である。

 さて、今まで僕は文学における形而上学/実証主義の対立についてある程度公平に記述していた。ここからは僕個人の趣味について語っていきたい。

 今現在、僕は形而上学的な、つまり狭い意味において神話的な文学をあまり好ましく思っていない。洗練されていないように感じてしまうのだ。僕に長編小説が書けないのはそのせいかもしれない。

 僕はポーを敬愛し、古典悲劇を崇拝している。そしてポーや古典悲劇と同じ系譜の文学として日本の能に親しんでいる。しかし、能を実証主義と呼ぶ者は少ないだろう。むしろ一般的に能は「形而上学的」と形容されることの方が多い。この点を踏まえ、次章では形而上学と実証主義の共通の根源へと迫っていく。

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