第80話 とある昔話⑦-2
ステージの華々しさと対をなすように、舞台袖は暗くひりついた雰囲気で溢れている。周りを確認できる余裕を持つものはごく少数で、ほとんどの演奏者は透明な鍵盤相手に手を動かしたり、とっくに暗記したはずの譜面とにらめっこしたりしていた。楽屋の空気は多少なりとも穏やかさを思わせたから、そのギャップが涼音の平常心をも狂わせる。
ピアノコンクール本番。練習に練習を重ね、準備の度合いは十二分。いつも通りの演奏さえできれば成功は確約されているが、そのいつも通りがひび割れる危険があった。
「君の両親の傍で鑑賞することになると思う」
朝、顔を合わせた蓮が言ったことだ。正直、予め位置が把握できるのはありがたい。そうでなければ、きっと彼の居場所を探そうとして気が散りっぱなしになってしまう。……まあ、居場所を理解したらしたで、意識の集中方向にむらが生まれるのだけれども。
滑らかな音の波が耳朶を打つ。涼音の一つ前を任されている演奏者は、これといった問題なく曲を消化している。リズムに乱れはなく、下手に考えこむより、そのメロディに没頭していた方が安心できた。音楽はいい。ピアノは、特に。弾く楽しみにも聴く楽しみにも際限がなく、その気になればいつまでも浸っていられる。目を閉じ、耳以外から入る情報をシャットアウト。音を元に頭の中で譜面を作って、自分ならどう演奏するか、どう魅せるかを考える。そうしているうちに音が途切れて、間もなく係員から涼音の名前がコールされた。
一瞬で現実に引き戻され、ここで再びどうしたものかと怖気が走る。涼音は度胸自慢の類だが、これから立つのは未経験の大舞台。そこでどう立ち振る舞えるかなど想像が及ばない。
係員に連れられるまま、ステージの方へゆっくり歩を進める。膝は笑っていて、気をつけないと右手と右足が一緒に出そうになる。自身が浴びる光量が歩を進めるたびに増して、その眩しさに目を細めた。さっきまで聴いていた曲とこれまで練習してきた曲とが頭の中で入り混じり、不協和音まみれで構成されたトンチキな楽曲が誕生。もしもこれに引きずられたら大変なことになるのだろうなあと、下腹部が嫌な痛みを訴え始める。けれど、時間も順番も涼音を待ってはくれないのだ。当人にとっては一世一代の挑戦でも、大きな視点から見たとき、彼女の演奏はただのプログラムの一つに過ぎない。その無機質な脅威に、涼音は生まれて初めて晒されることとなる。
そして、ステージへ。
あちこちから、拍手が聴こえる。逆光がすごくて、想定より観客席は気にならない。ぽつんと置かれたグランドピアノだけが強い主張を放っていて、涼音は半ば引き寄せられるように着座した。
深呼吸を一つ。そして二つ。思考が冴え始め、ここ一番でわずかながらの余裕が生まれた。――そして涼音は、その余力をとあることのために無意識的に使用した。
(二階席。ステージから見て左。前列)
母親から聞いた情報を、呪文のように繰り返す。応じるように、視線もそこへ向けられる。――アパシーな瞳、乏しい表情、それらが混じることで発される、ただならぬオーラ。彼は――香月蓮は、普段の姿でそこにいた。約束通り、宣言通り、涼音の演奏を一目見るためだけに、貴重な休日を返上して、そこにいた。
(あ……)
涼音には、予測できなかった。もし本番の舞台を蓮に観られるとして、自分がどんな反応を示すのかを。豪奢な椅子に座って、指先が鍵盤に触れる数瞬前まで。
しかし、答えは出た。もしもその瞬間が訪れたとき、涼音は――
(いつもとおんなじ、なんだ……)
誰も彼もが浮足立ち、心を乱される舞台。祈るように胸の前で手をぎゅっと合わせている涼音の母親なんかどこ吹く風で、蓮は平静そのものだった。何人も、何事も、彼を動かしうる材料にはならない。ではもし、彼がその堅牢に鎖された相好を崩すとしたら?
(わたし……だ)
彼の心になにかを響かせる。それこそが、涼音の役割。だって、自分以外に蓮をこの場所まで連れ出せる他人なんていない。涼音は現時点で、香月蓮にとってもっとも身近な他人なのだ。
その使命を感じ取った瞬間、涼音の視界は一気にすっと狭まった。不必要なパーツを世界から一つずつ排除していく。極限まで取捨選択を行って、それでも残ったものを見定める。見定めて、研ぎ澄ます。研ぎ澄まして、後は――
「ありがとうございました。続いては――」
終わりを認識したのは、舞台袖にはけてからだった。演奏中の記憶はない。もしかしたら、自身に与えられた時間をただ呆けたまま過ごしたのかもしれない。だが、その可能性は観客席から響く拍手が否定した。涼音は無意識に、地力を上回るパフォーマンスをしてみせたのだ。そのことに気付いて、ようやく現実が追い付いてくる。心臓が張り裂けそうに高鳴って、ありとあらゆる血管が喜びを表明するようにはち切れそうになり、酸欠で視界が歪む。駆け寄ってきたピアノ教室の講師の褒誉も、コンクールに参列していた長ったらしい肩書を引っ提げた老人の祝辞もろくに耳に入らない。やり切ったという実感は、涼音の中にはない。だから、それを確かめるためだけに、ある一つの確認作業だけが必要だった。
「……ねえ!」
予定された演目全てが終了し、会場の外で待っていた家族と合流する。そこにいるのは父と母と、あとはもう一人。興奮冷めやらぬまま、両親がなにか言葉を発するよりも早く、涼音は声をあげた。訊きたいのだ。知りたいのだ。他の誰でもない、彼の言葉が。彼が今なにを思っているかが、世界で一番重要なのだ。
「どう――」
「――君は、すごい人間だ」
どうだった、と。そう質問する前に、答えは用意されていた。
「…………っ!」
「十分に知っていて、わかっていたつもりなのに、それでもやっぱりすごかったよ」
ピンポイント。その言葉が欲しくて、逆にそれ以外の言葉などは全て必要なかった。ただ、それだけがあればよかった。
涼音は、香月蓮という特別な人間に、認めてもらいたかった。特別な人間の特別になりたかった。その積年の願いが成就した感慨はひとしおで、目じりにはうっすら涙まで浮かんでいる。
「よかったぁ~~~……」
緊張から弛緩への流れに緩衝材がなかったせいか、気のゆるみそのままに母親に抱き着いた。
あぁ。
近づけた。
近づけた。
特別に一歩、近づけた。
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