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野津井 香墨

第1話

「好きだから」


真っ赤に染まったベッドシーツの中で、突っ伏したエスタルノは聞こえる筈のない声を聴いた。

ダンスパーティーで見かけた彼女を誘って、カメラも無い無人フロントの安ホテルへ、二人で、彼女が荷物を下ろしてすぐに。

ベッドに押し倒して、事前に投与した睡眠薬が効き始める頃、リシン系を吸入させて眠ったまま死に至らしめた。

彼女のドレスも指輪も、皮も肉も剥いで剥いで剥いで、何かを探すように必死に掘ったが、それが何なのか彼には分からなかった。


エスタルノがベッドからゆっくりと起き上がると、左のこめかみに痛みが走って、手で押さえようとして僅かに躊躇した。

手が血まみれである事と、その手に感覚がなくなるくらい強く握られた、固くて柔らかい何か。

そうっと手を開くと、太めの指輪のついた指が握られていた。安っぽいシルバーリングはまだ乾かない血でぬるついている。


彼女はある政治家の愛娘である事や、その指輪と指は脅しに使う為に持ち帰る必要がある事等を、エスタルノは知らない。

この指は彼女のものだ、だから持って帰ろう。好きだから。

自身の短絡的な思考回路は、普段発揮される彼の聡明さなら疑問の一つも浮かびそうなものだが、鐘の音のように響き続ける頭痛と異常な状況による思考回路の麻痺が支配している為、目の前の状況対応にのみリソースを割いていた。


「好きだから、そういう事をするの?」


聞こえた声は、その彼女の声ではなかったが、ベッドの上の彼女が確かに語り掛けてきているようだった。

エスタルノはそれに答えず、皮を剥がれて歯を抜かれ、不明死体となった彼女の顔を覗き込む。顔に手を這わせて、顎を更に開く。先ほど抜歯した際に、奥歯を抜く為に顎を外していたが、更に開いていく。

皮や腱が抵抗を示しているが、エスタルノは難なく食い破って顎を殆ど取り外してしまった。

細やかな作業は、まるで相手を愛撫しているようだったが、エスタルノが口づけて撫でる度に、彼女は剥がれ、捥がれて細かくなっていく。


「死体があまりしゃべるものじゃないよ…」


顎が外される前から喋れるはずが無かったが、これでもう話しかけられずに済むと、エスタルノは内心で安堵していた。


「君は黙ってた方が綺麗だよって、オレ、ダンスパーティーの時に言ったよね。君は令嬢らしくなくて、下品で、粗野で…」


でも何故か好きだったんだよね、と言わずに飲み込んだ。本当に、自分は彼女を好きだったのだろうか?

疑問に至る直前に、警鐘のような耳鳴りと頭痛に襲われて、平衡感覚を失った。

呻きながら、ベットの上を手あたり次第漁り、掴んだ冷えて濡れた物を引きちぎった。これは彼女のどこだろうか?考える暇もなく、口に押し込んで噛み砕き嚥下した。

エスタルノは頭痛が遠のき、意識がクリアになった気がして一息をついた。それでも濃く覆われた領域は、エスタルノ自身の意識に見つからないように息を潜めていたが、エスタルノの興味はもうそこには無かった。


シャワーを浴びてから出るか悩んだが、ロッカーを開けると薄手のコートが入っていたため、これを羽織って出てしまおうと決断した。

灰皿に溶けた歯と燃やした髪を積み上げ、本当なら体も燃やした方が良いのだけどと彼女を見やった。彼女に何度も囁いた愛の言葉が、他人の声のように脳裏を通り過ぎていく。


「流石に可哀想かな」


エスタルノはひとり呟いて、そっと死体にシーツを被せた。まだ白かったシーツに、またじわじわと血が滲み始める。

多少の特定が遅れれば良いので、そこまでする必要が無かったためだったが、エスタルノは憐憫の情で見逃していると思い込んでいた。

何故歯を溶かしたのか、毛髪を焼いて指紋を剥ぎ取ったかは、エスタルノ個人の判断だったが、ここまでのラインを想定した強い催眠がかかっている事を今の本人は知らない。


「じゃあ、さよなら」


ホテルで一時チェックアウトの手続きをし、前払金だけを払ってドアを閉める。エレベータのボタンを押した後、手で顔を覆った。

エスタルノは自身の手首に歯を突き立てて、強く引く。皮が滑らかに捲れて行くが、それは皮膚ではなく、薄手の手袋だった。

偽造された指紋と彼女の血をそのまま隠滅するように、被膜を剥がしてそのまま口に入れる。


ホテルのドアは自動ドアで、この後はもう何も触れることはなく、手掛かりも無い。あとはこの指を持って帰るだけだ。持って帰る、どこへ――


エスタルノはホテルのドアの前でしばし呆然としていたが、目の前にゆっくりとタクシーが止まった。

タクシーの窓が開いて、「スィニョーレ、フランチェスコ・バロックですか」と問いかけられる。

頷くでもなく曖昧に返事をすると、ドアが開いた。誘われるように中に上がり込む。「行先はご予約いただいた通りで構いませんか」と運転手に尋ねられるが、猛烈な眠気に襲われて答えるかどうかの域で意識を手放してしまった。

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