記憶

カモノハシ

第1話

 『記憶』  


 「昔々、」

 おじいちゃんのしわがれた声。わたしにベッドサイドから優しく話しかけます。

 「昔ってどれくらい昔?おじいちゃんが生  まれる前?」

 「そうだ。おじいちゃんが生まれるのよりもずっと、ずっと前のことだ。」  

 おじいちゃんはわたしのうでをさすりました。

 「天よりも、はるか上に神さまがおった。」

 「神さま?」

 わたしは、神さまについては知っています。

 「天よりもはるか上の空に神さまがいた。幼稚園でならったかい?神さまには四人の息子と、娘が一人おる。四人の息子の名前は、順にジファ、ラマ、アベンチュラ、グラン。」

 それらの名前がわたしの頭をぐるぐる、ぐるぐる回りました。聞いたこともない名前です。日本人の名前ではないようです。しかし、それしかわたしにはわかりません。

 世界には唯一無二の神さまがいて、わたしたちをみまもっているということしかわたしたちはならっていないのですから。

 ならっていないこと以外は知る由もありません。

 おじいちゃんは、わたしに微笑みかけました。

 「変な名前だろう。」

 わたしは、こんな風に笑うおじいちゃんは世界で一人しかいないなと思いました。

 壁に寄りかかった振り子時計が夜の九時になったことをわたしたちに知らせます。本当だったらもう寝る時間です。

 「神さまの娘さんはどんな変な名前だったの?」

 話の続きが聞きたくて、わたしは急いで質問しました。

 「神さまの娘はね、生まれるときなかなかおなかから出てこなかったんだって。お母さんもパニックになって、お医者さんもあせってしまって。でも頑張って、お医者さんたちも頑張って、やっと顔を現したと思ったら、赤ちゃんは足からでてくるもんだから、それは大変だったって。」

 「それで、どんな名前だったの?」

 わたしは神さまの娘がおなかから出てくるところを想像しました。

 「ティミード。ティミードという名前だよ。」

 「親は優しかった?」

 おじいちゃんはゆっくりうなずいて、力強い声で

 「ああ、優しかった。」

 おじいちゃんは古時計へ視線を送りました。

 「それで?」

 今日はここでおしまい、といわれるのが怖くて、質問をし続けました。もしかしたらお話はこれでおわりなのかもしれない、という考えが頭を横切ったのも確かです。

 「それでね、息子と娘はすくすく育っていった。ジファはとても陽気に、ラマは誰とでも仲良くなれる不思議なパワーを持ち、アベンチュラはどんな怪物でも倒せる力強い人に、グランはね、五人の中でもっとも大きく育ったって。」

 おじいちゃんは言葉をきって、一息つきました。さすがのおじいちゃんでも話し続けると疲れるみたいです。

 「陽気ってなあに?」

 おじいちゃんはわたしの質問に顔を上げ、少し考えてから

 「かのみたいにいつも笑っていて、一緒にいると楽しい人のことだ。」

 そう言ってわたしの髪をなでるように優しくなでました。

 外では、水たまりをはじくように進む車の音が聞こえます。

 それにつられて思わず大きなあくびをしてしまいました。

 「もうそろそろお休みの時間だね。」

 そういっておじいちゃんは席を立ち、電気を消して部屋を出て行きました。


 疲れると展開が早くなる。

 おじいちゃんが!優しい設定のおじいちゃん、かのちゃんに有無を言わせず部屋出てってしまったし。

 疲れると誠に展開が早くなる、と木沢健人は実感した。

 なかなかつもらないページ数に対し、いくらため息をついても五ページが十ページに倍増してくれる訳でもない。そんなことは中学校の頃からわかっていた。承知した上でこの道に進んだのだから、誰も攻めることはできない。

 机上のイケヤの百円置き時計に目をやり、            そして霊気を感じたかのように振り向いた。   視界に入るのは住み慣れた幽霊屋敷の如く様相を呈する壁紙の剥がれた壁と散らかる本どもである。もっとも、2LDKの部屋に敷き詰められる冊数など言うまでもなく限られているから彼の愛読書の一握り、そして部屋の片隅に位置する木製の古びた机で人生を過ごしている。

 サンテグジュペリ『星の王子さま』、スティーブンキング『IT』などの西洋の近代文学の中に隠れるように埋もれる一冊の本が健人の目に入った。

 白い表紙に明朝体の太字で『記憶』。そしてその下には作者、神威真神。その周りに描かれる意味不明の白鳥らが何を意味するのかは作者の愛する後輩でさえわからない。

 「神威真神」

 「しんいしんかみ」「かみいじんがみ」などと様々な読み方が出来る実にセンスの名前だが(悪いのは親ではなく本人である)その読み方が実は「かむいしんじ」であることも、 アパート一階に位置する「ころっけやさん」のかにクリームコロッケに実はかにがみじんも入っていないことを知っているように、かむいしんじが学校一指名の多いキラーであることも同高校一年下の後輩であった健人は知っている。

 健人は意味もなくにやついた。

 もっと実を言うと、神さんは高校の文芸部を立ち上げた張本人である。


下からはぴろん、ぽろんとピアノを誰かが練習している音か猫が黒鍵とじゃれている音がよく聞こえる。箒で、うるせー、と床をどしどし叩くという定番の動作をこなした後、健人は気を取り直して机に向かった。

 鉛筆を手に取りコンコン、と机でリズムを刻むと同時に左手をあごに添えて考える振りをしてみせる。考える振りをしてみせるもののおじいちゃんが幼稚園生である、かのの部屋から出て行った今、かのには「寝る」という選択肢しか残っていなかった。


 場面は次の日、幼稚園へ迎えにきたおじいちゃんから話の続きを聞くところである。

 どうでもいいことだがかの家はは両親と母方の両親と一緒に住む今時珍しい二世帯同居の設定だ。というか今そう決めた。(もともとは両親が離婚し、祖母に引き取られたという設定も考慮したのだが重すぎるとみてゴミ箱行きになった。)

 

 「ねえ、昨日の話の続き!」

 わたしはおじいちゃんの手を引きながら笑いかけました。家に向かう細い道に入ったところです。

 「ティミードの話ね。昨日言った通りな、 

ジファはとても陽気に、かのみたいな人のことだよ。ラマは友好的に、アベンチュラは力強いく、グランは大きく育った。」

 「けれども、ティミードはとってもおとなしかったんだ。ジファに対しても笑わなくて、ラマが遊びに誘っても首を振るだけ。アベンチュラがなにをしても無反応。」

 「そんな子、わたしのくみにもいるよ!」

 わたしは彼女の顔を思い浮かべました。

 入園当初から反応が薄く、口数の少ないまるでティミードのような子です。

 「話は少し変わるが。」

 おじいちゃんはわたしの手を左右に振りました。

 「ちょうどその頃神さまは生命のある星を作ろうとしたんだ。」

 わたしは、わからないことばがたくさんでてきて戸惑いました。

 「せいめいってなに?」

 友だちにこうめいという男の子がいます。

 「生命とはな、生き物のことだ。かのもそうだ。息をして、食べ物を食べて、助け合って生きているもの、すべて“せいめい”だ。

 まだ頭がほどけない糸のようにこんがらがっているわたしを見て、

 「昨日言っただろ、この話はずっと、ずっとむかしのお話だって。地球が出来る前のお話だよ。」

 おじいちゃんはひゅひゅふ、と声に出して笑いました。

 「そ


 ポキッ。

 「…」

 最後の一本だったことに気付くや否や健人の右手にモザイクがかかった。

 今頃鉛筆で筆記する人はいるのだろうか、と思いながら右手からモザイクが外れるがまたいつもの決めゼリフが脳裏を横切る。

 これも、自分で選んだ道なのだから。

 意味も無く脳裏に浮かび上がったのは母親の顔である。

 「ふざけてるの?作家なんて…作家であんたが生きていける訳ないでしょ!」

 反対し続ける母親を押しのけて、祖父が最後にはなった言葉。

 「健人は作家になりたいんだろ?じゃあ、三年がんばり。お母さんに食ってけるって証明してやり。それでもし無理だったら戻ってくるんだよ。」

 健人は先の折れたチビ鉛筆を見つめた。

 

 彼の問いに返答するかのように外では風がアパートの力強く揺らしていた。

 

 「ポチ文具店」という名前とは対峙的に渋い内装の店内をさまよい歩きながら愛用する

種類の鉛筆一ダースを手に取った。

 アパートから数メートル先の道角に位置するポチ堂は古民家に挟まれており文具店の存在を知らない人なら十人中九人は気づかず素通りしそのうちの気づいた一人は店内の人気のなさに驚いて素通りすることだろう。

小規模な文具店の定番の店舗併用住宅だが健人はこの店の常連客であった。

 「よう、また尽きたか。」

 この店のオーナー、サリーがギシギシ階段から店内へ降りてきた。もちろんサリーというのは健人つけたあだ名である。三年前この毛深い高齢の大男に対面した際には肝を抜かれたものだ。店舗にも、この人にもどこに「ポチ感」が存在するのかつくづく疑問に思うのであった。

 「順調か?」

 はい、と返事をしたものの年の功というべきものか、

 「ははは。また壁にぶち当たったか。」

 豪快な笑い声が店内に響き渡った。

 よくもまぁこんな大繁盛でそこまで大胆に笑っていられるものだ、と悪態をつきたくなったのをこらえて健人も笑い返した。正直、この店舗に客が入っているのを見たことがない。

 いかなる場所でのいかなる境遇も笑い飛ばせる、そのような人柄なのだろうと改めて感心する。

 「今度は?」

 今度はどんな作品を書いているのか、と聞いている。文章の省略にも程がすぎる。清少納言や紫式部さえも舌を巻くであろう。

 「小さな女の子が主人公の話です!」

 毛むくじゃらの巨人は些かな黙思を挟んだ後、

 「炉利か!」

 「……。」

 そのとき、ギシギシとうねりながら店の扉が開いた。お、開店二人目の客か、と悪態をついてやろうと健人は思ったものの、目がスパイ映画で見るようなカバンを下げる珍客に釘付けになった。

 長髪の高身長、少女漫画の主人公が三番目くらいに恋する相手の如く様相を装う壮年であった。

 彼のことをガン見する健人とポチを片目に店内に入り360度周りを見回したあと薄汚く、古風で品ぞろいの悪いこの店に落胆したかのように振り返ってドアに手をかけた。

 「百瀬先輩!」

 びっくりしたサリーの目がまず健人を一瞥し、首を三十度ほど動かし百瀬先輩!と呼ばれた男の方に今度は目をやった。

「おお、健人!おまえじゃないか!」

 これでもかというほど百瀬真は目を開いて                      

大きく手を広げた。

 半開きの扉からは早春の陽光が差し込んでいた。


 「高校以来だな。」

 「ポチ文具店」を出てからすぐのこと、百瀬先輩が口火を切った。

 「そうですね。 六年ぶりですか!」

 古びたアパートと古民家の連なるこの景色にどうしてもなじめない百瀬先輩について、

様々な思考が健人の脳内をさまよい機能不全の状態にしていた。

 「まさかこんなところで見かけるとは思わなかったな。あんな文房具屋が頼りどころとはまさか切羽詰まった生活をしているのではなかろうな?」

 「先輩こそこんなところで何してるんですか。」

 少し強めに健人は聞いた。

 しばしの沈黙の後、

 「そういえば、我々は何処へ向かって」

 健人は百瀬先輩の相変わらずの古風な話し方にあきれつつ質問に答えていないです、と指摘する。

 「お互い様だ」

 がはは、と自分より遥かに低身長の健人を見下ろしながら百瀬先輩は威勢良く笑った。

 やがて、健人のお住まいに着いた。 

 「ひどいアパートだな。こんなところにすんでるのか。ぼろい文具屋の次は古びた汝のねぐらか。え?エレベーターもないのか。どう形容すればいいだろうか…“陳腐“を越して“陳套“とでも。」

 先輩でなければ一殴りして追い出すところではあるが六年ぶりに会った心腹の友から話も聞かず分かれるのはちと寂しい。

 という考えは健人が部屋に入ってすぐ滅した。

 「社会の底辺って感じの部屋だは。生き肝を抜かれた。陶酔に値する!」

 「……すみません何も出せなくて。」

 問題ない、というような顔で床に敷きっぱなしの布団に席を作った。

 アパートの外と彼のちっぽけな部屋とでは大分湿度が違う。よって春とは言えどもむしむしした熱気が彼らを襲った。

 普段は滅多に客の入らない彼の部屋にゲストがいるとその部屋の一気に変わった空気を帯びる。もともと一人が暮らすのにも狭い部屋である。そこに成人男性二人となると狭いことこの上ない。かと言っておしゃれなカフェで一杯、なんてことをする余裕は健人にはなかった。

 「なんか久々だな。この感じ。覚えているか?あの小さな個室で活動しただろ。パソコンが学校になくて…貧しい学校だったもんな…やっと部活設立の許可が下りたと思ったらちっぽけな部屋一室でさ。仕方ないから互いの汗のにおいかぎながら書き続けた日々を…」

 「すみませんが、先輩の汗の臭いを嗅いだ覚えはありません。」

 長髪の巨体が過去の思いにふけっている状態は実に気色が悪い。隣に座った健人に時折顔を近づけたりして、完璧に覚えている記憶をあたかも彼一人が経験したかのように百瀬

は語り続けた。

「野球部の締まっていこー。バスケ部のいっぽーん!茶道部の仕舞っていこー!の中で俺ら黙々と書き続けたもんな。」

 ツッコムと先輩が喜ぶだけなので健人はスルーした。

 「いくつのコンクールに応募したかな。」

 「いくぐらいでしょうね。数十件だと思います。」

 「誰も一つも当てなかったがな。」

 「当たり前ですよ。高校生で公募を勝ち取ったらすごいことです。それこそ陶酔に値します。」

 意味有りげな目線を真は健人に向けた。

 心地よい静寂が彼らをいささかの間包んだ。

 突然、真はあっ!と声を出した。

 「はい。もちろんです!何回も読みました

よ!」

 健人の期待とは裏腹に、真は須臾の間表情を渋らせた。

 見えた。

 先生にいたずらがばれた小学生のような顔。

 我に返ったように笑った前にのぞかせた、真意。

 「面白いだろ。」

 「神威真神さん!サインください!」

 健人は床に転がる『記憶』を取り机上のフォルトペンを差し出した。

 「お名前も入れますか?」

 「はい。お願いします!」

 ペンを受け取って一瞬考えるような素振りを見せてから、

 椎名もも♡ 

 「……そこから三回くらい飛び降りてください。」

 世界で数番目にどうでもいいことだが椎名ももとは健人が入学してから三年間ぶれずに想いを寄せていた相手である。

 「いないのか?」

 「なにがですか?」

 「ラヴァー」

 今度はにやついて顔を寄せてきた。実に気色が悪い。

 「いませんよ、そんなの。」

 聞いた俺が馬鹿だった、とでも言うかのようにあからさまに肩を落とした。

 「先輩はいないんですか?恋人」

 長身の真は高校で指名が多かったことは言うまでもない。しかしいかにも聞いてほしそうな顔をしていた真からは意外な答えが返ってきた。

 「いないさ。」

 わざとらしく下を向いて落ち込んでみせる。

 「妻ならいるがな!」

 「!」

 「すごいですね。」

 健人は心の芯までにやつく真を面白半分みやった。

 「そういえばポチ店で持ってた核ミサイル発射コードが入っていてもおかしくないようなブリーフケースどこにやったんですか?」

 真はあっと驚くような素振りを見せて

 「置いてきたかもしれないな。後でとりにいこう。」

 健人は手元の本をぱらぱらとめくった。 

 「それよりも、『記憶』について教えてくださいよ!卒業して音通不信になったと思ったら相川文庫賞受賞、神威真神さん!なんて新聞の一角に!神威真神なんてへ…独特な名前つける人百瀬先輩意外にいるんだ、って感心してたら隣に先輩の顔写真があって!」

 「それでわたしと分かった訳だ。」

 「いや、さすが顔まで似てる!と思ってびっくりしました。」

 「あくまでも私が賞を取ることはないと…」

 その通りです!と返答する代わりに健人は表紙を飾る二匹の白鳥が池で浮遊するイラストをまじまじと観察した。白い羽に黄色いくちばし。そこに隣接する、相手を凝視しているようような目。ある小規模の宿舎を経営する少年の一生を描いたストーリーラインとは全く関係のないように思える白鳥だが、実に重要な役割を果たしているかのような様相を呈している。

