神話の形而上学
黒井瓶
1 神話と科学
小説のネタが思い浮かばないので文学論でも書いていこうかと思う。
光栄なことに、よく僕の小説は「神話的」と評される。じっさい僕は神話に強い関心を持っている。SeesaaブログやTwitterには神話について述べた文章がたくさんあるし、今も手元には『古事記』とユング『変容の象徴』が置かれている。
しかし、神話とは一体何なのだろうか。また、文学は神話的であるべきなのだろうか。今日はこのあたりのことについて論じていきたい。
一般的に「神話」と「科学」は対比的に考えられている。かつてゲーテはニュートンのことを「宇宙から詩性を剥奪した」として非難したが、これなどは神話/科学の分かりやすい例だろう。ポストモダニズムは近代西洋の科学主義が非西洋や前近代の信仰と同様の「神話」であることを明らかにしたが、これも「科学主義」の神話性を暴いたに過ぎず「科学」という営みそのものへの認識は転換できていない。
そもそも科学とは何だろうか。マッハはこの問いに「思惟経済」という言葉で返した。人間は一瞬一瞬に膨大な情報を認識している。しかし全ての情報を記憶するためには膨大なエネルギーが必要となる。それゆえ、エネルギーの節約のために人間は認識される情報を単純な数式やモデルへと還元していったのだ……ざっくり言って思惟経済とはこのような思想である。
さて、科学が思惟経済ならば神話も思惟経済である。神話とは世界の認識を単純化するための一種のモデルなのだ。日食を「太陽―月―地球が一直線になったことによる現象」と捉えるモデルも、「狼が太陽を飲み込んだことによる現象」と捉えるモデルも、日食をただ日食として認識することに人間が耐えられなくなったから生まれたのだ。
無論、神話的なモデル形成と科学的なモデル形成には方法上の違いがある。しかし今の僕に両者の違いを定義する能力はない。そういった根本的な問題はポパーなどの科学哲学者に譲り、僕は「科学内の思想対立を神話に当てはめることによって神話や文学のあり方を考える」ということをやっていきたい。
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