第79話 とある昔話⑦-1
とにもかくにも、「れん」の周りは話題に事欠かなかった。常に新しい発見があるとでもというか、近くに知らない世界が広がっているとでもいうか、あまりに性格がかけ離れている相手だからこそ得られるものが多々あった。
「そういえば」
向かいにいた「れん」が蹴飛ばしたサッカーボールを、おっかなびっくり片足で受ける。小学三年生の中ごろのことだ。涼音はたまに、「れん」に誘われるまま練習相手をすることがあった。運動神経は良かったし、男子を含めても身長がかなり大きい方だったというのもあって、その役目を果たすのはそこまで難しくなかった。……最初のうちは、だが。経験も二年を越えると、さすがに体格の利では補いきれない明白な差が生まれ始めてきていて、その頃にはもう、練習というよりはただのコミュニケーション手段になりつつあった。
「来月、コンクールなんだ」
見よう見まねでリフティングをするも、何度やっても回数は十回を越えない。つま先や膝の骨ばった部分にあたっては明後日の方向にボールが弾んで、飛んでいったボールを慣れた手つきで「れん」が回収する。何度か手本を見せてもらうものの、それでできるのなら苦労はしないのだ。
「最近よくピアノの音が聴こえるなとは思っていたけど」
「本番はね、あれよりずっといい音が出るおっきいピアノでやるの」
「僕の耳じゃ音の良し悪しは聴き分けられない」
またミスをして転がったボールを、「れん」が器用に足で拾う。そのまま足の側面だけでぽんぽんとボールを弾ませ、仕上げに蹴り上げて片手で受け止めた。当たり前ではあるが、涼音の部屋にある電子ピアノは、音響の整った空間で使用できるグランドピアノと比べたら音質で劣る。手入れが簡単で気軽に練習できるという利点は認めているものの、やはり演奏するなら良質な楽器でと思ってしまうのが人情だ。
「色んな人が見にくるの。だからピアノを弾く子はみんなドレスを着て、綺麗な靴をはいて、とにかくすごいんだ」
前年までは観客として、同じピアノ教室に通う上級生や、見ず知らずの子どもたちの発表を眺めてきた。大人顔負けの演奏をする子から緊張で泣き出してしまう子まで様々だったが、元来目立ちたがりの性向があった涼音としては、自分がステージに上がるのは望ましいことだった。ピアノの腕には自信を持っていたから、あとはそれを披露する舞台が必要なだけだったのだ。
きらきら目を輝かせて語る涼音。一方、その様子を指先でボールをもてあそびながら見ていた「れん」は。
「そのコンクールって、家族以外が見に行っても構わないの?」
「……? よくわかんないけど、演奏の会場に入るときになにか聞かれたりはしなかったよ」
質問の意図が読めず、首を傾げる涼音。彼女の脳内は専ら、出会った当初と比べて柔らかくなりつつある「れん」の口調についてで占有されている。それについて本人に言っても自覚症状はないようだったけれど、明らかに過去の刺々しさはそこにない。なんというか、単語選びやイントネーションに息遣いがあるのだ。昔の「れん」に、そんな無駄はなかった。ロスを最低限にして、効率的な人生運びをしているような雰囲気が常から漂っていた。
「なら、僕も見物しに行こうか」
「うそ?!」
思わず、声が裏返る。いくらなんでも、それは予想外の提案だ。「れん」の出不精は年季の入ったもので、特に休日になると家どころか自分の部屋から出るのすら渋い顔をするほど。サッカーの練習試合かなにかで土日両方が潰れてしまうときなんて、口には出さないけれど「なんでこんなことを始めてしまったんだ」という盛大な後悔が顔に現れている。そんな表情で出て行くくせに試合では誰より活躍してしまうのだから、人というのはよくわからない。
「嘘もなにも、君だってしょっちゅう僕の試合についてきてるだろ。なら、僕にもその逆が許されてしかるべしだ」
「で、でも、待ち時間は長いと思うし、わたしの番が終わったからってすぐに帰れるわけでもないし、それに……」
「それに?」
それに、「れん」が見にくるなんて予定はなかった。両親に見られてもピアノ教室の同輩に見られても学校の友達に見られても緊張することはないと断言できるが、彼の場合は話が変わる。涼音自身にも理由は説明できないが、「れん」が観客の中にいたらいつも通りの調子でなんていられないのだけはわかっている。もしそうなったら、練習の成果なんて塵ほども発揮できずにぼろ雑巾になるか、練習でもあり得なかったくらい最高の演奏を披露して、知り合いみんなに褒めそやされるかの二択だ。彼がこなければ練習通りにこなすだけだから、振れ幅があまりにも大きすぎる。