 “清水 哲郎:絵”

 絵に無の知識を持つ健人でさえ舌を巻くほど印象的な絵であった。色と長年の間お付き合いした者だけが描ける、そんな絵に感じられた。

 しかし、この中で最も印象深いパーツと言えば白鳥の羽である。実物大よりもいささか大きいような印象を与えるが濃淡の濃い描き方はどこか憎めない。

 「先輩。一つ聞いていいですか?この表紙において白鳥の存在意義を教えてください。」

 真は表情をいっさい変えず、

 「ああ、実はね今妻と二人で宿を経営しているんだ。」

 「!」

 「すごいですね!」

 健人は自分の台詞がデジャヴであるような気がしたが知らぬ顔の半兵衛。

 「それで、その宿のゆるキャラが白鳥な訳だ。」

 真は笠をかぶり杖を持つ丸い白鳥の着ぐる写真をスマホで提示した。“丸い”という形容詞が信じられないほど合うほど角がない。

 「宿にもゆるキャラがいるんですね。」

 「なににでもゆるキャラがいるさ。」

 「名前は何ですか?」

 健人は飲みかけのペットボトル水から人のみした。

 「神威だ」

 健人は思わず映画の一シーンのように半分喉を通った天然水を真の顔面に吹き出した。

 

 「そろそろおいとまいたします。天然水ありがとうございました。」

 健人が差し出したタオルで顔を拭きながら真はつけてもいない腕時計を見る素振りをした。

 「いや、今かえられたら気が気でないですよ!小説のことで聞きたいことがたくさんあるんです。」

 「いや、本当にこのアパートにいると身の危険を感じる。一つ聞くが、非常用階段はどこだ?消化器一つさえ見当たらなかったぞ。」

 急な質問展開に健人は言葉につっかえた。

 「しかも全ての階が木造じゃないか。万が一火事が発生したら一室の燃焼じゃ済まないぞ。建物すべてに瞬く間に火が移るだろう。」

 指摘されると相違なく激安アパートとはいえ法に違反している。

 健人は言葉を失った。逃げるウサギのように健人を片目に部屋のドアに手をかけた。

 「待ってください!また今度お詫びさせてください。」

 健人の差し出した控え帳に一瞥を投げかけ苦笑いしてから受け取った。

 「いつでも呼んでや。」

 

 人気のなくなった部屋にため息を一つついたところで先輩が機嫌を直してかえってくる訳でもない。気分がダウンのまま健人は机上の折れた鉛筆を一視した。


 「それで神さまは地球を作った。地球を作って生命を作ろうとしたんだ。」

 わたしたちは家に着いたのでおじいちゃんがおやつの用意をしています。

 「ここで神さまは考えた。

 『どうやって地球に生命を作るか。』」

 わたしに質問をするようにおじいちゃんは首をかしげました。

 「どうやったの?神さまはどうやって地球にせいめいを作ったの?」

 なにかを思い出したかのようにおじいちゃんは部屋から出て行きました。わたしは驚いて名前を呼びましたが返事はありません。

 わたししかいない部屋は変な空気がただよっています。とても静かで、平和だけどおじいちゃんが無言ででていってからすこし寂しい。

 おやつのバームクーヘンが昨日見たお月の形になるまで平らげたころおじいちゃんは大きな丸いものを持ってかえってきました。

 「地球儀だ。これが、かのとおじいちゃんがいる地球だ。」

 幼稚園でちきゅうぎのことは説明を受けていたので何か知っていました。

 「地球にどうやって生命を作ったか−。神さまは自分の子供たちを地球に送って人間の子供を作るように命令したんだ。」

 おじいちゃんは地球儀を机の上にゆっくり置きました。

 いままでにおじいちゃんからはたくさんのお話を聞いてきました。しかし、こんかいの話を話すおじいちゃんは今までと比べ物にならないほど真剣な顔をしています。少し前から感じてたことです。だからわたしは質問もしないで耳を傾けていました。

 「神さまは五人の子供を地球の各地に送った。ジファをここに。」

 そういっておじいちゃんは地球儀をさしました。指の先には“北アメリカ”の文字。

 「ジファのアメリカ大陸からは陽気で元気な人間が繁殖したんだ。そしてラマ。」

 “ヨーロッパ”と書かれる部分に指を当てました。

 「国が多いだろ?友好的な人々だから隣国が多くても構わない。アベンチュラ、グランはそれぞれ、アジアとアフリカ大陸でそれぞれの個性を生かしてそれぞれの人間を築き上げた。」

 おじいちゃんは自分のバームクーヘンを少しかじりました。そしてコップ水から一飲しました。

 「最後に、おとなしい性格のティミードだ。 

ティミードも地球に送られた。」

 話がクライマックスに近づいているのだなと感じ取りました。おじいちゃんのコップを握る手に力が入っています。目に力が入っています。今までの話の中でもないくらい力強い目です。

 おじいちゃんはしわの入った指を地球儀へさします。

 「ティミードはここに送られた。大陸とつながっていないから恥ずかしがりやのティミードにはピッタリの所だと神さまは考えたんだ。」

 おじいちゃんはわたしの目をまっすぐ見つめました。

 わたしの目をまっすぐ見るおじいちゃんの目をまっすぐ見返すと、ある記憶がよみがえっていました。


 二年前、おじいちゃんが家に引っ越してきた少し前のことです。

 そして、大好きだったおばあちゃんがまだこの世にいた時のことです。

 おばあちゃんは、数ヶ月から越してきた白い部屋の白いベッドで寝ています。訪れたわたしの目をまっすぐ、まっすぐ見ながらおじいちゃんをよろしくね、って言ったのです。力強く生きてね。たくさんの人を助けるんだよって。

 「おばあちゃんと一つ約束してね。」

 わたしはおばあちゃんと約束しました。何を約束したかは思い出せませんでした。引き出しがつっかかってうまく取り出せないときのように、心のどこかでつっかかって思い出せません。


 わたしはおじいちゃんのわずかに震えている指の先を見ました。

 「神さまは、ティミードを日本に送ったの

?」

 おじいちゃんはいすから立ち上がってわたしの前でひざまずきました。

 そしてわたしの両腕を強く握って

 「そう、ティミードのもとで日本人が生まれた。だからね、日本人は他国の人と比べて恥ずかしがりやなんだ。消極的で、自分の意見をはっきりと持たないまま他に流されて、漂流物みたいにすごしてきた。」

 「どういうこと?」

 「人前で話すことをさけたり、目を見てはなせなかったり。恥をかくのが怖くて。誰かに馬鹿にされるのが怖くて。誰かが前にいないと自分で行動できないんだ。」 

 両腕からおじいちゃんの鼓動が伝わってきます。

 「だからね、かの。かのはこれからの人生ラマみたいに友好的に!アベンチュラみたいに力強く生きるんだよ。困っている人がいたら誰よりも早く、積極的に手を貸して。学校に入学したら誰よりも多く手を挙げて先生に質問するんだ。積極性だよ。そうしたらきっと、かのは将来社会に大きく貢献できる。積極性を大事に生きるんだよ、かの。」

 せっきょくせいという言葉でわたしの中でなにかが点滅しました。おばあちゃんとの約束。おばあちゃんも同じ言葉を使って、同じことを私に言ってくれていた気がします。

 「かの、おばあちゃんと一つ約束してね。

おばあちゃんとひとつ


 ポキツっという鉛筆の折れる音とともに健人は机に雪崩のごとく机に突っ伏した。

 何が言いたいの?読者に何が伝えたいの?

主題は?

 言われ続けて三周年…

 過去一はっきりとさせたつもりだった。

 けど何かが違う。

 手に、疑心や嫌気がつもりにつもって健人は机に倒れ込んだ。

 遠くで聞こえる救急車のサイレンの音が自分がまだ正気であることを意味する

 健人は自問した。

 物語は、これでいいのだろうか?

 考えれば考えるほど自分の作り上げる作品がゴミのように思えてきて、重く健人の上にのしかかる。

 不能、不安、不可、不才、不合…

 負の心情が不という字を中心に渦をまく。

 健人の目から静かに粒が頬を滴った。

 これが最後の作品になるだろうと、今まで感じていたことが一層力を帯び

 このまま死ぬのかもしれない。

 祖父と約束した「三年」。

 三年頑張って無理だったら諦めろ。

 あと一週間であの日から三年が経つ。

 時は過ぎる。

 

 あっ!と健人は顔を上げた。

 思わぬ時に宝石級のアイデアは生まれてくるものだ!

 とおもったのも夢の中であった。


 「あの長身の男知り合いか?」

店の過度に位置する小型テレビでニュースを見ながらサリーは自然と健人に疑問を投げかけた。

 春の爽快な風のなかなお様相をかえず大地にずっしりと根を張るポチ堂のなかで健人は

珍しく店頭で店の番をするサリーを見つけた。

 今日午後二時頃…と場違いなアナウンサーの声が店内に響き渡る。

 市内で約2000人が同性婚の合法化を巡って路上抗議を行っているらしい。

 それはともかく

 「『記憶』の作者ですよ!高校の一つ上の先輩です。」

 すごいでしょ、といわんばかりに健人はサリーを見たがすごいな、とは言ったもののあまり驚いた様子を見せないサリーに戸惑いを覚えた。むしろ、困惑した表情だった。

 「どうかしましたか?」

 はっと我にかえったような表情をして

 「あの、スッッごく多く売れた『記憶』か?」

 「はい。多く売れたやつです。」

 「多くじゃない。スッッごく多くだ。」

 「…はい。」

 「その『記憶』の作者がわしの店に来たというのか!」

 サリーはわざとらしく目を丸くして店内をはしゃぎ回った。

 「ポチ…」

 「今なんか言ったか?」

 「いや、なんでもないです。」

 筆記作業の合間にポチ堂へ来た本来の目的を思い出した健人は

 「前見せていただいた白鳥の絵を見せていただいてもいいですか?」

 事務所の名探偵の如く様相を呈する健人にいささか驚く様子を見せながらも少しお待ちよ、と階段を上っていった。

 サリーのいない古い文具店で一人、健人はある一種の不気味さのようなものを感じて背後に目をやった。

 視界に入るのはいつもの見慣れている木製の棚と、そこに掛かる鉛筆をはじめとするノートなどの文房具各種。首をわずかにずらすと頑張ったね!などと書かれたスタンプの列…

 健人の目は店の一角に釘付けになった。

 カバンが壁に沿うようにして寄りかかっていた。

ミッションインポッシブルでしか見たことがないような長方形の黒いブリーフケース。

 それが真が所持していたものであるということは自明である。      

 「ポチ堂に忘れてきたのかもしれない。」と言って後にとりにいくと論じていたものだが忘れて帰ってしまったのかもしれない。さほど大事な物ではないのだろう。

 電話番号もあることだし、これを理由に再び会えて小説の話が聞ければこれ以上のことは望めない。

 そう思って健人はブリーフケースの取っ手をとった。

 「重い……。」

 ハリーポッター全巻の合計の重みくらい重い。

 以前本屋で働いたことのある人ならご存知だろう。紙の束という物は重いのである。

 本当に核ミサイル発射コードが入っているのではないか?真は宿の経営者などではなくて、本当は、日本政府の軍事顧問なのではないか?

 健人は自問いした。

 重いブリーフケース。色は黒。他に釈明の余地がない。

 あやつは何者だ…?

 当然の帰結のごとく健人にも好奇心というものは携わる。そしてその好奇心は目の前に見たこともないようなブリーフケースが前例のない重量があるとき、主人を放っといてはくれない。

 半開きの窓からは早春の冷気を帯びた風が店内に忍び入る。

 健人は背後を顧みた。

 サリーは階段を下りるときは象の如く物音を立てる。

 店にとっては恥じるべきことだが、店に誰かが唐突に入ってくるということはまずない。  

 要するに、誰にも知られずケースの中を見ることは出来るということだ。

 健人は恐る恐るという形容詞が限りなく当てはまるほど慎重に口をあけた。

カチッ、カチッ、と店内に鋭い音が響き渡り、虚空であてをなくしたかのように消えていく…。

 今日も外では世界のアリどもが元気にアリどもが元気にすることを精一杯しているのだろう。どうでもいいことだが日本にはトゲアリトゲナシトゲトゲという昆虫が生息する。

 また7ELEVEnのNだけなぜか小文字だということも思い出した。

 いけない、いけない。

 時間は有限である。

 健人は腹を決めてジッパーを思いきりあけた。

 ケースの中身は右端から波のように姿を現す。

健人は言葉を失った。

 叫ぶことも出来ず、喉で息がつっかえ、呼吸困難に陥った。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の呼吸器を奪ってしまったからである。

 健人は、そのとき、初めて、そのブリーフケースにいっぱいに、あふれるほど詰まる万札束を見た。

 健人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、店内を見回した。

 当然の帰結のごとくこの古民家ポチ堂に監視カメラは見当たらない。小型隠しカメラも探した限りだと仕込まれてなさそうだ。

 別に、目の前に無防備に居座る大金を盗もうとしている訳ではない。

 「目の前に200万円が現れたら盗む?放っとく?」というモニタリング企画を疑っただけだ。

 普段の若い二十歳前後の女子ではなく社会底辺をさまようフリーター男性をターゲットにする物好きなテレビ局は存在するのだろうかと疑いながら健人はケースのチャックを閉めた。閉めた後も目にはケースの口からのぞく銀行からだされたばかりかのような新鮮な現金の束がはりついていたことは追求するまでもない。

 そのとき、階段の上段の方で物音がしなければどうなっていたことか。健人は放心状態のまま植物人間になってたかもしれない。

 我に返った健人は元の位置にカバンを戻し何もみなかったかのようにその場から一番遠い鉛筆コーナーへ逃げた。

 「ほら。持ってきたぞ。」

の背丈の半分はあるキャンバス。

 サリーはそれをレジ机に慎重に置いた。

 やはり息をのむような、グラデーションが豊かな青い空を磨き上げられた鏡のように移す池。そこに自適悠々と浮かぶように描かれている動物は二匹の白鳥である。

 黄色いくちばしの元には鋭い目。

 健人は視線を絵から動かすことなく数秒、黙思した。

 紫色の胴体に付く羽は先に行くにつれ色は優しくなり白鳥にどこか聖なる印象を与える。

 健人は数秒沈思したのち顔を上げ、言った。

 

 アパートの入りに着いた健人は困惑により足を止めた。

 『TRANS AND PROUD!!』

 『生産性で差別をするな!』

そして

 『LGBT Rights are HUMAN RIGHTS!』

 アパートの入り口のガラスドアに貼られた

虹色のポスター、そして多くの、虹色で書かれたのは落書きであった。

 健人はあることを思い出した。

 このアパートには様々な人間が住み着いているということを。

 確か、三年前近所に挨拶していったとき聞いた話で、健人の一つ上の階にはブルーボーイが住んでいると。

 そして、健人ほとんどアパートから出ることがないのか、戻ってくることがないのか過去三年間あったことがなかったが、同性婚を合法にするための抗議を筆頭しているという。

 健人は数時間前までは平和な太陽光を反射していたドアグラスを見つめた。

『Hommo Sex 4 llife』

ドアノブに手をかけ、鍵などもなくセキュリテリー性ゼロなアパートの中に入った。

 自分の住むアパートがこのように、抗議の言葉で埋め尽くされることはいささか気に引っかかるところがあるが、これも政府に対する抗議の一環なのだろうか。

 仕方がない、と階段を一歩ずつ登る。

 健人の心行きとは裏腹に外では爽快な春の風が壁の怒りをなだめるかのように吹いていた。


 健人の三年間を今振り返ると実に本人にとっては密度の高い充実した年だったと言えるだろう。

 「三年間、本を書いて、頑張るんだ。それでも、もし駄目だったら、戻ってこい。」

 おじいちゃんの設定した三年間で応募した小説コンテスト、公募の数は短編物を合わせて数十個に登る。そして、受賞した賞は:0。

 自分は何をしているのだろうか。

 なぜ書き続けるのか。

 決して人を助けることもない、感動させることも、怖がらせることも、楽しませることもなーんにも出来ない。それどころか、人に読まれることもない。

 小説を書いて、なんになる。

 重い荷物のようにこれらの思考が健人にのしかかり、幾度折れそうになったことだろうか?

