伊邪那美いざなみは、じっと慎一を見つめた後、

「……これでもかえ?」

 抱いた赤子をくるんでいる白布しろぎぬの胸元を、そっと下げて見せた。


 一見、健やかに眠る実結みゆいの首筋は、すでに顎の下までただれていた。うじが皮膚を食い破り、その不規則な食い跡からは、先ほどの黄泉醜女よもつしこめのような青い陰火の光が漏れている。


「……それでもどうか、お返し下さい」

 慎一は真摯しんしに言った。


 伊邪那美いざなみは、慎一の顔を、内心を計るようにしばらく見つめていたが、やがて片手の甲を口元にあて、のけぞるように笑い始めた。


 ほほほほほほほほほほほほほほほほ―――


 それまでの声よりも、なお艶を増した笑いだった。


 左右の侍女が、声を重ねるように笑う。


 ほほほほほほほほほほほほ――

 ほほほほほほほほほほほほ――


 草叢くさむら中の黄泉醜女よもつしこめたちも一斉に笑う。


 ほほほほほほ――

 ほほほほほほほほ――

 ほほほほほほほほほほほ――

 ほほほほほほほほほほほほほほほほ―――


 やがて伊邪那美いざなみは笑いを納め、

「……伊邪那岐あやつも、そなたのように腐り物さえありがたがる、底の抜けた男であればよかった。ならば、このわれをも見捨てまいに……のう?」


 慎一には答えられない。わかるのは自分の心だけだ。


「まあよい。わざわざ中津国うえから背負ってきた赤子の夜着を、からで帰すのも気の毒であるしの」

「感謝いたします」


 慎一が御初着おくるみを背中から下ろす拍子に、管生くだしょうが、うっかり草叢くさむらに落ちた。

 黄泉醜女よもつしこめたちが嬌声を上げた。

「おお、オコジョじゃ」

「これは愛らしい」

「なんと美味そうな」


 管生くだしょうは辺りを見渡して毛を逆立てていたが、

「……あとは任せた」

 そう言って慎一の頭に駆け上がり、髪の奥に潜りこんでしまった。

 それきり、どこからも顔を出さない。


 黄泉醜女よもつしこめたちは、けらけらと笑いながら、

「おや、オコジョではなく管狐くだぎつねであったか」

「術者殿の式神であろうよ」

「ずいぶん臆病な式神じゃの」

「そこがまた可愛い」

「ますます美味そうじゃ」


 笑いさざめく黄泉醜女よもつしこめたちに、伊邪那美いざなみは、なにかしら悪戯いたずらな微笑を向け、

「そなたらは、そんなに安穏としておると痛い目を見るぞ。この術者殿は、もっととてつもない物を、背中に負うてきておられる」


 慎一は、これのことか、と思いながら、伊邪那美いざなみの目配せに従い、桃の実を手にして周囲の皆に見せた。


「なんと!」

 黄泉醜女よもつしこめたちは顔色を変え、飛び上がって叫んだ。

「おお!」

こわや!」

 叫びながら、文字どおり宙に飛び上がる。

「桃ぞ!」

「桃の実ぞ!」

「よくもそんな汚い物を!」

「恐ろしや恐ろしや」


 てんでに白装束の裾をひるがえして数十の弧を描き、草叢くさむらのただ一点に向かって、吸いこまれるようにのがれ去ってゆく。彼女らが桃の実を忌み嫌うことを、伝説として知っていた慎一も、呆気にとられるほどの逃げ足だった。

