「どうなっておる、慎一」

 管生くだしょうが慎一の耳を引いた。

「また屋敷ごと呑むか?」

「いや……中を確かめよう」

「そうだな。そもそも、まだ火の気がない」


 門から庭の敷石を辿たどり、玄関のポーチへ――。

 ここが、何時いつ実結みゆいの記憶であるかはわからないが、現世よりもすみやかに明けてゆく朝の光の中で、今の平坂家の屋敷は、慎一の子供の頃の記憶と何ひとつ違わないように見えた。


 背負っている赤子の実結みゆいが身じろぎしたので、慎一が首を曲げて見返ると、管生くだしょうが先に実結みゆいの寝息を探っており、

「安心しろ。健やかに眠っておる」


 慎一たちは、館の中に足を踏み入れた。

 廊下の窓から差し始めた細い光芒の中に、わずかなほこりが光って見えるが、あくまで微かな、手入れされた生活の中での埃である。


 やや警戒しながら、あの惨劇の居間を、開いていたドアから覗きこむ。


 中では老夫婦と中年の夫婦が、和やかに紅茶を飲んでいた。実結みゆいの祖父と祖母、そして母親と偽りの父親――しかし、そこには互いの微笑が行き交っている。


 管生くだしょうが言った。

「修羅の家にも、確かに、こんな一刻ひとときがあったのだろうよ」

 慎一も、それにうなずいた。

 一度は捨てた不倫の孫でも、育てる内に、真の情がわくことはあるだろう。常に夫を裏切りながら、その夫を、けして嘘ではなくねぎらう妻もあるだろう。むごい真実をまだ知らない夫は、もとより愛する家族のために、今朝も笑って仕事に出るのだろう。

 しかし、できることなら――罪のない娘にだけは、最後まで隠しおおせて欲しかった。


実結みゆいはおらんな。まだ子供部屋で寝ておるのかな」

 管生くだしょうが言った。

「念のため、そちらも確かめたほうがよかろう」

 慎一にも異議はない。

 あの階段を探し、二階に向かう。


 そして子供部屋の扉の前で、

「お、おい慎一」

 管生くだしょうが焦った声をあげ、それまで乗っていた慎一の肩から、あわてて頭に逃れた。

「ああ」

 当然、慎一も気づいていた。


 背負っていた赤子の実結みゆいが、いつの間にか二十歳はたち実結みゆいに変わっている。


 実結みゆいは慎一の両肩に両腕をあずけ、薄桃色のパジャマ姿で眠っていた。

「しかし、その夜着は妙ではないか。病院で見たのと違うぞ」

「いや、これでいいんだ」

 笑顔を返す慎一に、

「まあ、おぬしがいいなら、俺もかまわぬが」


 管生くだしょうは首を傾げながらも納得し、慎一の頭から、ぴょん、とドアノブに飛びついた。

「おぬしの細腕で、うっかり実結みゆいを落として腰でも痛めたら大事おおごとぞ」

 小さな体で、器用にノブを回して見せる。

「お入りくだされ、王子様。お姫様抱っこでなくお姫様おんぶなのは、少々不格好な王子様だがな」

 慎一は苦笑しながら、足で扉を押し開いた。


 先に入った管生くだしょうは、板の間の上で辺りを見回しながら、

「……こういうことかよ」

 扉の奥は、また、あの台所だった。しかし桃の木は生えておらず、安アパートの台所そのものである。


 六畳間に進むと、そこも綺麗に片づいていた。

 明るい朝の光が、誰も座っていない座卓と、その上の灰皿や茶道具を照らしている。窓にカーテンはかかっているが、スーパーの日用品売り場で買った特売品なので、春の陽光を遮りきれない。


 さらに、隣の四畳半のふすまを開けると、

「……いよいよ神田川のレコードを流さねばならぬな」

 同じ柄のカーテンを透かした朝の光を浴びて、慎一と実結みゆいの夫婦がひとつ蒲団に寄り添い、寝息をたてていた。


 枕元には、小長谷清実こながやきよみ氏の詩集『小航海26』と、ショパンの楽譜が置かれている。


「――先に実結みゆいが目を覚ます。いつもそうなんだ」

 慎一は頬笑みながら、蒲団の横にひざまずき、背負っていたパジャマ姿の実結みゆいを、いったん畳に横たえた。

 それから前に抱き直し、蒲団の実結みゆいに、そっと重ねる。

 手元の実結みゆいはそのまま蒲団に沈み、蒲団の中の実結みゆいと、ひとつに重なっていった。


「――それからお茶を淹れて、俺を起こす。ふたりで朝飯の準備をする。いっしょに洗い物をして、いっしょに家を出る――昨日の朝も、そうだった」


 実結みゆいは、まだ眠ったまま、蒲団の中で横に向きなおり、横で眠る慎一の胸に腕を回した。薄桃色のパジャマの肩が、蒲団から覗いて見えた。

 蒲団の慎一は、やはり眠ったまま横を向き、実結みゆいの腕を自分の腕に迎えた。薄緑色のパジャマの肩が、蒲団から覗いて見えた。


 管生くだしょうが、なぜか不愉快そうに言った。

「……おぬし、いつもこんなふうに鼻の下を伸ばして寝ておるのか」


 はたで見ている慎一は、ふだんの自分の寝顔など知るはずもない。

「いや、わからない」


「こんな、骨を抜かれて海月くらげになった猿のような寝顔を見ておると、今は無性に腹が立ってならぬ」

「……俺もだ」

「寝ているうちに鼻を囓られたくなかったら、明日までに松坂牛の霜降りを一貫目、俺のやしろに奉納しろ」

「……ボーナスが出るまで待ってくれ」


「よし、約束ぞ」

 管生くだしょうは真顔でうなずき、ちょろちょろと慎一の頭に這い上がった。

「仕事は終わり、それでいいな」

「ああ。ここまでで精一杯――いや、今のところ最善だと思う」

「いやはや、きつい仕事であったよ。思えば牛一頭でも足りぬ」


 ぶつぶつ言いながら、管生くだしょうは慎一の髪の奥に潜りこんだ。

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