 また、主題はなに?意味不明。ここの表現おかしい。

 あんなにいざこざつけて文句言って自分の方が才能ある的な態度とっておきながら同窓会では、

 建築士になりました。

 卒業式で、それぞれの道で書いて、また大物になって会おうね、約束だよ。なんて泣いてた女子も、

 税理士になりました。

 自分だけ、社会から置いてきぼりになっているように思えて、でも、「小説家になる」という共通して持っていたはずだった夢を本当に追いかけていたのは自分だけだったと知らされた怒り。

 これまでと比べ物にならない程、疲労感、無力感らが積み重なりもう“駄目だ”と実感したとき健人の耳に入ってきたのが神威真のニュースであった。今まで同窓会にも顔を出さなく消息不明であった百瀬先輩のメジャー

出版社の公募の最優秀賞の受賞のニュースである。

 健人は、iPhone 6の画面を見つめながら、涙を流した。

 先輩…。仲間…「小説家になる。」

 って。

 部員で誓ったよね。


 健人は少し物語の続きを書いてから、机上のメモ帳を手に取った。

 

 何年ぶりだろうか(三年ぶりである)。普通であるものの、原価の数倍の値段のするアップルジュースを飲んだのは。

 チャリン、という涼しい風鈴の音とともに清々しい風が店内をのぞく。

 二人の男が−貧乏人と長身長髪−ある街角のカフェで待ち合わせをしていた。そして、長髪は貧乏人の方へ歩み寄り向かいの席に腰を下ろす。

 カプチーノ、と自身のオーダーを住ませた後、何のようだ、と健人と向き合った。

 「先輩、いきなりですが、私はなにをしていると思います?」

 「職業か?」

 はい、と答えると同時に答えは即返ってきた。

 「書いてんだろ?小説」

 真はあたかもそれがまぎれもない事実だと認められているかのように提示した。

 なぜ分かった?やいつは名探偵か?とあからさまに驚きを隠せない健人を片目に

 「机に原稿用紙がそのまま置いてあったぞ。

今頃手書きで長編を書く物好きがいるのか、と感心してしまった。でも、お前っぽいよ。                 

深く考えすぎずに、自分のやりたいことやって生きてく。」 

 「私が一向に出版までに至らないからの嫌みですか?」

 真はにやつきながら、そうかもしれないなと下を向いた。

 周りを見回せば、この二人意外に客は老人カップル一組だけである。

 バックグラウンドミュージックさえも流れないこのカフェでは“静寂”が心地よいものとなってたびたびやってくる。コーヒーの機械の音や、老人の会話声、それらが一斉に無になる瞬間があるのである。

 「先輩、相談したいことがあって。」

 より、シリアスな声で健人は口火を切った。

 「大学を卒業してまわりが就職活動に励んでいる最中、私の小説家になりたい、という夢を両親は完全否定していて、積極的に肯定してくれたのはおじいちゃんだけだったんです。それで、妥協して三年間の筆記作業を許していただけて。」

 「うむ。」

 「それで、三年間あと二週間で三年が過ぎます。」

 真は目を突き出るほど大きく開いた。

 「今書いている作品で最後ということか…」

 「はい」

 「読ませてもらおう。」

 健人はかばんから原稿用紙の束を引き出した。

 「タイトルは?」

 「まだです。途中までしか書けていないので、最後に決めます。」

 真は逆さに受け取った原稿用紙をただしてから、一ページ目からまじまじ読み始めた。

 

 ペラッ、ペラッ、と一枚ずつめくれるたびに健人の心臓は高鳴り、やはり、目の前で作品を読まれることは慣れないものである、と実感した。

 手に汗をにぎりながら数ページ読まれるのを見つめていた健人であったが作者に見つめられながら読まされる百瀬先輩も集中できないことであろうと自身のiPhone 6 を取り出したものの、視線は真に釘付けである。

 

真は無言で原稿用紙を机上に置いた。

 「うむ。」

 何が言いたいのであろうか。

 「よく書けてると思う。でも、『記憶』を書くうえで最も意識したのが、自分が文章の奥に潜める意図、心情、などのほとんどは読者に届かないってこと。自分が一時間かけて仕込んだプロットのひねり、名前の真の意味

なども審査員が気づかなかったら意味がないし、自分が心に抱く苦しさは一番届きにくい物だよ。自分の悩みをそのまま小説に組み込む人が多いが太宰治でもない限り境遇の全く違う読者たちに同じ心情を味わいさせることは不可能に近い。そういった面で、健人は読者に頼りすぎてるんじゃないかな。」

 真は手元のコーヒーを口元へ運びすすった。

 一年上の先輩であるが、小説家としては何万部も売り払っている真は見上げる人生の先輩である。

 「世界には二種類の小説が存在する。人を楽しませる小説、と、世界を変えるための小説だ。『記憶』がどちらに分類されるのかは言論するまでもない。どちらがいい、という問題ではない。しかし、はっきり自分の小説に線を引いた方がいいぞ。健人の小説はどっちなんだ。」

 真は健人の目を直視し、問題を投げかけた。

 この小説の主題は何だ?

 この質問に毎度苛立ちを覚えていたことを思い出した。

 「前者です。」

 「そうだろう。そして、もう一つ重要な欠点がお前の小説に存在する。」

 健人は手元のリンゴジュース(メニューの中で最安価であったから注文した物である)

のグラスに付く水滴を手で拭き取った。

 「登場人物がみんな同じ方向を向いていることだ。」

 かのが成長する上でほとんどの者がかのと同一な意見を所持し、少なくともかのの「人生の敵」が必要だと言う。かのの存在自体を否定し、ぼろぼろにするような人生の敵である。小説は、複数の勢力が正面からぶつかりあって、争ったり妥協したりしてこその、面白みがあると。

 「人は自分に反抗する者がいて、ぶつかりあって、そうやって成長していく者ではないのか。そうやって強くなっていくんだろ?かのはおじいちゃんの話を聞いて積極性を身につけようとした。小学校にのぼっても、おじいちゃんが死んでも、芯に共通の教養を設定して生きていくが、そこにかのの積極性を完全否定する人物が完全不可欠だ。かのが発言するのをいやがる先生でも、友だちでもいい。集団主義な日本ではかのみたいな女の子は排除されやすいはずだ。」

 真はコーヒーにミルクを足し、難しい顔をしてかき混ぜた。

 チャリン、と風鈴がなり新たな客が入店する。

 真は顔を上げ、口の両端を柔らかにうえへあげた。

 「あ、あともうひとつ」

 「続きますね…」

 「おまえは、三年間諦めずに小説を書き続けたんだろう?その経験を通してしか書けない小説ってもんが存在するだろう。それを書けよ。自分にしか書けない、小説が誰にでもあると思うんだ。『記憶』に俺の宿の経営者として働いた経験が活きていることは言うまでもない。」

 うむ、と一人で満足そうにうなずいた後、

 しかし、と立て直した。

 「これらは『記憶』の作者としてのアドバイスだ。」

 わずかに静寂をはさんで

 「好きなんだろ?書くのが。」

 返答に困惑する健人を片目に

 「だから諦められなかったんだろう?三年前に親に反対されても選んだ小説家という道。

 「はい。」

 「うらやましいよ。」

 「はい?」

 真のうらやむ対象になる人生を歩んでいる自覚は少なくともなかった。

 最低限のアルバイトで稼いだ金で人の衣食住という需要を埋めるだけの生活をし、一生出版されることのない小説を書き続ける生活に、『記憶』の作者がうらやむ要素など微塵もなかった。

 「なにがうらやましいんですか?」

 もちろん健人の質問には十分な皮肉も含まれている。

 「俺には小説家になる勇気がなかったんだよ。自分は小説が書きたい、って最も分かっているのは自分なのに。変わりに親父の宿を継いで、小説を書く時間はほとんどなかった。

 「嫌みですか?それでも『記憶』を書いて爆売れしてるじゃないですか。」

 真わははは、と少し笑って、

 「『記憶』を書いたのは大学だよ。」

 真はそんなことも知らなかったのか、とでも言うように笑い飛ばした。

 「理想じゃないか、好きなことを職業にして。それで食っていければ運が良かった。それだけのことだよ。安定した生活を目指して、その職業にはクソも与えないくせに医者でも弁護士に意地でなってるやつらより、全然かっこいいよ。職業の価値を収入やらの数字で決めつけ、さらにその職業がその人自身の価値にまでなってしまっているこの世の中、自分の好きなことをそのまま職業に出来ている人はなかなかいないんじゃないかな?」

 健人はありがとうございます、とうなずいて、それ以上は反論しようとも賛成しようともしなかった。

 心地の良い静けさが店内を取り巻くが、目の前に『記憶』の作者がいる以上質問をやめるわけにはいかなかった。

 「書いていて行き止まったときはどうしますか?」

 健人はしばらくの間心中にあった疑問を投げかけた。

 「小説を書いてて行き止まることは誰でもあるだろう。単に表現に困ったりする時は他の小説から、言葉が悪いが、盗んでくるって言うのも手だと思う。でも、それよりも小説の真っ只中で挫折したり、するだろう?そういうときはだいたい理由は一つなんだ。自分の書いているトピックに興味が足りないだけだ。テーマが元々定まっているコンテストに応募する際に最もおこりやすい。そのテーマに自分の興味がないと無論筆記作業を続けることは難しいだろう。だから絶対に自分の興味が足りないテーマで小説を書くのは厳禁だ

。」

言うことは言った、とでも言うかのように真はうなずいて意味もなく周りを見回した。

 

 アパートに帰って健人がはじめにしたことは、百瀬先輩の話を一からメモを書いたことである。入り口で収まっていた同性婚の合法化を巡った抗議の言葉がアパートの入り口でおさまっていたのが廊下まで手をのばして来ていたがたいして気にせず健人は必死に手を動かした。

 実にためになる話であった。

 高校の同窓会にも一切顔を出さない真と、話がしたかった。大人になって小説を書くことと縁を切った他の部員は、真のデビュー作『記憶』が大ヒットを果たしたことを知ってどう感じたのであろうか。一度感心して、“忙しい、忙しい”とそれっきりで自分の仕事に戻ったことであろう。

 クソが。    

 しかし、百瀬先輩と再会を果たすことを諦めることが出来なかった健人は、元の学校に連絡して百瀬先輩との連絡手段を得ようと尽力をつくしたのであったが、実を結ばず。

 「個人情報ですので」

 その一言で返されて。

 その他諸々の手段もすべて失敗に終わり、諦めかけていた頃思わぬところで再び会うことが出来た。

 そして、聞けた小説の話。

GOOGLEでもなく有名小説家の『小説の書き方』でもなく、百瀬先輩から聞きたかった小説の話。

 力がこもり、何度鉛筆が折れただろうか。

 健人は興奮の収まらない指先をコントロールしながら、メモを書き終えて、普段の机に原稿用紙を置き椅子に座った。

 そのとたん、ある事実が健人を直撃した。

 今書いている小説が、人生で書ける最後の小説だった、ということを。

 「…」

 ため息をついたところで死んだおじいちゃんが現れてもう一年チャンスを与えられる訳でもなかった。

 いくら頼んだって、親が承諾を下してくれるはずもなかった。

 もうすでにクライマックスへとさしかかっていた目の前の小説。今まで一ページ書くごとに終わりに近づいているようでうれしかったことが嘘みたいに、目の前の原稿用紙の文字をすべて消しゴムで消してやりたかった。

 そうはいっても、“三年”まで後十四日間。

 そして、最後に応募する公募の締め切りまでも、あと、十四日間。

 「三年間のうちに成功しなかったら諦めて他の職業を探しな。」

 おじいちゃんと妥協して発した母親の言葉である。成功しなかったら、諦めて。

 成功しなかったら。

 この公募で、成功したらいいのか?

 しかしどうやって?

 健人は目の前の原稿用紙には目もくれずに、窓の外を見ながら沈思した。

 ここは、百瀬先輩に協力してもらうしかない。もう少し具体的に訂正してもらうんだ。

 健人は原稿用紙を意味もなく束ねて、凝視した。

 そのとき外では、桜前線が本州に上陸を果たしたのであった。

 

 それから一週間後、アルバイトをやめた健人は久しぶりに「ポチ堂」を訪れていた。

 

 相変わらず、店に入ったら端のテレビはつけっぱなしのくせにサリー自身の姿はない。

 サリーの名前を呼ぼうとしたものの、ニュースを報道するテレビに注意を引かれた。

 「昨日…」とアナウンサーがシリアスなトーンで話し始める。

 世界的な、目が見えないことで知られる作曲家、木村虎河氏の楽曲が別人の作品だったことが発覚したという。数年前のデビュー曲『スワン』で世界中に名を広めた木村虎河であったが、新曲『メモリー』の真の作曲者が名乗りでたことから「ゴーストライター疑惑」が発生し、次々と過去の楽曲も別の作曲家の作品だったことが発覚したという。

 「視力障害者が作曲した楽曲」として売り出した方がやはり世間の注目を浴び、うれるのであろう。

 金目当てで人生を棒に振ったのである。無論今後、世間に楽曲を売り出すことは無理だし、どこの会社も彼を雇ってはくれないだろう。三十歳で世界に「ペテン師」として名を広めた木村虎河はどのようにして今後いきていくのだろうか。

 画面を見つめる健人は背後で階段から降りてくるサリーに気がつかなかった。

「もう尽きたのかね?」

 健人はビクッ、と地上から数メートル飛び上がった。

 我に返り、はい、と答えたものの、サリーを恐怖の対象として見つめるばかりであった。

 一週間前、札束で埋まっていた真のハンドバッグはもう店内には無く、しかし、その行方をサリーに尋ねる勇気を健人は出せずにいた。

 なにか知ってはいけない事実が存在するような。知らないほうがいい事実だって存在するはずだ。健人の好奇心がたとえサリーの返答によって満たされたとしても、その幸福感と、聞いたことを後悔するリスクを天秤にのせたとき、どちらに傾いているのかは自明であった。

 

 自室に戻った健人は筆記作業を再会した。

 

 最後に健人が応募する公募はに選んだのは、テーマも文字制限もないである。『記憶』の出版社ほど有名な実権のある出版社ではなかったが、最優秀作は、その出版社による出版プラス百万円の賞金。

 佳作、優秀作などのグレードは存在せず、受賞作は五作、と狭き門だということは言論するまでもない。

 しかし、“出版”と言う健人の何年も追いかけ続けていた夢がかなう可能性が一パーセントでも存在するのだ。

 しかし、出版させたいという願望よりも健人の手を動かす動機を作るものがあった。

 出版させた、という事実を他の道に進んだ文芸部のやつらに突きつけたい。

 職業は?という疑問に対して

 「小説家」

 という返答と

 「へぇー」

 という感想の間にひそむ人をあざけるような一瞬隙を見せる表情。

 何度も何度も見てきたから分かる。

 感心するような表情を見せる前に、姿を表す「自分の方が社会的地位が高い」とでもいうかのような、自己満足。

 ついさっきまでは上司の愚痴をまわりがあきれるまでぐちぐち言ってたくせに。

 そういう人たちに自分は成功したんだって、伝えてやりたかった。

 そのためには無論成功する必要がある。

 健人は勢いに任せてiPhone6を手に取り、真の番号をたたき始めた。


 真の経営する宿に着いたときに真っ先に目に入ったのは『記憶』の表紙にあった白鳥の絵である。

 それが壁に大きく羽ばたくように書かれていて、古民家の並ぶストリートではずば抜けた存在感を放っていた。

 外で迎えてくれた真にお礼の品を渡してから宿舎に入った。

 明治時代を思わせるような木造の建物で、玄関では木板がモホロビチッチ不連続面のように不規則に飛び出ていた。言うまでもなく現在も経営最中であるため下駄箱は小さい靴から大きい靴まで、溢れ出るほどの靴で埋まりきっていた。

