慎一は、草叢くさむらに歩を進めた。


 間近な毛氈もうせんにいた黄泉醜女よもつしこめが、ふと仲間内との談笑を止め、不審げに言った。

「――生きた人の匂いがせぬか?」


 他の黄泉醜女よもつしこめたちは、

「やめてたも、気色きしょくが悪い」

「生きたまま坂を下ってくるのは男神おとこがみくらいのものぞ」

「人ならば弓削是雄ゆげのこれお殿、それとも安倍晴明あべのせいめい殿――しかしお両名ふたかたとも、とうに黄泉よみの官吏に就いておられる」

「いや、でも確かに、この生焼けの豚のような匂いは……」


 慎一の首の後ろで、管生くだしょうがぼそぼそとつぶやいた。

「生焼けの豚は恐れ入ったな、慎一。失礼ながらこちらの皆様こそ、滋賀の鮒寿司ふなずしか新島のくさやヽヽヽほどかんばしく香っていらっしゃる」

 まあ味は良さそうなのだがな、と付け加えるところが、萎縮していても管生くだしょう管生くだしょうである。


 実は慎一も同感だった。

 黄泉醜女よもつしこめたちの顔貌や、装束から覗く手先を見る限り、壮絶な腐臭が漂っていてもおかしくない。しかし、息苦しいほどの臭いはするが、耐えられる臭いでもある。つまり腐臭ではなく発酵臭――たとえば西欧では、ある種のブルーチーズの匂いを『神の足の匂い』と形容するが、それに似た感覚である。


 黄泉よみの国の人々にとっては、生きた人の匂いこそ、よほど悪臭かもしれない――。

 慎一は、最初に自分の匂いに気づいた黄泉醜女よもつしこめに、深々と頭を下げた。

「失礼いたします」

 こちらを振り返り、ぎょっと強張る相手に、

「お楽しみのところを不快な匂いでお邪魔してしまい、申し訳ありません」


 自分の言葉遣いが彼女らにとって正しいかどうか――それは大した問題ではない。慎一も文科出の地方公務員として、地元言葉のみならず、全国からの観光客の言葉に接している。片言の英語で外国人を道案内することもある。肝要なのは文法や単語の意味以前に、わかり合いたいという意図を伝えることだ。


ゆえあって、このような不躾ぶしつけな姿で横を通らせていただきますが、どうか御容赦を」

 相手の黄泉醜女よもつしこめは、強張ったまま、

「……そなたは、やはり陰陽おんみょう寮のお方か?」

 警戒心の表れか、崩れた皮膚の間に、明滅する青い陰火が見えた。


「いえ、少しは陰陽おんみょうを学んでおりますが、ただの小者です」

「小者に下れる比良坂ひらさかではないはず……よほどの術者に相違ない」


 その毛氈もうせんを始まりに、黄泉醜女よもつしこめたちの不穏なざわめきが、波紋のように草叢くさむらに広がってゆく。

 人だとよ――

 生きた人ぞ――

 なんと珍奇な――

 等々、不穏なささやきと警戒の陰火が、あちこちで揺れる。


 慎一は再び頭を下げ、

「――なにとぞ、お気になさらず。ただ静かに通らせていただきます。どうかごゆるりと、うたげの続きを」

 それから草叢くさむらの中央に向かって、ゆっくりと足を運んだ。


 近い毛氈もうせん黄泉醜女よもつしこめたちから、興味津々しんしんの視線とともに、若い女性らしい言葉も漏れ聞こえる。


 いい男ではないか――

 是雄これお殿ほどいかつくはなし――

 晴明殿ほど痩せてもおらぬ――

 きっと近頃売り出しの術者ぞ――


 管生くだしょうが、慎一の首の後ろから耳打ちした。

「慎一、おぬし、もてておるではないか」

「物珍しいだけだろう」

「いや、古い育ちの方々には、おぬしの末生うらな瓢箪ひょうたんのような古い顔が、ありがたいのかもしれぬぞ」


 やがて、四隅に篝火かがりびしつらえた、あの緋毛氈ひもうせんに近づく。


 慎一は、不躾ぶしつけではない程度に離れて立ち止まり、丁重ていちょう会釈えしゃくした。平伏するべきなのかもしれないが、いきなりの土下座は、えてして心が伝わらないように思える。