 見れば、伊邪那美いざなみたちの緋毛氈ひもうせんからさほど遠くない草叢くさむらに、差し渡し数メートルほどの、黒々とした穴が開いている。


 慎一の頭の中で、管生くだしょうが呆然とつぶやいた。

「あれが真の黄泉よみに続く道かよ……」


 同じく呆然としている慎一に、伊邪那美いざなみが訊ねた。

「なにゆえあれらが桃の実を嫌うか、そなたにわかるか?」

「……いえ、お嫌いなのは伺っておりましたが、その理由までは」

「桃の実は『こん』と同じ味がするからよ。『こん』など黄泉では汚くてかなわぬからの」


「『こん』……」

 慎一は、自問するように言った。

「人の『たま』は『こん』と『はく』から成り、人が死ねば『こん』は天に上り『はく』は地の底に沈む――中津国うえでは、そう言われておりますが」


「少し違うな。『こん』は、黄泉よみにはないが、天にも地にも元からある陽の気ぞ。そもそも人の命は『こん』だけで始まる。しかし母親の腹から外に出たとたん、外の世のけがれにさらされる。そこで陰の気である『はく』が生じる。外で生きる内に、その『はく』がこごって『こん』をむしばむ。『はく』が『こん』を凌げば、人の命は終わる。負けた『こん』は他の新しい命を探してそちらに移り、勝った『はく』だけが黄泉よみに沈む」


 伊邪那美いざなみは、残っていた侍女のひとりに、あの木地の器を手振りで所望した。

 得体の知れない虫のような飴菓子を指でつまみ、

「そしてこれも『はく』――命を蝕む陰の気の凝りぞ。それを黄泉よみかまどで、じっくり煮こんでおる。だからとてもけがれが濃い。しかし現世うつしよけがれが濃いほど、黄泉ここでは清くて尊い。黄泉ここで長く暮らすのに、何よりの滋養となる。ここの者たちが、黄泉戸喫よもつへぐいから抜けられぬ由縁もそれよ」

 伊邪那美いざなみは、その虫をぺろりと呑んだ。


「すると、その子は……」

 困惑している慎一に、伊邪那美いざなみは軽く笑って、

「情けない顔をするでない。ほんにそなたは術者のくせに、泣き虫のわらべのような顔をする」

 からかうように言いながら、慎一が手にしている桃の実を、こちらに、と手振りでうながす。


 少し迷いながら慎一が手渡すと、伊邪那美いざなみは、桃の実に鼻を寄せ、

「これは、桃の実に見えて、やはり桃の実ではないな」

「桃の実では……ない?」

「この子と同じ匂いがする。これは、この子の『こん』ぞ」

「ならば……」

「知れたこと。この子の内に戻せばいいだけの話」


 伊邪那美いざなみは桃の実を慎一に返し、

「そなたから食べさせてやるがよかろう。われらでは、崩れた指の『はく』が混じりかねぬ」


 慎一は、まだ使われていない木地の器を受け皿に、桃の実の皮を指で剥きはじめた。

 瑞々しい果肉があらわれ、いくつかのしずくが器にしたたる。


「その汁を、おすそ分けにあずかってもよいか?」

 伊邪那美いざなみが意外なことを口にするので、慎一は面くらいながらも、どうぞ、とうなずいた。


 伊邪那美いざなみは、その果汁を指先で舌に運び、

「……なんと懐かしき味であることよ」

 恍惚とつぶやき、それから、見守っているふたりの侍女に、

「そのほうらも、相伴しょうばんにあずかるがよい。『こん』の味など何百年ぶりであろう」

 侍女たちは黒い顔を輝かせ、器の雫に指を伸ばした。


「失礼ながら……」

 慎一は、伊邪那美いざなみに訊ねた。

「あなたは『こん』がいとわしくないのですか?」

黄泉よみに下ってもわれは神ぞ。人とは違う」

「それでは、そちらのお付きの方々も、神……」

「神ではないが、黄泉醜女よもつしこめでもない。そなたが使うくだの者ほどこうを経ていないが、そのぶん素直すなおな、化生けしょうの者どもよ」

 言われて見れば、確かに面立おもだちが人とは違っているような気がする。


 慎一の髪から、いきなり管生くだしょうが白い顔を出した。

「なんと、お仲間であったか。これは無礼をいたした。それでは改めて――お美しいお嬢様方、今後とも、なにとぞよしなにお願い申す」

 侍女たちは、崩れた顔で楽しそうにけらけらと笑った。いたちとも狐ともつかぬ声だった。


 慎一も苦笑しながら、桃の皮を剥き終える。


 伊邪那美いざなみは、実結みゆいをあやすように揺すり、

「ほらほら、家から迎えが来たぞ」


 目を覚ました赤子の実結みゆいは、少しむずかるようにしていたが、慎一が桃の果肉を箸先につまんで口元に運ぶと、ふと真顔になって、そのとろりとした果肉を小鳥のようについばみはじめた。

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