くじら

 くじら帝国は、地上に落ちた。

 ほかのいくつかの帝国も、そう。


 でも、やれる。どうにか、やれる。

 みどりのよみがえりつつある、うみのよみがえりつつ、地上でなら。

 やりなおせる――いくらでも。地上の民も、天空の民も、たいへんだって毎日言いながら、……笑顔だ。

 ぼくたちにも、たくさんの仕事がある。毎日毎日、たいへんだたいへんだって言いながら、笑っている。くじらとも、みしゃくじとも。



 そんなある日。

 地上にうみをとりもどすために、地下の青い楽園でうみのけんきゅうをつづけているユリさんに、ぜひ自分のうみを見てほしい、と言われた。

 くじらも、みしゃくじも、さそわれた。だからぼくたちは、三人でむかった。


 ユリさんがぼくたちにしたことは、もう気にしていない。ユリさんは、地上をすくおうとしたのだ。それだから、あんな行動をした。理由を知ったから、もう、それでいいってことにした。それは、くじらもみしゃくじも、そうだと思う。



 ユリさんの、青い楽園。

 地上のひとびとをまもったところ。

 そんなひろい空間にひろがる、ユリさんのつくった、うみ。


 小さな木のふねに乗って、四人でうみにこぎ出した。


「こんな小さな船でだいじょうぶかのう」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。本もののうみと違って、このうみは、そんなに広くないから」


 ……じゅうぶん、広く見えるけど。

 地平線が、まじわっているし。

 でも、ほんもののうみというのは――ユリさんによれば、もっともっと、もーっとひろいものなんだそうだ。



「それに、このうみには、あらしもないしさ。うみというのは、あらしがあるのがほんとうなんだけどね……まだまだ、私のちからじゃ、かなえられなくて。ひとりじゃやっぱり難しかったんだけど……これからは、できるかな」


 ぽつりと、しみじみと、言うユリさん。

 きっとできる、と思ったけれど……ぼくがそれをかんたんに言うことは、やめておいた。

 なんとなく。



 うみはあいかわらず、しずかに波うっている。ゆらゆら、と波はぼくたちの船をゆったりと揺らす。ふねには、すわっているけど、からだがゆれる。ゆりかごのように。

だんだん、すなはまが遠ざかってゆく。すなはまはただの線みたくなってきて、その線はだんだん細くなってきて、ついに見えなくなった。


 あたり一面、水ばかり――こんなのはじめての経験だったけど、ふしぎとこころ細くはなかった。むしろ、楽しかった。いにしえのひとびとがうみにこぎ出したというおとぎ話は聞いていたけど、じっさいにうみにこぎ出すのが、深い青色の水に囲まれるのが、こんなにも楽しく胸をときめかせるものだとは知らなかった。

 なんでだろう、なんでだろう。むしょうに。どうして。この青いうみから――ぼくたちは、うまれてきたから? ふるさとだから? どうして、どうして?

 その答えは、きっと……かんたんに出せるものでは、ないんだろうけれど。

 とにかく、とにかく。

 いまぼくは――うみに出て、こんなにも、わくわくしている。


 わくわくしているのは、くじらもみしゃくじもおなじのようで。

 くじらは船の先頭に立ち、むねに手を当てうみをまっすぐに見ているし、みしゃくじなんかはふねから身を乗り出している。

 ユリさんと言えばふねのまんなかに座り、慣れた手つきでふねを二本の大きなしゃもじみたいなものでぐいぐいと、こいでいる。うみに出る前に、「まかせちゃっていいんですか」と聞いたけど、「これは、しろうとがすぐにできるもんじゃ、ないよ。あぶないから。きみたちは、ぞんぶんにうみを見なさい」ってことで、ぼくたちは、ユリさんの技術に、気持ちに、あまえている。


 ぼくは立ち上がって、くじらのとなりに立って。その横顔に、話しかけた。


「くじら」

「……なんじゃ?」

「いよいよだね」


 するとくじらは、きゅっとくちびるを結んで、うむ、とうなずいた。ぼくはその真剣な表情に、すこしどきりとしてしまう。



 くじらは、語りだした。広い広いうみを眺めながら。



「わらわは、あの王宮がすべてだと思っていた……世界の、すべてなのだと。でも違った。世界は広かった。わらわの想像などまったくおよばぬほどに、広かったのだ。わらわはどっけの雨を知った、にゅむーを知った、魔法みたいなかみなりを知った、青い青いうみを知った。地上を知った……ひみつを、未来を、知った。そしてこれから、くじらを知る――広かったのだ、世界は広かったのだ。とても、広かったのだ……」

「ぼくもそう思うよ。……心から」



 世界は、広い――ぼくはその実感を、くじらの隣でかみしめていた。



そのときだった。



「あっ……!」


 最初に叫んだのは、くじらだった。ぼくとみしゃくじも、すぐに気づき、息をのむ。



  信じられないほど大きくて、予想していたよりはるかにつややかで、とてもうつくしく黒い生きものが、ざばあんとたっぷりの水しぶきをあげて、空を跳ねていた。

 その生きものは、伝説でしか見たことのなかったくじらは、ゆうゆうと、空を飛んでいるふうに見えた。なんのしくみも、ないのに。ただ、およぐだけで。


 水のなかから出てきて、半円をえがいて、また水のなかへ帰ってゆく。その動きは、とてもとてもゆったりとしたものだった。時のながれなど、知らないとでも、いうかのように。あまりにも。……どうどうとした、ものだった。



「くじら……」


 ぼくのおさななじみのくじらは、深く息を吐くようにして言う。それはまるで、くじら、という名のひびきをたしかめているかのようだった。くじら。そのひとことだけで、彼女のつよい想いがわかる。


「すごいね、でかいね、きれいだね……ほら、ぴかぴか、かがやいてるじゃん……すごくきれい……なにあれ、ありえない……」

 みしゃくじは、言葉を次々につむぎだした。そのぼうぜんとしたひびき。みしゃくじも、あまりにもおどろいている。


 そしてぼくはと言えば、ただ、黙っていた。

 ことばが、見つからなかった。

 くじらという生きもの。

 あまりにも、くじらという彼女にぴったりで、とても嬉しかったのだ。そのゆうがさ、そのきひん。



くじらは、飛ぶ。何回も何回も繰り返し、うみの上を飛びつづける。ぼくたちの目の前で、何回も、何回も、伝説上の生きものだったはずのくじらはすがたをあらわしてくれる。



「やっぱりびっくりするわよね。くじらを見たことがないのなら。私も最初、本で見たときですらびっくりしたもの……」



しばらくのあいだ、ぼくたちはなにも言わず、くじらを見つめていた。おのおのの、想いがあった。この旅に対する、地上に対する、くじらに対する、想いが。



 このくじらのおよぐうみを――とりもどす。

 もう、地上も、天空も、よごさせない。

 そしてそれは、……ぼくたちの、これからの、仕事なのだ。



くじらという名の生きもののすがたは、いつのまにか消えていた。でも、ぼくたちのなかで、あのすがたは生きつづけるのだろう。永遠に。







(くじら帝国の逆襲 おわり)

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くじら帝国の逆襲 柳なつき @natsuki0710

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