 「大盛況ですね。」

 「こう見えても、すべて『記憶』のおかげだよ。『記憶』が世にでる前なんて、ここの一段目が埋まればいい方だった。やはり、すごいものだな、小説による広告というものは

。」

 そういって豪快に愉快そうに笑った。

 「俺の部屋はこっちだ。」

 そういって歩き出す真に健人は慌てて靴を脱いでそろえてからついていった。

 二人は木のさわやかなにおいがする階段を上って、二階の最端に位置するドアの前で立ち止まった。鍵をあけて、目の前に広がったのはごく一般的な家内であった。

 宿に隣接する真の家の中に入り、彼の仕事部屋は廊下の突き当たりに位置した。

 さすが、『記憶』の作者。

 部屋の三方の壁に寄りかかる棚を本が埋め尽くしていた。

 しばらくそれらの本を観察した健人はあることに気がついた。

 「すべて漫画本じゃないですか!」

 「なにか悪いか?」

 「小説を読まないでどうやって書くんですか?」

 「君はなにを言っているのだ?漫画とはコマの大きさや形、吹き出しのタイミングなど、ならではの表現技法が存在し、それは小説を書く際の大きな手がかりともなる。映画、漫画、絵本、などそれぞれに独自の空間の扱い方、工夫などが存在し、それらを学ぶことも

無駄な努力ではない。」

 話しながら真は椅子に腰をかけ、もう一つ引き出して、座れ、と健人に指図した。

 「そうなんですか。」

 この追い込まれた状況で漫画を読んでいる余裕は無いかな、と実感しながらも健人は早速原稿用紙を取り出した。

 「今日は具体的に一文ずつ直していきたいです。」

 じゃあ、と真は両手で健人から書き途中の小説を受け取った。 

 宿は大盛況である。しかし仕事は他に任せて、その後数時間健人の小説の添削につきあったのだから、真も健人の小説に対して本気だったことは言うまでもない。

 何日か健人は宿に通い続け、公募の締め切りまで四日となった。

 自身のアパートで筆記作業を続けていた健人は、iPhone 6の画面を開いて時間を確認した。

 午後四時。

 連続で、一分たりとも休まず三時間があっという間に過ぎていた。

 さすがの健人でも手にも頭にも限界というものがある。両手とも鉛筆の芯により黒くなり手首はつる前兆のようにかすかに震えていた。

 外では烏が集団をなして飛び交っている。

 休憩しようとベッドに横になった健人は、 

床に倒れ込む『記憶』を手に取った。

 今にも表紙から飛び出しそうな二匹の白鳥の絵。

 “清水 哲郎:絵”

 真の宿舎の壁に描かれる白鳥の絵も清水哲郎さんが描いたのであろうか。ぜひ彼にも会うことができないだろうか。

 百瀬先輩に言えば会わせてくれるだろう。

 そう思った健人はiPhone 6に手を伸ばした。

 そして、その手はiPhone 6に届くことは無かった。

 虚空で固まった手が、なにか思い出したか

らだ。

 数秒、健人は固まったまま沈思した。

 健人の耳にはもう烏などは聞こえない。

 聞こえるのは真の声である。

 こう見えてもすべて、『記憶』のおかげだよ。

 健人の心にこみ上げてきたものは、激しい怒り悪の気持ちである。

 健人の目はiPhone 6などとらえていない。

 映るのは、「ポチ堂」で見つけた真の“忘れた”大金のつまったブリーフケース。

 左手で握る『記憶』には鋭い爪痕がついた。 

 そのまま激しく震える健人の中指が表紙を突き破るのではないかと思われた頃、健人は

本を放し、両手で携帯で真の番号を激しくうち始めた。

 「はい、百瀬真です。」

 「先輩、」

 叫びたくなる気持ちを抑えて冷静に問いただす。

 「『記憶』を書いたのは大学の時だといっていましたよね?」

 「うむ。言った。」

 「宿を継いだのは大学を卒業してからですよね?」

 会話の方向性が分からぬ、という口調で

 「うむ、そうだ。なにを…」

 でも、と健人は割り込んだ。  

 「初めて小説を読んでくれたときにアドバイスしてくれたじゃないですか。“自分の経験が活きてくる、『記憶』も俺の経営者としての経験なしでは書けなかった”って。ここで、矛盾が生じます。」

 あぁあれか、と至って冷静に真は話し始めた。

 「『記憶』を書いたのは確かに大学のときだ。そして、自分の経験は活きていない。あの時そういったのは説得力を増す必要性があったからだ。それだけのことだ。そこまで興奮する必要はない。」

 賛同するかのように烏がカー、と一斉に鳴いた。

 「それではなぜ『記憶』の話をあまりしたがらないのですか?」

 ん?と真は電話の向こうで首を傾げた。

 「したくないといった覚えは無いのだが。」

 「先輩の表情を見れば分かります。『記憶』の話になるといきなり表情が曇るのです。先輩は自分の思っているより表情が外にでていますよ。」

 「それは君の勘違いだよ。」

 と言った真の言葉がかすかに震えていたことを健人は聞き逃さなかった。

 「なにか『記憶』について質問でもあるのか?今時間はある。いくらでも答えてあげるよ。」 

 「では、『記憶』のデータを見せてほしいです。コンピューターで書いていると言ってましたよね?」

 「それは無理だ。」

 返答は瞬間で返ってきた。

 「なぜですか?」

 「捨てたからだ。」

 「きちんと正直に答えてください!なぜデータを私に見せることができないのですか!」

 「言っただろ、すて…」

 「正直に答えてください!」

 健人は声を荒げた。

 「手元に、元々データは存在しないんでしょ!『記憶』を書いたのは…『記憶』の作者は先輩ではありません!『記憶』の本当の作者は…真の作者は別にいるんでしょ?違いますか?」

 真による返答は返ってこなかった。

 まだ電話の向こうにいるのであろうか?

 電話を切らない。

 ショック死したのではないか?と不安になったが健人は話し続ける。

 「それでは、『記憶』の作者は誰なのか…『記憶』の作者は「ポチ堂」のオーナー、サリーです。いや、清水哲郎と言った方が正しいでしょうか?」

 いやなにを言っているのだ、という真の全否定の声を聞きたかった。アホか?いきなりどうした?

 変わりに聞こえたのは、今からここに来い、と言った今にも消えそうな弱々しい声であった。

 プツッ、と電話は切れた。

 残るのは完全なる静寂である。烏さえいなくなった夕焼けの広がる空の下、古びたアパートの一室で健人は疲労感により床に倒れ込んだ。

 

 「まずお前がどこまで探り出したのか、聞かせてくれ。そうしたら、約束する。全部話す。」

 はい、と応答して、健人は指をくんで前へ乗り出した。

 「まず、あの古びた文具店に百瀬先輩が訪れた理由です。わたしがいくら聞いても答えてくれませんでした。そして、「ポチ堂」に“忘れた”ブリーフケースの中には見たことも無いような大金が入っていました。」

 「お前!見たのか?」

 「よく、アパートの経営者で、一階で小店を開いて自分の趣味の一環として集めた専門的なものを人に売る商売があります。そういったケースでは客はたびたび入るものの、人は滅多にそれらを買うことはありません。

 客がほとんど入っていないのに文具店の経営者としてサリーの生活が成り立っている事実。どこからか、他に収入が入ってきていると考えざるを得ません。しかしいつ「ポチ堂」へ行ってもサリーが仕事をしている雰囲気は無く、不思議でたまりませんでした。

 そのような考えに先輩のブリーフケースが登場して、先輩とサリーの間になんらかの関係が明らかになりました。

 そして、その考えを裏付けたのがサリーの描いた水彩画が『記憶』の表紙と限りなく似ていたことで、『記憶』の絵を担当した清水哲郎は実はサリーなのではないかと考えました。」

 「しかし、だとするとお金は出版社からサリーに直接入るはずであって、現金を先輩が直接秘密に渡す必要は無いはずです。」

 真は納得のいったようにうなずいた。

 「よって、『記憶』の真の作者はサリーであり、なんらかの理由によってそれを先輩が自作として公募に応募したら奇跡的に賞を受賞した。」

 真は反対も賛同もせず、だまって健人の説明を黙って聞いていた。

 「終わりか?」

 「いいえ、私なりのこれらの行動に至った動機である“何らかの理由”が、仮定ですがあります。」

 健人は疲れたような顔をあからさまに見せて、健人の話の続きを待った。

 「『記憶』が出版されたのは先輩が宿を継いだ一ヶ月後です。『記憶』に出てきた宿である、『記憶』の作者の経営する宿だ、とすれば先輩の言っていたとおり客は集まります。小説は最強の宣伝方法です。小説は先輩の名前で売る変わりに利益はサリーのものになった。違いますか?」

