第81話 心の壁

 やはり、ありとあらゆる連絡手段は途絶えたままだった。現状、直接対面する以外ですずと意思の疎通は図れない。だから僕は、鉛同然に重たくなった腰を上げ、彼女の家を訪ねることにした。なんてことはない。移動距離なんて、たかだか数十メートルやそこらだ。……しかしながらその程度の距離を完走するハードルが、今の僕にはフルマラソンよりずっと高い。

 すずが香月家の合鍵を所有しているように、僕もまた花柳家の合鍵を所有している。だから、第一関門を突破することは難しくない。がちゃり。鍵が開いた確かな感触のあと、背筋に走る緊張。それを振り払うようにして、ドアを引く。


「……ふぅ」


 鉄扉は素直に開いてくれた。もしもチェーンロックが施されていた場合、僕にはどうすることもできなかった。物理的に中に入る術がないのはもちろんのこと、それは明らかに、僕を拒絶するサインとしての機能を果たすからだ。チェーンは内側からしかかけられず、共働きの花柳夫妻が家を留守にしている今、ドアを閉ざす権利を持っているのはただ一人。……それがないということは、少なくとも家に踏み入ることくらいは許容してくれていると思って構わないだろう。

 家具の配置も、生活感も、昨日と大差ない。それが逆に恐ろしかった。すずの両親は現時点で、我が子の異常に気が付いているのだろうか。昨夜の段階で発熱は確認できたから、単なる体調不良だと勘違いしているのではないか。思考が飛び飛びになり、かと思えばぐるぐる回って安定しない。玄関からすずの部屋の扉までが遠くて遠くて仕方ない。……けれど、やがてはたどり着くのだ。世界というのは往々にしてそうなるように作られている。


 コンコン。ドアを二回叩く。それから、名乗る。


「僕だ。中にいるのか、すず?」


 無言で押し入ることもできなくはない。しかし、そうすることで得られるものがあるとは思えない。しばらく待っても、返事はなかった。だから僕は意を決し、ノブに手をかけ――


「――ああ」


 明確な分断。昨日感じることはなかった、嫌な感触。このときばかりは、鍵というものを開発した人間を恨まざるをえなかった。恨みついでに、彼ないし彼女はよほどの防犯意識を持っていたのだろうなとか、あるいは心の壁がこの上なく分厚かったのだろうなと意味のない思考作業に耽り、眼前の現実をどうにかして自分から遠ざける。

 部屋に、鍵がかかっている。この単純な事実は、僕を絶望させるには十分過ぎた。少なくとも昨日は開放されていた場所が、今日になって閉ざされている。その意味がわからないほど馬鹿ではないつもりだ。

 

 花柳涼音は、僕に会うのを拒んでいる。この上なくわかりやすい意思表示に、体幹が揺らぐ。……やはり、昨日の対応がよくなかった。素早くフォローしていれば、もう少しなんとかなった可能性はある。よりにもよって無言で固まるなんて馬鹿な真似を演じてしまったものだから、それがここまで響いている。

 無能を晒した。その過去を受け入れて、そこからどうするか。それが現状の僕に与えられたもっとも大きな命題。


「聞こえてるのか?」


 眠っている可能性もある。心身のバランスを喪失した人間の行動は二極化しがちな傾向にあって、片一方は極度の不眠。もう片方は極度の睡眠だ。逃避行動として睡眠より優秀なものはないから、後者に針が触れる人間の方が体感的に多いとも思っている。ではすずがどちらのタイプなのかというと。


「起きてるよな?」


 あいつは、眠らない。元からショートスリーパーの気質があり、だから毎朝僕を起こすし、どこまでも夜更かしできる。徹夜のダメージも翌日に八時間も眠ってしまえば即座に回復可能といった高性能なエンジンを搭載してある。そもそもそれ以前の問題として、寝つきが極端に悪い。眠りたいのに眠れないといった、僕とは無縁な悩みを抱えている人間だ。

 とりわけ、不安ごと、悩みごとを抱えているときはその傾向がより顕著に現れる。今がそれに該当するのは想像に難くなく、もし仮に浅い眠りにつけていたとしても、僕がやってきた物音で目は覚めているはずだ。


「食事は摂ったのか? 水分は? 体は今どんな具合なんだ?」


 一日こうやって部屋に閉じこもっていると仮定して、その間になにも口に入れていなかったらどうだろう。死ぬとまでは行かないが、明らかに体にはよくない。そして、あいつの自罰的な性向が、そうすることを望んでいる可能性を捨て切れない。自分の体をいじめることで満たされる感情がある。少なくともすずには、だが。


「昨日は悪かった。僕も疲れて気が動転してたんだ。でも、直接顔を見てじゃないと謝った感じがしない」


 僕にできること、やれること。どれだけ考えても答えはでなくて、だからこうしてひたすら下手に出続けることくらいしかできない。それすらも彼女の負担になりかねないというのは承知していて、だから無為に繰り返す僕を諫めるため、向こうから立ち上がってくれる可能性を期待している。すずの心根の優しさにつけこむ甚だ最低な行為であるというのは自覚しているが、現状これくらいしか思いつかない。


「頼むよ……」


 僕らには、信頼関係がある。互いが互いの幸福を望むポジティブな信頼と、もう一つ。


「……ご飯は、食べたよ」


 互いが互いの不幸を極度に嫌う、これ以上ないくらいにネガティブな信頼。幸せであって欲しいのではなく、不幸せであって欲しくない。いかなる災いも相手に降りかかることがありませんようにという、消極的な願いだ。ただ、つつがなく、大過なく、日々を安寧に送ってもらいたい。基本にして根幹。思考の底に根付いた理念。僕と彼女が共有する、決して褒められたものではない絶大な信頼。


 すずは、それを裏切らなかった。


「水も、さっき飲んだ」

「熱は?」

「そっちはまだ下がってない。……たぶん、長引くと思う」

「なら病院行かないと。僕が付き添うから」

「……いい。大丈夫」


 裏切ることこそなかったが、それは同時に、彼女がこしらえた壁の高さ厚さを知らしめた。ようやくのこと会話は成立したが、肝心のドアは開いていない。今はドア越しに、生気の抜けた声が聴こえているだけだ。


「大丈夫ってことはないだろ。ただの風邪って甘く見ると痛い目に遭う。相場は決まってるんだ」

「大丈夫だから。きっと、治るから……」


 本来力強いものであるべき肯定は、すっかり萎れてなにひとつ大丈夫である要素が見いだせない。顔が見えないせいでかえって不安が煽られて、今すぐにでも壁を蹴破ってすずを外に連れ出したい衝動に駆られる。……ただ、それは収めた。行動には順序がある。


「スマホ見たか? どんだけ連絡しても通じなくて、かなり焦ったんだぞ」

「……ごめん。今は、怖くて」


 怖い。そうだ。彼女は人とのつながりを恐れている。五年前からこっち、人間という生物全般に拒否症状を示すようになってしまった。当初は、僕だってその例外ではなかったのだ。だから例外になろうとして、来る日も来る日もこのドアを叩いた。その結果として、今がある。

 最近、良化の兆しは見えてきていた。手厚いサポート込みではあるが芦屋とのパイプをつなげ、殻を破る第一歩を踏み出したものだとばかり思っていた。だが、結果はこの通り。ほとんど僕からしか連絡がこないとわかっているスマホを、すずは遠ざけた。それが意味するところは単純で、故に芯に響く。どこまで行っても、花柳涼音と香月蓮は他人なのだ。信頼したつもりになっても、一蓮托生の気分に浸っても、その事実だけはどうしても変えられなかった。家族にしか与えられない安らぎがある。その現実が、濁流となって僕を責め立てる。


「……怖いなら、仕方ないな」

「…………ぁ」


 言ってすぐ、やってしまったと思った。この類の弱音は、今一番聞かせてはいけないのに。僕たちの感情は連動する。すずが参ってしまって僕がにっちもさっちも行かなくなったように、僕が明らかに傷ついたそぶりを見せたら、彼女は――


「ご、ごめ……わたし、そんなつもりじゃなくて……」

「わかってる。わかってるから」


 それこそ、痛いほどに。


 すずは、感情の機微に敏感な人間だ。僕が彼女限定でぎりぎり発見できるような些細な差異を、彼女は誰に対しても見つけてしまう。見つけて、自分のことのように感じ入ってしまう。それを優しさなのだと勘違いしていた時期もあったが、今ならはっきりとそれが弱さ脆さだと断言できる。人の傷を自分の傷にしてしまうのは、ただの傲慢だ。同じく傷ついたところで、できるのはせいぜい同情。癒しになんてつながらない。だからすずは多くの人間の拠り所にされ、それゆえに壊れた。ひび割れた器に、これまで通りの役割は果たせない。小さなひびはやがて大きな亀裂になり、砕け、散らばり、今となってはそれが元来器の形をしていたのかすらわからない。


「お前もわかってるだろ。僕はお前に謝りたくなんてないし、お前に謝って欲しくなんてないんだよ」


 共有しているはずなのに、言葉にしないと伝わらない。もどかしいジレンマの渦でもがきながら、それでも対話を諦めるわけにはいかず。


「お前が僕に対してなんらかの負い目を抱えているのはわかった。……でも、当の僕が気にしていないことを、お前が気に病んでどうする」


 僕とすずは、根本的に違う人間だ。当たり前の話だが、これが意外と根深い。すずは、地球の裏側で起こった紛争やテロなんかにも平等に心を痛めてしまう感受性を持ち合わせている。人命を等しく平等なものと捉え、その中でも特に大切な人が何人かいるといった具合だ。