元々、自分がピアノを弾く姿を「れん」に見せたことはない。それは基本的に涼音が「れん」の部屋に赴く形でコミュニケーションを成り立たせてきたからというのもあるし、そういう普段とは違う自分を見せることに気恥ずかしさを感じていたからでもある。その機会がよりにもよって大舞台になるなんて、考えてもみなかった。
「えと、それっていうのは……」
おそらく、多少強引にでも理由をつければ、あっさり「れん」は身を引くだろう。押しが強い性格ではないどころか、基本的にいつでも受け身姿勢なのだから。……だが、それは涼音にとって、あまりに惜しい選択。だって先ほどの「れん」の提案は、足かけ二年半の付き合いの中で初めての彼から踏み出す歩み寄りなのだ。この機会を逃せば、次はいつになるか。そもそも次なんてあるのかどうか。
「嫌ならやめておこうか、やっぱり」
「い、嫌じゃない。嫌じゃないけど……恥ずかしいよ」
「なら、バレないように入ってバレないように帰るよ」
「今それ聞いたら余計気になっちゃうって」
意識が散漫になること請け合いだ。もはや演奏どころではない。やはり、今回は遠慮しておくべきなのかもしれない。それが両者のためになる。――そうやって諦めようとしていたところ。
「それじゃあ、僕はどうすればいい。君が条件をつけてくれ」
「それって……」
自分の晴れ姿を見せる代価として、「れん」になにかを支払わせられる。本来、涼音が「れん」の試合を観戦しにきてばかりで不公平だからという話だったのに、いつの間にかメリットが涼音側に寄り過ぎている。それは裏返せば「れん」にはそれほどまでの熱意があるということだったのだが、涼音は他の考えに夢中でついぞ気づけなかった。
「君の言うとおりにするよ。一目につかない席に座るでも、帰ってからコンクールの話題は出さないでも」
「それならね!」
食い気味に声を上げる。彼に支払わせたい、ちょうどいい対価が存在するのだ。いいや、これはどちらかというと、涼音の気持ちの問題になってくるのだけれど。
「名前、呼ばせて」
「……?」
実のところ、面と向かって名前を呼んだことが一回だってなかった。「ねえ」とか「ちょっと」とか、実名を使わずとも会話は意外と成立する。そうやって成立してしまうがゆえに、二年以上の付き合いの中、涼音は直接名前を呼称するのをなんとなく避けてきた。いつまで経っても「れん」には近寄りがたさのようなものがあったし、下手をすると足踏みしたまま前進することなく終わるかもしれない。だが、それでは面白くない。
「許可を取るようなことか?」
「いいの! それで、どう?」
「どうもなにも、お好きにどうぞとしか」
「…………」
「なぜ黙る」
「……ちょっと待って」
いざゴーサインを出されても、いきなり数年分の習慣を破棄するのは難しい。誰かを名前で呼ぶという当たり前の行為にためらいや違和感はないが、こと相手が「れん」となると話は少し変わってくる。気恥ずかしさもあるし、それに、向こうの反応も気になる。なににおいても心の準備が必要で、今すぐにというのは難しいかもしれない。
「もう夕方だ。母さんたちが帰る前に家に戻ろう」
薄赤く滲み始めた東の空を見るなり、「れん」はそそくさとマンションの方に歩いていく。その後ろ姿に、涼音は。
「……蓮」
手をふらふらと伸ばし、思わず呼び止める。ずっと呼んでみたくて、されどずっと呼べなかった名だ。口に出した二音は不思議な柔らかさを持って、周囲に響く。その声を受け、数歩先を先行していた影が立ち止まり。
「なに?」
いつも通りの平べったい無表情だったか、多少なりとも微笑んでいたか。知りたかったけれど、その情報は涼音の視界に収まることはなかった。どうしてか、前が見れない。首を折って、地面と対面することしかかなわない。
「日、暮れるぞ」
あてもなくさまようだけだった手が彼によって掴まれて、そのままぐいっと引かれる。景色が見えない仲でも、向かう先が二人の家がある方向なのはわかった。
「蓮。香月、蓮」
「僕の名前だな」
「うん。きれいな名前だと思って」
そんなことを言った奴が昔もいたなあ。蓮はしみじみ感じ入るように呟いてから、振り返ることなく歩調を速めた。速まったのが歩調だけなら楽だったのに。そんな涼音の思いは、きっと蓮には届いていない。
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