第六章 鎮魂花《ちんこんか》

 種と皮を残して実を食べ終えると、赤子の実結みゆいは、また寝に就いた。

 体のただれはほとんど消え、桃色の肌に戻ろうとしている。


 伊邪那美いざなみ名残なごり惜しそうに、実結みゆい白布しろぎぬから、慎一の御初着おくるみに移した。


「しっかり負ぶってゆけよ」

「はい」

「坂の途中まで送ってゆこう」

「いえ、そんなご足労は」

「なあに、ほんの酔い覚ましの逍遙しょうようであるよ」

 伊邪那美いざなみの声に、いささかの憂いが宿った。

「いっそ中津国うえまで見送りたい子でも、今となっては吾こそが黄泉神よもつかみ、そんな気儘きままは許されぬからの」

 ふたりの侍女も散策を好むらしく、主人より先に立ち上がっていた。


 しばらく前には怯えながら下った桃林の坂を、こんどは和やかに登る。


 伊邪那美いざなみと侍女たちは、人ならぬ身の逍遙しょうようらしく足を地に着けず、なかば漂うように慎一たちの供をしている。肩の管生くだしょうは、ときどき侍女たちに撫でられたりつつかれたり、仲間内の馴れ合いに余念がない。


 伊邪那美いざなみが慎一に言った。

「その娘が中津国なかつくにで目を覚ましたら、一度、しっかり教えておくがよい。いくら黄泉醜女よもつしこめが恐くとも、桃の花を咲かせただけでは、なんの防ぎにもならぬとな。今度は、しっかり実を結ばせておけ。そうすれば黄泉醜女よもつしこめらには越えられぬ」

「はい。よく言い聞かせておきます」


「そして、そなたも気を抜くではないぞ。ひとたび黄泉したかれ、黄泉戸喫よもつへぐいをした娘ぞ。中津国うえに連れ帰ったとて、なにかと黄泉したに繋がりやすい。それに、もしそなたがその娘をうとんじるようなことがあれば、その子は生きながらに腐るであろうよ」

「……腐る?」

「鬼になるのだよ。われのように、そして、この者らのように」

「もう鬼にはいたしません。私が一日も気を抜かずに見ております」


 慎一の気負った顔に、伊邪那美いざなみはくすくすと笑い、

「昔はわれにも、そんな熱い眼差まなざしをくれる男がおったよ」


 それから伊邪那美いざなみは、おぼろ春宵しゅんしょうの天を仰ぎ、

「……伊邪那岐あやつは、今、どこでどうしておるのだろうな。近頃とんと噂を聞かぬ。男のくせに数多あまたの子を成しおったと聞くが……おおかた別の女神おなごとでも交合まぐわったのであろう」


「あいにく私は人なので、神々のことは存じ上げません」

 慎一は正直に伝えた。

「でも、あなたを失ったあとは、ずっとお独身ひとりみとの噂ですよ」

 少なくとも慎一が読んだ『古事記』において、伊邪那岐命いざなぎのみことは新たな妻を娶っていない。


「……逃げたあとでみさおをたてられてもつまらぬわ」

 伊邪那美いざなみは、すねたような顔で、

「しかし中津国うえの民らも、なかなかにしぶとい。きっと滅ぼしてやると伊邪那岐あやつに誓ったのに、呪っても呪っても足りぬ。ようやく滅ぶと思えば、いつの間にかまた栄える」

「……どうか、お手柔らかに」

「神が神にかけた呪いは、和合なしにはほどけぬ。まあ、どのみち今のはかでは、いつになったら呪いきれるかも知れぬがな」


 慎一は、少し先を流れる伊邪那美いざなみの、腐りながらも嫋々じょうじょうと優しげな顔に、ふと、こんな言葉をかけたくなり、そのまま口にした。


「あなたは、もうあの方を許しておられるのではありませんか?」


「許すものかよ。幾千幾万の呪いを重ね、今も黄泉よみから呪い続けておるというに」

 伊邪那美いざなみは、やや気色ばんで、

「……なぜそなたは、そんなことを言う?」


「いえ――そのようにお見受けしたものですから」

 慎一は、そう答えるしかなかった。


われ永久とこしえに許さぬ。伊邪那岐あやつ中津国なかつくにも、永久とこしえに呪い続けようぞ」


「しかし――永久とこしえに呪い続けるということは、永久とこしえに忘れずにいる、ということでも」


 伊邪那美いざなみは、呆れ果てたように慎一を見、

「……そなたの脳味噌の中は花畑かよ」

 くつくつと笑いながら、

「まあ、その娘には格好の下僕しもべであろうがな。黄泉よみかれながら、そなたのような能天気をたぶらかして『こん』を運ばせる――末恐ろしい娘ぞ」

「いえ、私が勝手に来たのです。昔から、末長く尻に敷かれたいと望んでおりましたので」


「もうよい。花畑に何を言うても花が咲くだけよ」

 伊邪那美いざなみは、なおくつくつと笑いながら、

「まあ、その内、われもまた伊邪那岐あやつと顔を合わせて、思うさまののしれることもあろうよ」


 それから、すっ、と宙に昇り、桃花香る夜気の中、過ぎた坂と先の坂を見渡し、

「いかなる盛者じょうしゃも必ず滅ぶ。神とて同じこと。いずれ辿たどるは黄泉路よみじ比良坂ひらさかぞ――」


 ふたりの侍女も主人の意を汲んだように、その両側に浮いて控える。


「いつか伊邪那岐あやつが下ってきたら、縛りつけてでも、二度とのがさぬ」

「……どうか、お手柔らかに」

「手加減はせぬぞ。縛りつけてでもまた伊邪那岐あやつ交合まぐわい、また伊邪那岐あやつの種をはらみ、また人を、世界なかつくにを、この宇宙うつを産みなおすのだよ」


 それならばいくらでも――慎一がうやうやしくしく低頭すると、

「そのときのために、これは、そなたら夫婦の土産みやげとしてもらっておくぞ」


 伊邪那美いざなみは、つぶのような一寸に満たぬ何かを、指でつまんで慎一に見せた。

 それは、赤子の実結みゆいが噛めずに残した桃の種だった。


 慎一は、微笑してうなずいた。


 伊邪那美いざなみは、宙から慎一に先を示し、

「行け。そなたもその子も、百年ひゃくとせ黄泉よみに姿を見せるな」


 ここでお別れなのか――そう慎一が悟った刹那せつな、慎一と管生くだしょうを包む夜気が、ふっ、と香りを変えた。


「そして百年ひゃくとせ、その子を鬼にするな――」


 伊邪那美いざなみの声が響きを終えたとき、慎一の前には、しだいにけわしさを増す黄泉比良坂よもつひらさかではなく、子供の頃から見慣れた桃園の坂があった。


 そよ吹く風は、桃花の香りに微かな潮の香を含んだ、懐かしい春の朝の風である。


 先を見上げると、あの洋館の門が、かわたれどきの白みはじめた空に、深閑と浮かんでいた。

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