 赤子の実結みゆいを抱いている女性が、余裕の頬笑みで会釈を返した。

 顔貌はやはりただれているが、豊かな黒髪は艶やかにかれ、白装束には少しの染みも乱れもない。

 我が身がどう腐ろうと、あくまで正しい居住まいを保とうとする貴人――そう慎一には見えた。

 やはり黄泉よみに下った女神おんながみ――伊邪那美命いざなみのみこと


「ほんに今宵は、面白いことばかり起こる夜よの」

 伊邪那美いざなみなまめかしい声で言った。

比良坂ひらさかの桃の木が、不思議なほど広く花を咲かせたと聞いて、いそいそと花見に出てみれば、かわいい赤子が坂下に寝ておる。それを拾って愛でていたら、こんどはそなたのような、生きた男が坂を下ってくる。なにか中津国うえ大事だいじでもあったかの?」


 伊邪那美いざなみの抱く白布しろぎぬから、実結みゆいの顔が覗いている。

 安らかな寝息に、慎一は安堵した。


「こちらに下るべきではない子が、間違いで下ってしまいました」

 慎一は、努めて平生の声を保って言った。

「その子を中津国なかつくにに連れ戻したく存じます」


「ほう、そなたのえにしの子であったか?」

「はい。――二十歳の春に、わたくしの妻となる子です」

「……そなたの妻に?」

「はい」


 伊邪那美いざなみは、抱いた赤子をしげしげと眺め、それから、やや曇った顔で、

「――すまぬな。返したくとも、もう返せぬ。この子を初めて抱いたとき、昔、流してしまったわれ初子ういごと同じ匂いがしたものだから、つい、黄泉よみ飴菓子あめがしを与えてしまったよ」


 伊邪那美いざなみの言を補うように、侍女らしい黄泉醜女よもつしこめのひとりが、木地の器を慎一に見せた。その器の中、そして侍女が持つ箸先には、なにか地虫の飴煮のような、得体の知れない食物があった。


 管生くだしょうが慎一の襟首でつぶやいた。

「なんと……黄泉戸喫よもつへぐいを済ませてしまったか」


 慎一も愕然としていた。

 黄泉戸喫よもつへぐい――黄泉よみで煮炊きした食物を一度でも口にしてしまった者は、二度と黄泉よみから戻れない。言い換えれば、黄泉醜女よもつしこめあるいは現在の伊邪那美いざなみのように、肉体の変貌を止められない。


 伊邪那美命いざなみのみことの兄にして夫である男神・伊邪那岐命いざなぎのみことが、妹にして妻である女神・伊邪那美いざなみの死を惜しみ、地上に連れ戻そうと黄泉よみに下ったときも、腐乱した妻の姿に恐怖し、結局はひとり逃げ帰った。ちなみに、先ほど伊邪那美いざなみが言った『われ初子ういご』とは、兄妹神の交合によって誕生した第一子、奇形神の水蛭子ひるこである。長じて福をもたらす恵比須えびすに育ったとされるが、いったんは不吉な子として海に流されている。


 原始的であるがゆえに現代の倫理に縛られなかった、太古の大らかな神々――しかし大らかであるがゆえの直截ちょくさいさは、しばしば陰惨さをあわせ持っている。

 しかし――それもまた神が神であることの証し、そして神が産んだ人が、人であることの証しではないのか――そう慎一は思った。それによって生まれながらの悲惨を身に負ってしまった実結みゆいも、人の世に戻ってさえくれれば、今後の禍福には幾許いくばくなりとも自分が関われる。


 慎一は伊邪那美いざなみに言った。

「……それでも、返していただきたいのです」

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