サンダルでダッシュ!

野森ちえこ

アイスを買いに出かけたら

 ブオッと風が左耳を打った。

 最初目にはいったのは、鮮やかなブルーの背中。

 ついで、風になびくポニーテール。

 女の子が猛ダッシュしている。

 白いハーフパンツと、足もとはサンダル。

 ウェッジソールというんだったか、かかとはけっこうな高さがありそうだ。


 どうやら彼女が、風を巻き起こす勢いでおれの横を駆け抜けていったらしい。

 このクソ暑いなか、いったいなにをそんなに急いでいるんだか。ていうか、あんなかかとの高いサンダルでよく走れるな。


 まあ、なんでもいいや。心やさしいおれは、小学生の妹と大学生の姉のためにアイスを買いに行くのだ。

 マルチパックのアイスバーを二本だったか三本だったか、とにかく冷凍庫に残っていたやつをぜんぶたべてしまって、妹に大泣きされたからというわけではない。

 キレた姉に蹴り飛ばされたからというわけでもないし、母の笑顔の圧に負けたなんてことでもない。

 兄として、弟として、息子として、当然の心くばりである。


 片側一車線のせまい直線道路をはさんだ歩道もまっすぐなので、それなりに遠くまで見とおせる。おれは、ちいさくなっていく女の子の背中を視界におさめたまま、つま先がないスリッパのようなサンダル(シャワーサンダルというらしい)で、ぺたぺたと進む。

 すると、ダッシュしていた女の子がいきなり頭からコケた。『ビッターン!!』という効果音が文字で見えそうな勢いでコケた。あっと思うひまもなかった。

 アスファルトにへばりつくように倒れたままピクリとも動かない。


 おいおいおいおい。大丈夫かあれ。

 ていうか、誰かたすけろよ。

 ぽつぽつと通りかかる人間は、横目に見るだけで誰も声をかけようとしない。

 気がついたら、おれは走りだしていた。


 熱気のせいか息が苦しい。肌にまとわりつく、もわっとした空気も不快だ。


 クソっ、走りにくいな。


 ときどき足からすっぽ抜けそうになるサンダルにも苦戦しながらどうにか彼女のもとにたどりついた。しゃがみこんで声をかける。


「大丈夫ですか?」


 たまに思うのだが、どう見ても大丈夫じゃない相手に『大丈夫ですか』とたずねるのはどうなんだろう。なにか、べつのいいかたはないものか。そうは思っても結局てきとうな言葉がみつからず、こうして『大丈夫ですか』と聞いているわけだけど。


「うっ……」


 とりあえず意識はあるっぽいが、これは救急車を呼んだほうがいいか。イージーパンツのポケットからスマホをとりだそうとしたところで「だい……じょ、ぶ」と、消えいりそうな声がとぎれとぎれに聞こえてきた。

 それから、ギシギシという音が聞こえてきそうなくらいぎこちない動きで、ときおり「うぅ……」と苦しげな声をもらしながら、彼女は身体からだを起こした。



 ︎✲



 可憐という言葉がぴったりとはまる、とてもかわいい女の子だった。道ですれちがったら確実に振り返ってしまう。しかし、その両膝と右前腕、それから左の手のひらがひどいありさまだった。皮膚がやぶれて砂利と血液とでまだらに赤黒い。顔が無事だったのが不幸中のさいわいか。


 動くのがつらそうな彼女にかわって、すぐ近くにあった自販機でペットボトルの水を購入した。それで傷口をざっと洗い流す。痛みに顔をゆがめながらも、彼女はじっとたえていた。

 外ではろくな手あてもできないし、やっぱり病院に行ったほうがいいと思ったのだけど、なんと彼女の両親が診療所をやっているという。


 なりゆき上、痛みでうまく歩けない彼女をほうって別れるわけにもいかず、ここから徒歩十分ほどのところにあるという診療所まで、彼女をおぶって移動することにした。


 送るといったのはおれだ。遠慮する彼女を説得したのもおれだ。が、暑いし、背中には、むにむにとやわらかいものがあたる。ついでに手とか肩とか背中とか、おれはもうほぼ全身汗まみれだし、なんというか、いろんな意味で試練である。


 すこしでも気をそらすべく、彼女との会話をこころみる。それによって、学校はちがうものの、おれとおなじ高校一年生であることがわかった。

 夏休み初日である今日、彼女は映画を観に出かけたのだという。その帰り、乗っていたバスでうたた寝をしてしまい、最寄りの停留所に到着したところで目をさましたのはよかったのだが、あわてておりたせいでバッグを忘れてきてしまったのだとか。


「それで、バスを追いかけてたのか……」

「はい……」


 財布もスマホもぜんぶバッグのなかだというから、気持ちはわからないでもないけれど、さすがに走ってバスに追いつくのは無理だろう。


「すいません……」

「いや、べつに謝らなくていいんだけど。とりあえず、診療所についたら、バスの営業所に問いあわせてみなよ」

「そうします」


 会話がとぎれたのと同時に、背後からドタバタと人が走ってくる気配がした。道のはしに寄りながら振り返る。若い男女がすぐそこに迫っていた。


「浮気ものおおおぉ!!」

「誤解だっつってんだろうがあぁ!!」

「待てえええぇーー!!」


 逃げていく男はアロハシャツにビーサン。追いかけていった女はミニのワンピースにミュール。あっけにとられて見送っていると、背中から「なにあれ」というつぶやきが聞こえてきた。おれとしても「さあ」と答えるしかない。


「あ、そこの角、右です」

「わかった」


 おない年なのだし、タメ口でいいのに――と、いおうとした瞬間、まがろうとしていた角から人が飛びだしてきた。


「お客さああぁん! おつりいいぃー!!」


 こぶしを握った右手をまえにつきだしながら、エプロン姿のおばちゃんがシャワーサンダルで目のまえを駆け抜けていく。


 今度はおれが「なんだありゃ」と無意識につぶやいていた。背中から「さあ」という声が聞こえる。それから、ほとんどおなじタイミングで吹きだした。


「サンダルでダッシュすんの、はやってんの?」

「知りませんよ」


 笑いに乗せて、おれは先ほどいいそこねたことを口にする。


「タメ口でいいよ。年もおなじなんだし」

「あ……うん、わかった」


 返ってきたのは、どこかはにかんだような声。やっぱりかわいいな、この子。



 ✲



 なんだか、おかしな日だった。いや、まだ今日はおわっていないのだけど。ていうか、午後三時をすぎたばかりである。彼女を診療所まで送り届けた帰り道だ。


 彼女の両親からは後日お礼をといわれた。最初は丁重にお断りしたのだけど、連絡先を教えるまで帰してもらえなさそうな空気にのまれ、結局おれは今日出会ったばかりの女の子と――ではなく、その母親と連絡先を交換することになった。彼女のスマホはバスに忘れたバッグのなかなので、本人とは交換しようがなかったのだ。

 営業所にも母親が連絡したようだが、バスが運行中のため確認にはすこし時間がかかるらしい。無事にもどってくればいいのだけど。


 なんにせよ、あんなかわいい子とお近づきになれるのなら、おれとしてはちょっとうれしい展開といえた。しかし、あのかわいさである。彼氏のひとりやふたりいてもおかしくない。というか、いないほうが不思議なくらいだ。期待はせずにおこう。そうしよう。それがいいとぼんやり考えながら家路をたどる。


 それにしても、この数十分のあいだに、いったい何人サンダルで走っている人を目撃したんだろう。


 ついさっきも、横断歩道の青信号が点滅をはじめた瞬間、編みあげサンダルを履いたキレイなお姉さんが猛然と走っていったし、でっかい犬にひきずられるように走っていた男もたしかビーサンだった。まあ、夏だからサンダル系が多いのは当然かもしれないが。今日にかぎって、みんなやたらと走っているような気がする。


 とにもかくにも、ようやく家に帰りつく。とりあえずシャワーをあびたい。そして涼みたい。そんなささやかな願いも「アイスは?」という、玄関で待っていた妹のひとことに打ち砕かれた。


 なにか、忘れているような気はしていたのだ。でもしかたないじゃないか。走ったりおぶったり、まだ背中に残っている、ふにっとやわらかい感触に気をとられたりでクタクタになってしまったのだから。

 なんて、かえって墓穴を掘りそうないいわけは胸のなかにとどめる。


 そうこうしているうちに、妹の声を聞きつけた姉がリビングから出てきた。手ぶらのおれと半泣きの妹を見て即座に状況を把握したらしい。


「十分以内に買ってこないと、あんたの恥ずかしい秘密ネットにバラまくよ」


 あんまりにもあんまりな脅迫は、買いものをする時間がまったく考慮されていなかった。


 一番近いコンビニまで片道五分。歩きではタイムオーバー必至である。だがしかし、文句より先に『小学生のときのアレか、それとも中学生のときのアレか……』と、考えてしまった自分がちょっとかなしい。姉はやるといったらやる女である。


 かくして心やさしいおれは、今度こそアイスをゲットするため、そして己の秘密を守るため、シャワーサンダルで猛ダッシュすることになったのである。



     (おしまい)



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サンダルでダッシュ! 野森ちえこ @nono_chie

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