 真はうなずいた。

 健人はそれが、違いますか?の答えとしてうなずいたのかなんなのかよく分からなかった。

 「すごいな。ほとんどあっている。」

 真は素手で顔をふいた。

 「しかし、私は宿に客が入る、という利益がある。しかし、清水には何の利益があるのだ?」

 健人は首を振った。

 自分が質問をされる筋合いは無いと思ったが、とりあえず考える振りをしてみる。

 「清水哲郎、調べてみ。」

 言われた通りiPhone 6を開き、サーチエンジンに“清水哲郎”と入力した。

 「清水哲郎、画家、そして元小説家であり○○社の審査員を勤めている。」

 「審査員!」

 「そうだ。審査員だと自分が書いた小説を入賞させることは楽勝だ。もちろん彼一人が審査員な訳ではないが、自社の審査基準や求めている内容をよく知っているため有利であることに違いは無い。しかし、無論審査員に応募資格は無い。そこで彼は協力者を必要としていた。わたしも宿の名を広める必要があった。そこで、SNSで知り合った私たちはこのようなことをした。」

 そういって、彼は大きなため息を一つついた。

 部屋を埋め尽くす漫画に健人は目をやった。

 「世界には二種類の小説が存在する。」

 とか、

 「小説には二つの勢力がぶつかり合うことが大切だ」

 とか、これらがすべてでたらめだったと思うと、健人は一度真を殴りたくなった。

 しかし、今まで小説を書き続けることが出来たのも、百瀬先輩の背中を追いかけていたからであって、でたらめだったとしても様々な偉そうな感想やアドバイスに助けられたことは事実として残る。そして、高校時代もっとも小説に熱心だったのも百瀬先輩であった。

 健人は、不安な静けさを埋めようと真に声をかけようとした。

 顔を上げた健人は、真と目が合った。

 真っ赤で、涙が流れていた。

 双方何も言えず、何も言わないまま時は過ぎた。

 その静寂を勢いよくこれでもか!というほど激しく破ったのが健人の携帯の、緊急通報であった。

  

 健人と真が着いた頃には、アパートは真っ黒な煙に包み込まれ一階、二階のすべての窓は激しく目がくらむほど明るい炎を噴いていた。普段は人の姿が見られること自体がまれである健人のアパートの前には野次馬が三十人ほど集まり、あぜんと激しく燃え上がる建物を見上げている。

 激しく燃え上がる自身のアパートを前に、健人は無力に突っ立ている他なかった。

 「放火だってよ、」

 と野次馬のおばさんが健人に小声で知らせる。

 ここにいると危ないので、と消防署の方が

人々を遠くへ誘導する。

 二階から炎は天井までたちのぼり、健人の部屋は完全に赤く隠されていた。

 既に三階の健人の部屋に火が移ったのかは分からかった。

 ガシャン、と窓が割れ、地面に激しく落下する。そして、消化に励む消防士をものともせず火は三階、四階、と移っていった。

 溶岩のように壁は剥がれて、窓は次々と落下し、煙はキノコ雲のように高くまで上り続ける。

 涙の原因は煙だろうか?火っ気だろうか?

 自分のアパートが、燃えている。

 そう実感したときには、アパートは全焼し勢いを絶やさない火が隣接するアパートやホテルに移ろうとする頃合いであった。

 後日発覚したことだが、火事は同性婚の合法化に反対する組合による計画的な放火だったという。

 もともと、あと数日で引っ越すはずだったアパート自体に未練など無い。部屋に残された愛読書の『星の王子さま』、『記憶』などは本屋へ行けばいつでも買うことが出来る。その他健人の所持品は使い物にはならないものばかりである。 

 三年間ひたすら小説を書き続けた仕事机が跡形も無く全焼しても、知ったものか。

 健人のぼろぼろになったベッドが、爆発しても痛くも痒くもない。

 健人は泣いた。

 健人の部屋の窓から、紙くずのようなものが多数飛び散った。

 これが、自分の最後の小説の終わり方なのか。公募にも応募できず、燃え尽きて終わるのか。

 念のため健人は自分のカバンの中をチェックしてみるが原稿用紙は見当たらない。もしかしたら宿に忘れてきたのかもしれない、と

思い当たるがそんなはずがないことは最初から分かっている。

 健人の一連の動作を見ていた真は、何も言わず、同情の意で健人の肩に手を添えた。

 手書きの小説は、データなど残っているはずも無い。バックアップなど存在しない。

 当たり前である。

 その当たり前であることが、健人の小説がまだこの世に存在する可能性を消滅させているようだった。

 健人にも限界が来たと見え、二人は無言で真の車に乗った。

 

 しばらく、どうするか分かるまで俺の宿に泊まっていいぞ。三食付きだ。不便することは無いだろう。

 そのようなことを真は健人に車内で言った。

 バックミラーをのぞけば空には黒い煙がたちこもり、真の宿へ向かう途中何度応戦へ向かう消防車とすれ違ったことか。

 

 部屋を与えられシャワーに入った健人は無心のままベッドに倒れ込んだ。

 倒れ込んでそのまま、起き上がることなく時はすぎた。

 機械的に与えられた食物を摂取、消化し、それ意外にはエネルギーを使わず、夕方気がついたように起き上がってはシャワーを浴び、再びベッドに身を任せる。

 真は心配してたびたび部屋を訪れるものも、どう声をかけてよいのか分からないままほとんど植物化した健人のそばにいることしかできなかった。

 そして、応募するはずだった公募の期日がくる。

 健人が昼起きて、真が昼食兼朝食を運んでくる。

 真はノックして、うっすら健人の返事を聞いたあと部屋に入る。

  朝食だ。

 のっそり、起き上がって、机に座り真を見つめる。

 「こんなものを昨日見つけた。」

 そういって真は一枚のチラシを出した。

 『第四回カモシカ文芸コンクール』

 「いやだ」

 健人は大声でチラシに向かって叫んだ。

 「二人で書こうよ。」

 「やりません。」

 「やろう!」

 「いやです、私はもう引退したんですよ、小説家。」

 「健人。聞いてくれ。俺は『記憶』は書いてない。でもな、小説家を諦めきれずに、お前に負けないほどの小説を書いて、お前に負けないほどのコンテストに応募して、全部失敗してる。でも超楽しかったんよ。こうなったら楽しいだろうな、とかこうなったら人は幸せになれるんだろうな、とかいろいろ考えて、それを言葉にして、文章にして物語にする。その一連の動作が、自分にとっては究極の幸でせであって、それを人に読んでほしかった。でもな、宿の仕事が忙しくなって、小説はもう一年書いていない。」

 「でもお前に会って、その楽しさを思い出したんだよ。お前の小説を読んで、書いてるお前を想像したら、自分も書きたくなってきて。いろいろと偉そうなコメントばかりしたが、本当に伝えたかったことは、お前の小説は面白かった、ってことだけだったと思う。」

 健人はうなずいて、真の真剣な目を素直に見つめた。

 「俺らは、高校時代から面白いことを考え続けた訳じゃん。ずっと人を自分の世界で旅させてきた訳じゃん。」

 「まあ読んでくれた人は少数ですけどね。」 

 「でも楽しんでくれた人はいる訳じゃん。それってとてつもない能力を身につけたのと一緒だ。スパイダーマンの糸よりも、スーパーマンの飛行能力よりも、はるかに強い“経験”というすごい能力だ。だから他の仕事で金稼ぐようになっても、書き続けろ。お前みたいな世界観持ってるやつどっこにもいないぜ。」

 「でも、もう引退したんです。小説家。書きたくないです。もう原稿用紙さえも見たくもないです。」

 「それは嘘だ。」

 健人は真の単刀直入な発言に一瞬びくりとした。 

 「本当にあの小説を最後にするつもりなら、あそこまで熱心に俺のアドバイスを聞いてないだろう。小説が半分書き終わっているというのに。」

 健人は苦笑いするしかなかった。

 「書こうや!二人で。」

 「だから書きません!」

 「書こう!」

 「書きません。」

 まだ人生の半分も生きていない。

 これから、いくらでも塗り替えられる。

 何色でも、加えられる。

 これから、続きをやるのだ。

 

 「二人で、書こうよ、小説!」

 「書きませんて。」

  

  

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記憶 カモノハシ @kamonohashi124

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