第82話 とある昔話⑧

 蓮は、よく笑うようになった。誰かのくだらない冗談に乗り、場合によっては自らナンセンスな発言をして、場の空気というものの調律を覚えていった。

 異物から人間へ。「れん」から蓮へ。到底納得しがたかったはずの存在が、いつの間にか手のひらに収まるほど身近になっていく。

 

 涼音には、その一連の流れに誰よりも寄与したという自覚があった。


「ねえ、蓮」

「ん?」


 もう、かつての剣呑さはほとんど残っていない。自分以外への対応となるとまた違うのはわかっているけれども、少なくとも相手を涼音に限定したとき、蓮の振る舞いは凡庸そのものだ。初対面時に感じた得体の知れなさ、未知数の恐怖、それらは時間の中で角が取れ、いつの間にか喪われた。


「近いうちに大会とかあるの?」

「……大会、ね」


 口ぶりには含みがある。どうやら最近、クラブで好ましくないことが起こっているらしい。その割に部屋の棚には盾やトロフィーが飾られていて、成績的な不満があるようには思えなかった。


「大会……というとニュアンスが変わるんだけど、もうじき遠征があるらしい。バス移動でわざわざ遠くまで訪ねて、合宿するとかなんとか」

「へー、大変」

「本当に大変だ……」


 蓮にはどうやら、勝ちへの強い執着がない。ある程度のレベルに達した人間は総じて次のステージを求めてさまよい出すものだが、彼はそうではなかったらしい。しがらみのない場所でボールを蹴り合い続けられればそれが理想だ。そんなことを言っていた。そして、わざわざそんなことを言い出す以上は面倒なしがらみが生まれ始めたというのとイコール。既にクラブは、彼にとって居心地の良い場所ではなくなってしまったようだ。


「それだったらもしかすると、わたしの予定とかぶっちゃうかも。暇だったら見に来てもらおうかなーって思ってたんだけど」

「ピアノ?」

「ううん。学校の合唱部が大会にお呼ばれしたんだけど、音楽の先生って一人しかいないでしょ? だから、ピアノやってるわたしに指揮者をお願いできないかって言われて」

「ピアノをやっているお前に、演奏以外を頼むのか?」

「練習に全部出られるわけじゃないから、そっちの方が都合が良いんだって。覚えることの量を考えても、指揮者ならなんとかなりそうだし」


 こういう安請け合いは慣れっこだった。人に頼られて悪い気持ちはしないし、期待に応えるのは好きだ。なにより、涼音がいないと始まらないとまで言われてしまっては、手を貸す以外の選択肢があるまい。


「小学生の合唱曲なんて、二度三度聴けばほとんど完璧に弾けるだろうに」

「それはそうなんだけど、よく考えれば指揮者ってやったことなかったし、いいかなって」

「貪欲」


 蓮はチャレンジ精神について言ったのだろうが、実際は違う。涼音は欲しがりで、褒められたがりだっただけ。求められることに心地よさを感じていたにすぎない。

 

「ま、頑張れ。応援しとく」

「蓮もね」


 五年近く通い続けた蓮の部屋。当初は無色透明に思えたこの場所も、今は表情に溢れている。端に無造作に置かれたサッカーボールに、買い替えに伴っておさがりとして運び込まれたゲーム用のテレビ。昔は新書と一般文芸でぎゅうぎゅう詰めだった本棚に、今では漫画やライトノベルがラインナップされている。歳を経るごとに蓮の在りようは軟化して、かえって幼さを増していくようにすら思えた。

 もう、初対面の女の子に失礼な対応をしたり、同級生の女子を理詰めで号泣させた少年の面影はどこにもない。――香月蓮は、徐々に普通に近づいている。


「なんか、変わったね」

「なにが?」

「全部!」


 うれしいことだった、と思う。自分が関わり続けた結果として、蓮には社交性のようなものが身に付いて行った。蓮の両親には度々感謝されたし、だからこうやって長々と居座ろうと文句の一つも言われない。彼が問題を起こす機会は目に見えて減って、かつて散々だった通知表の評価も今ではすっかり見られたものになった。俯瞰して、今の蓮はもう、少し変わった癖のある優等生といったところだ。それは特別に珍妙なものとしての扱いを受ける地位ではない。


「なら、それはお前がやったことなんじゃないか。変わる努力なんかこれっぽちもしていない僕だから、きっとお前の手によって変えられたんだ」

「なんか嫌味っぽい」

「一つ確かなのは、現状、とても居心地がいいことだけだな」


 それは、賛辞として最上級のものだった。蓮は、己の身に起こった変化を好ましいものとして受け入れてくれている。つまるところ、涼音の行動を肯定してくれている。


 と、ここで。


 どくん、と。


 心臓が大きく跳ねる音がした。


 似た感情は、これまでも何度か味わったことがある。たとえば数年前、空き地でサッカーボールを蹴りあっていたときに。たとえば数年前、ピアノコンクールが終わって、話をしたときに。

 知らない。涼音はまだ、その感情がどういうものなのかを理解できない。ただ野放図に高鳴るばかりで、収める方法にも心当たりがない。顔が火照り、気分が高揚して、どうしたものかと思案した結果。


「えいっ」

「なんだなんだ」


 隣に座っていた蓮の肩あたりに頭突きを入れる。こうでもしないとなにかがあふれ出てしまいそうだったから、仕方なく。


「なんだよ……」


 蓮は困る素振りこそ見せたが、嫌がっている様子はなかった。涼音は長い時間を費し、いつの間にか彼の懐に潜り込んでいる。かつて立っていた外側から、今立っている内側へ。振り返れば長い道のりで、ずいぶんと苦労した。おそらく、その場所にいるのは世界でたった四人だけ。彼の両親と祖父、それから涼音。そこはきっと、血のつながらない他人が立てる場所としては最上級。それ以上なく、それ以外がない。数少ない椅子を、涼音だけが手に入れた。

 

「なんでもないって」


 おまけにもう一度頭突いて、自分より一回り小さな彼の体に体重を預ける。視界は良好。なにもかもが順風満帆だ。

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清楚美少女にしては淫語を言うのにためらいがなさすぎる(恐怖) 鳴瀬息吹 @narusenarusenaruse

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