そして数瞬後――。


 松澤病院のベッドに横たわる実結みゆいの横に、慎一は帰還した。


 真っ先に実結みゆいの寝顔を確かめ、ほっと安堵する。今し方、朝のアパートの記憶の中にいた実結みゆいの顔と、少しも違っていない。


 管生くだしょうが慎一の頭から顔を出し、

「おや? 妙に部屋が小綺麗になっておるではないか」

 そう言われて、慎一も辺りを見渡す。


 すでに夜の明けた明るい病室は、補修後の壁紙もなく、何より実結みゆいの体に、輸液チューブや計器類のコードが繋がっていない。


 ベッドの横では、斎女ときめがパイプ椅子に座ったまま、うたた寝の舟を漕いでいた。

「姉さん……」

 慎一は戸惑いながら床に立ち、斎女ときめの肩を揺すった。


 部屋や実結みゆいが、すっきり変わっているのと対照的に、斎女ときめの仕事着は、あちこちすすけてみだらけである。


「……慎ちゃん?」

 斎女ときめが目を見開き、慎一の実在を確かめるように、両腕をつかんできた。

「よかった! 戻ったんだね!」


「あ……うん」

 我ながら大変な一夜だったとは思うが、あちらで穏やかな朝を迎えてきた慎一には、斎女ときめの変貌と大袈裟おおげさな感激ぶりが、ぴんとこない。

「それより実結みゆいは……それに、この部屋は?」


 斎女ときめの声を聞きつけたのか、松澤医師が急ぎ足で現れた。

「おう、やっと戻ったか、慎一」

 松澤医師は、白衣だけは清潔だが、そこから覗く袖やズボンの足元には、明らかにすすけが残っていた。


「……はい。でも、実結みゆいの具合は」

「大丈夫。もう小一時間前には完全に回復してる。かすり傷以外は健康体だよ」

 慎一は、ようやく心底から安堵できた。肩の管生くだしょうも、うむ、とうなずいている。


「それより、なかなか戻ってこない君らのほうが、悩みの種でね。ときちゃんも、あちらヽヽヽで万一のことがあれば、戻ってこれないとか心配してるし」


 松澤医師は、ちょっとこっちへ、と慎一を外の廊下に誘った。

「実結ちゃんの容態が安定したんで、向かいの個室に移ってもらったんだ」

 そう言いながら、その向かいの個室、つまり元の病室の扉を開けてみせる。


 中を覗いて、慎一も管生くだしょうも絶句した。

 ベッドから計器類から四方の壁まで、まるで火事場の跡のような惨状である。床のあちこちに転がっている多数の消火器は、すべて使用済みらしい。


「いやあ、今度こそ病院ごと丸焼けにして、親父に勘当されるかと思ったよ」

 そう言って、松澤医師は磊落らいらくに笑った。




     ◎




 あれからもう何年が過ぎたか――。


 春の午後、妻の実結みゆいと並んで丘の上の小公園に立ち、眼下に広がる満開の桃の林、そしてその彼方で町と内海を隔てる白い防潮堤を見渡しながら、慎一は思う。


 その後、斎女ときめと松澤医師の間には一男一女が生まれ、御子神斎女みこがみときめの名跡は、その娘が無事に継いだ。さらにその娘、つまり慎一の姉の孫娘が、現在は管生くだしょうの竹筒を管理している。


 慎一は地方公務員を続けながら、その後も三度ほど管生くだしょうと共に霊道行たまのみちゆきをこなしたが、今は同じ資質を持って生まれた最初の男孫に、その道を譲っている。


 そして実結みゆいは、あの日から一度も鬼になっていない。

 その後、必要以上に元気な男の子を三人ほど育て、一番忙しい時期に夫の慎一が『ふるさと創生一億円事業』による公民館の多目的ホール化を任されたため、いっとき火を噴きそうになったが、それはあくまで形容としての噴火であって、陰火でも陽火でもなかった。


 昭和から平成、そして令和――。

 令和に生まれた末の孫も、来年は高校に上がる。


 それらの歳月を重ねる内、この国の大地は、幾度もの惨禍を被った。

 都市が灰燼に帰することもあった。

 街々が海に呑まれることもあった。

 全土に疫病が広まることもあった。

 安全と思われていたこの山陰の町までが、数年前には、昂ぶった日本海の大波に洗われた。今、慎一と実結みゆいが桃林の彼方に眺めている白い防潮堤は、その後に造られたものである。


 神々の和解は、まだ先のことらしい。


 もう黄泉路よみじも近いと達観している慎一だが、あの遠い記憶をその地中に秘めている小公園で、息子夫婦や孫夫婦、そしてまだ幼い曾孫ひまごたちの行楽を見守る実結みゆいしわ深い顔を、今でも可憐だと思う。


 美しい、と思うこともある。


 たとえば毎年の春、こうして桃林の町を眺める実結みゆいは、喜寿を迎えた今になっても、夏の実りをこいねがう桃の花のように笑っているのだ。


 だから、一日でも長く生きるに越したことはない、とも、慎一は達観している。




                     〈 完 〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桃林羨道 バニラダヌキ @vanilladanuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