 僕は正直、どうでもいい。口にすると顰蹙を買うことがわかり切っているから言わないだけで、たとえばよその国の人間が何人死んでしまったところで、それが自分の生活に影響の及ばない範囲だったら構わないと思える。あまつさえ、ニュース番組の情報が濁ってうざったいななんて思ってしまえる。だから極論、すずがふとした拍子に見ず知らずの他人を刺し殺したとしても、僕は彼女の側に立つ。相手に非がなかろうと、過失度合いが十対ゼロだろうと、僕はすずの肩を持ってしまえる。この生まれつき持っていた倫理的欠陥が幼少の僕を孤立させたことは言うに及ばない。

 

 すずが大切に思うものには、グラデーションがある。末端の色が薄い部分にだって、彼女の心は揺れ動く。一方、僕には白か黒かしかない。色のない場所について考えることを元から想定していない。すずの柔らかな思想に触れることで僕は後天的に他人への思いやりを獲得したが、それにしたって先天的な無機質さは変動しなかった。僕は未だに、人間関係の大半をビジネスだと捉えてやり過ごしている。そうでもしないと、どこかで取り返しのつかない失態を犯してしまいそうだから。かわいそうだとか申し訳がないだとか考えておこないと、どうにかすずがねじこんでくれた社会の輪から、もう一度弾き出されてしまいかねないから。誰かと触れ合いたい。仲良くしたい。そう考える傍ら、その行為の無意味さに疑問の声を投げかけ続ける存在があった。その声の主を探して書物を読みふけり、知識をつけていく過程で、声が自分から出ているものだと気が付いた。それ以来、その声に惑わされないよう逆行し続けている。僕は、なにより自分の本能が恐ろしい。

 すずは僕に恩を感じているようだけれど、やはりそんなことはない。彼女は意図しない内に、人道的落伍者を一人救っている。この大恩は、一生かけても返しきれるかわからないものだ。


「どうしてもその負い目が消えないというなら、一緒に嘘をつこう。なにもなかったという僕の言葉に、お前は頷くだけでいい。新しい負い目で過去を洗い流して、覆い尽くして、なかったことにしてしまえば……」


 これもまたずいぶん酷い提案だ。恐ろしいことを相手に強要しようとしている。そうすることで、目付を強引に変えてしまおうとしている。その罪であれば、僕だって一緒に背負えるはずだから。僕ら二人が平等に同じ傷を負っていれば、少なくとも相手の窮状に自らの心を痛めるなんて事態は起こり得ない。最低にして、他の選択肢が入り込む余地のない無死角のアンサー。

 どうせ背負うなら、同じ罪が良い。すずが今現在囚われている傷は、僕には共有できないものだからだ。

 

「できないよ……」


 ああ、だろうな。お前はそういう奴で、だから僕は救われた。知っている。知っていて提案した。受け入れられないと理解しつつ、突っぱねてもらうためだけに口にした。二律背反。自己矛盾。否定によって得られるナニか。自認している。僕は、僕とすずの関係が歪んだものだと自認している。こんなに不健全なものが他にあるものかと理解して、その上で尊んでいる。

 歪めたのは他ならない僕だ。吐きそうなほど窮屈な感覚に苛まれる今現在にも、それの健在を確かめたくてたまらない。……もしかしなくても、花柳涼音は僕に関わることさえしなければ、はつらつとした女の子のままでいられたのだろう。僕は――そしておそらくすず自身も、それに気が付いている。ただ、暗黙の了解として口にしないだけで。


「じゃあ、どうする。どうすれば、お前を部屋から連れ出せる?」


 手詰まりなのは承知している。だからといって諦められるようなことではないのだ。彼女の平和は僕の平和で、彼女の無事は僕の無事。なにを捨て置いても、彼女の精神的安全を確保しないといけない。


「わたしね、蓮が思ってるほど良い子じゃないよ」

「…………? 今更お前の性根を疑えるかよ」


 想定にない発言。どう泣き落とすかに傾注していた最中、明後日の方から銃弾が降り注いだ。今になってそんな告白をされても、「そんなわけあるか」としか答えられない。


「蓮が期待してるほど、わたし、優しくないよ」

「優しさというのが寛容さまで包括するかはわからんけど、もしそうだと仮定したら、お前は嫌でも優しい人間にカテゴライズされるんだよ。寛容じゃない人間に、昔の僕の相手はできない」

「……そうじゃなくって」

「実例ならいくらでも挙げられる。どこで助けてもらったか、事細かに語れるぞこっちは」

「…………だから、そうじゃないんだよ」


 わからない。すずと僕の間に生まれている齟齬がなにを原因としているものなのか、わからない。わからないから溝は埋まらなくて、二人の距離はただただ離れていくばかり。その感覚が気持ち悪くて、「じゃあなんなんだ」とついつい語気を強めてしまった。


「蓮が思うほど、わたしも単純じゃないの。……だから、ごめん」

「……だったら話してくれ。聞くから。どれだけ長引いたって付き合うから」

「ごめん。ごめんね……」

「…………」


 没交渉。おそらく、ここから強引に詰め寄っても昨日の二の舞を演じるだけだ。それが嫌だったから、僕は一歩ドアから離れた。一歩離れて、背を向けて、強烈に後ろ髪を引かれながら、花柳家を後にした。……結局、なにも解決していないことには目を逸らしながら。

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