何者にも成れずどこにも行けない、まどろんだ精神の為に
桑原賢五郎丸
何者にも成れずどこにも行けない、まどろんだ精神の為に
すべてを諦めるその前に、少しだけ後ろを振り返ってみたい。自分が何を成したのか、何から逃げたのかを最後に確認するんだ。
まだ何も成してないと思うのなら、全力で運命に抗う方がいい。死ぬ時に見る景色は、きっと綺麗なものになる。
だけど、どうしても引き返さなければならない時。これは必ず訪れる。自分の為かもしれないし、誰かの為かもしれない。もし誰かの為ならその声に従うといい。引き返すのは生きること。そして生きるのは人の為。ただし死だけは自分のもの。
「残り20分」
死神の声が聴こえる。
汗が止まらない。体が中から燃えているようだ。意識をしなければ呼吸することすら忘れそうになる。もう若い頃のような無理はきかないな、と唇の端を上げて自嘲した。誰も見ていないが、まるで誰かが見ているかのように振る舞うことで平静を保つ。アクション映画の主人公のように。
コップに手を伸ばした。喉が渇いているのではなく、現実から目を逸らすタイミングなのだ。角張った氷が溶け、大きく動いて水をかき混ぜる。ガラスの表面には小さな水滴がいくつも浮かんでいる。少しだけ大げさに、そしてロマンチックに言うが、その氷が北大西洋に浮かぶ氷山に見えた。
そんな現実逃避をしている間に、タイムリミットは更に近づく。時間は誰に対しても平等だ。
「残り10分」
死神が残り時間を告げる。時たまこちらの顔を心配そうに覗き込んでいるが、余計なお世話だ。死ぬ時くらいは自分で決めてやる。この場所で、周囲のギャラリーを巻き込んで華々しく死んでやる。
いけない。つい玉砕することしか考えていなかった。こんな時こそ最初に言ったように振り返るのだ。何者にも成れずどこにも行けない、自分自身のまどろんだ精神の為に。
目がかすむ。まぶたを瞬かせながら壁のポスターをもう一度見上げた。
「1キロカレー30分以内に完食で1万円!」
大きな極太のゴシック体でそのように書いてある。40分前に意気揚々と注文した自分を呪ってやりたい。
注文し、カレーが到着するまで注意書きを読み進めていると、店からすれば当然のルールが書かれていた。
「お残しの場合は1万5千円」
高すぎるその値段から生じた動揺につけこまれ、ペースを狂わされたことも否めない。だが全ては、人生に起きた全ての出来事は自分のものだ。30年前は食べ切れたのになあ……。
「残り3分」
死神としか思えない店長の、笑いを含んだ声が響く。
最後の一口までまだ遠い。一度立ち上がり、勢いよく座り直した。こうすることにより胃の中の未消化物が下に詰められるはずだ。人間の胃腸がテトリスみたいになっているかはわからないが。
まだ時間は少しある。私は右手のスプーンをくるりと回し、強く握り直した。
何者にも成れずどこにも行けない、まどろんだ精神の為に 桑原賢五郎丸 @coffee_oic
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます