あといくつ食べれば

アリクイ

別れの晩餐

 とあるホテルの高層階に位置するレストラン。その店内に並ぶテーブルのひとつからは、周囲の華やかな雰囲気とはまるで似つかない険悪な空気が流れていた。


「ねぇ、だからそういう所が嫌いって言ってるじゃん!なんでわかってくれないの!?」


 女の声はやや控え目であったが、その怒り具合と言葉の強さは周囲の目を引くには十分すぎるほどのものであった。そんな状況でありながらもスタッフたちが何のアクションも起こさないのは、彼女がこのホテルのオーナーの娘であり、そして次期オーナーでもある氷川葵その人だからに他ならない。自身の家で経営する施設でわざわざ雰囲気を壊すような真似をするというのは一般的に憚られる行為であるが、今時珍しく絵に書いたようなワガママお嬢様に育ってしまった彼女にはとって、そのようなことは些細な問題らしい。


 一方、葵の罵倒を先程から延々と受け止め続けている彼氏、黒崎慎二はというと、こちらもまた癖のある男だった。

 彼女から吐き出される言葉に対して時々頷いたり時に軽い相槌を打ったりしてはいるものの、それらの反応は例えるなら工場のライン作業のように”淡々とこなしている”という表現がしっくりくるほど無機質なものである。

 また、先程から長々と責められ続けているにも関わらず、彼の表情には一切の感情が浮かんでいない。うんざりしている訳でもなければ、怒るでも悲しむでもない。ただただ無を張り付けたような、そんな表情。それもこの場をやり過ごすために無表情を貫いているというよりは、単純に自身の置かれた状況について特に思う所がないといった様子だ。


 そんな傍から見ればかなり奇妙なカップルの言い争い――実際には一方的な説教なのだが――は、怒り狂った葵によって過去の話題にまで飛び火していた。


「第一あの時だってそうだったじゃない!私の気持ちも知らないで適当なことばっかり言って!」


 あの時、というのは今から一か月ほど前のこと。当時ふたりの暮らしているマンションのある地域では住民の不審死が発生していた。それも、一人や二人ではなく十数人と結構な数で、被害者はいずれも二十代から三十代の若い女性。このことは事件性の疑いがあるものとして、全国ニュースでも紹介されていた。

 

『次々と人が消える街……住民からは不安の声』


 そんなテロップが表示されたテレビ画面の前で、葵が言った。


「ねえ慎二、もし私も行方不明になっちゃったらどうしよう」


 彼女はなにも、そこまで気の利いた台詞を期待していたわけではない。自分の恋人が巷の男達と比べてドライなのはこれまでの付き合いの中で理解していたし、そういった部分を魅力と感じていたからだ。とはいえ仮にもふたりは男と女の関係だ、少しくらいは自分を気遣う言葉が出てくるだろう。そんな想いが僅かながらにあっての発言である。しかしながら、慎二の反応は彼女の期待の斜め下を行くものだった。


「葵が行方不明……はたぶん無いと思うよ?」

「えっ?」


 あまりにも予想外の返事に、葵は一瞬戸惑ってしまった。確かに何百人、何千人といる近隣住人の中で自身がピンポイントで次の犠牲になる確率など、たかが知れているかも知れない。とはいえ事態が終息を迎えておらず、しかも近所で被害者が出ているこの状況で不安に思わない方がおかしいのではないか?そう抗議する彼女に対し、慎二はこう続けた。


「確かに近場で起きる事件ではあるけど、被害に遭っているのはみんな隣の区画から先の人みたいだしさ」

「まぁ、それはそうだけど」

「というか僕らは殆ど外に出ないんだし狙われようもなくない?外出の時だってだいたい二人でいるし、もし何かあっても……」

「もう!そういう事を言ってるんじゃないの!!」


 葵は思わず声を荒らげていた。もし彼の言っていることが正論だったとして、それは彼女の求めるものでは決してないのだ。


「じゃあどういう事を言っているんだい?」

「…………。もういい」

「そう」


 これ以上話したところできっと彼は私の気持ちを汲んではくれないのだろうと悟った葵は、その場で会話を切り上げた。

 彼との交際を始めてからそろそろ二年、このようなことが頻繁に起きている。男は論理的で女は情緒的、などと世間では言われるが、それを踏まえても慎二には他人の感情に対して無関心すぎるきらいがあった。

 付き合いたての頃は「そういう時もある」と飲み込んでいた彼女だったが、時間を重ね、そして同じようなやり取りを何度も繰り返していくうち、彼のそういった部分に辟易するようになっていった。そしてそれが最悪な形で爆発してしまったことで発生したのが今現在の状況、というわけである。


「どうして慎二はいつもそうなの?理屈ばっかりで全然私のこと考えてくれないじゃん!!」

「…………」

「何か言ってよ!!なんで黙るの!?」


 そうして葵が感情を露わにしている一方で、慎二はその様子を見ながら深く考え込んでいた。ここでどのような言葉を発すれば目の前の彼女が矛を収めてくれるのかは過去の経験からなんとなく見当がつくし、なぜその言葉が有効なのかも理解はしている。しかしながら彼にとって問題なのはそこではない。そうした因果の元となる感情が一体どこから生じるのか、そしてどのようにすれば自身がそれを獲得できるのか?このただ一点に彼の意識は向けられている。

 彼の恋人がそう感じているのと同様、彼自身もまた自らの情緒の欠陥と他者のそれに対する無理解を自覚しており、周囲の人間から学び取ろうと彼なりの努力を続けてきた。葵と交際を始めたのも、感情の起伏が過去の相手と比べて激しく、そして表に出やすい彼女を観察することで現状に何らかの変化を起こせるのではと期待してのことだ。しかし結果は見ての通り。知識としてそれらを習得することは出来たものの、長きに渡り抱えてきた欠落感を埋めるには至らなかった。


 これ以上は続けていても意味がないし、彼女との関係性もそろそろ限界だろうか。慎二は小さな溜息をつく。そんな彼の行為は、ただでさえ荒れ狂っている恋人の神経を逆撫でするにはあまりにも十分すぎた。


「今の溜息はなに!?ねぇ、慎二の為に私はこうやって言ってるのに気に入らないの!?もうほんっっっとムカつく!!いい加減にしてよ!!!!」


 とうとう葵は立ち上がり、慎二に掴みかかる。いくらオーナーの娘とはいえこれ以上は流石に大騒ぎになってしまう、とちょうどホールを回っていたウェイターが止めに入ろうとした、その瞬間。










――彼女の手首から先が、綺麗になくなっていた。










「えっ…………?」


 葵は困惑した。つい先程までそこにあったはずの自分の一部が消失しているという事実。そして慎二の体にはなかったはずの大きな裂け目に。正中線に沿って頭の先から腹部の辺りまで続いているそれは、ジッパーの歯ような左右互い違いに生えた牙で食いちぎれられた手を咀嚼していた。

 直後、腕の断面から鮮血が溢れ出し、葵はその場にぐったりと倒れた。周囲の人々は理解を超えた出来事に硬直していたが、数秒経って何が起きたのか理解するとパニックに陥った。その場に崩れ落ちる者、悲鳴をあげてその場から走り去る者、ショッキングな光景に耐え切れず嘔吐するもの……そんな地獄絵図の中、この状況を生み出した張本人だけは至って冷静であった。


「ごめんよ、こんなつもりじゃ無かったんだ。でもこうしないと……」


 こうしないと僕は人間を理解できないから。そう続けながら怪物は倒れた彼女の上に覆いかぶさり、その肉に喰らいつく。彼が過去の恋人たちや、近隣住民に対してしてきたのと全く同じように。

 一口、また一口と怪物が"彼女"を胃袋に収める度に、その二十数年の生の中で蓄積されてきた情報が彼の脳に流れ込んでいく。ピアノのコンクールで賞を取った幼き日の葵に微笑みかける両親の顔、思春期を迎え、高校の先輩に想いを抱いていたらしい彼女の恋模様、次期オーナーの名に恥じぬよう勉強を重ねてきた日々。無論、そうとは知らずに人外の身である自分と過ごしてきた思い出も。気が付けば、怪物の双眸からは透き通った雫が零れ落ちていた。


 嗚呼、あと何度こんなことを繰り返せば。あといくつの命を食べれば、僕は人に成ることが出来るのだろうか?大部分の肉を削がれて無残な姿に変わり果てた葵が、彼の問いかけに答えることは決して無かった。

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あといくつ食べれば アリクイ @black_arikui

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