雨
増田朋美
雨
今日は、梅雨空らしく雨が降っていた。雨が降っていると、鬱陶しくていやだとか、そんな声が出てくることが多いのだが、最近では雨が降ってくれてよかったという声も多数聞こえる。最近、例年通りにいかないということが多いし、それでいて、発疹熱の流行のため、いつも通りという言葉が、まるで神の言葉のように聞こえるのだ。
その日、杉ちゃんとジョチさんは、利用者を一人整形外科に連れて行かなければならなかった。ちょっとした利用者同士で口論になり、半狂乱になった女性が、自分の腕に出刃包丁を刺したのである。こういう時、何をやったの!などと怒鳴ったりしてはいけない。ただ、つらかったねとだけ言って、黙って病院に連れていく。どうせ、自傷行為の悪い部分を説明したって、彼女にとっては悪いと思っていないことが多い。むしろ、彼女のつらい面に語りかけてやるようにしないと、彼女の自傷行為は治まるどころかさらに悪化することを、杉ちゃんもジョチさんも知っているから、あえて、自傷行為をしたことを、責めたりすることはしなかった。
しかし、彼女が包丁を刺した傷は深く、五針も縫う大けがであった。
それだけは、いくら彼女には正当行為であったとしても、間違いなく何かしらの「損害」になることは間違いなかった。
杉ちゃんとジョチさんが、会計を待っていると、第二診察室のドアがガラッと開いた。
「ありがとうございました。」
と、言って出てきたのは、マオカラースーツに身を包んだ、竹村優紀さんである。隣には、彼の手伝い人でもある、藤井一弘がいた。なぜか、竹村さんは、腕を三角巾でつっていた。
「あれ、竹村さんじゃあないか。一体腕なんかつって、どうしたんだよ。」
と、杉ちゃんが、竹村さんに聞くと、竹村さんはちょっと苦笑いをして、
「ええ、生徒に切りつけられたんです。それで、こうして腕をつっているわけで。」
とさらりと答えた。
「生徒に切りつけられたって、一体何があったんですか?」
と、ジョチさんが心配そうに聞いた。
「いえ、大したことありません。こういうことは、本当によくあることなので。今日、生徒さんを相手に、公演をしたのですが、私のいうことは何も通じなかった生徒がいたんですよね。それで、私が講演を終えて帰ろうとしたときに、生徒が突然追いかけてきて、切りつけていきました。」
と淡々と語る竹村さんであったが、やられたことは重要だ。そんな生徒がいたとしたら、学校として大問題だ。
「ええ、たぶん彼女は、退学になって、それで終わりですよ。学校というところはそういうところですから。医療ミスをした病院と同じ。彼女も、そうやって、人間不信感を募らせていくのでしょう。」
と、竹村さんは言った。
「そうか、で、講演って何を話したんだよ。」
と、杉ちゃんが聞く。杉ちゃんという人は、すぐになんでも、聞いてしまう癖があった。そして、ちゃんと本当の答えが得られるまで、質問を変えないのが、杉ちゃんである。
「ええ、ただ、吉永高校の教務主任さんから、進路について話してくれと言われただけですよ。それで、生徒の関心を国公立大学へ向けてくれと言われたので、その話をしました。」
と、竹村さんは、ふうとため息をついた。
「それでは、みんなに国公立大学がすべてと、話したの?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「いいえ、そのようなことは話しませんでした。今は、国公立大学へ行ったからと言って、将来を約束されることはありません。しかし、吉永高校は、なんとしてでも国公立大学へ行かせたいんですね。まったく、高校は、何のためにあるのか、私もわからなくなりましたよ。」
と、竹村さんは答えた。
「なるほど、まだ、そんなに国立大学至上主義が続いているのですか。僕が行ったのも国立でしたけど、本当にやりたいことも学べなくて、つまらない大学生活でしたけどね。」
と、ジョチさんが言った。ああ、理事長さんも、国立大学だったんですか、と、竹村さんは、にこやかに笑って返答したのである。
「ええ、僕が行ったのは、東京芸術大学の楽理科でした。大学院にも行ったけど、果たしてこれでよかったのかなと、思いましたよ。僕が本当にやりたかったことは、全部、弟の敬一が持って行ってしまいましたから。」
「はあ、そうですか。やはり、国立大学を出ても、幸福な人生が得られたというわけでもないんですね。それがわかっただけでも、私の発言は間違っていなかったということがわかりましたよ。」
と、ジョチさんの話に竹村さんは答えた。
「はあ、お前さんは、国立大学至上主義の高校で何を話したんだ?」
と、杉ちゃんが口をはさむ。
「ええ、ただ、自分の身分をわきまえること。現実はテレビゲームと違って、なんでもリセットすればよいということはありませんということ。そして、社会的にやりがいのある仕事を見つけて下さいとだけ、お話しました。」
と竹村さんが言うと、
「はあ、それで、腕を生徒さんに切りつけられたんですか。」
と杉ちゃんが言った。
「ええ、そういう事です。後で、担任教師に話を聞いてみましたが、彼女は、吉永高校に自身の意志で入ったわけではなさそうでした。ただ、親やピアノの先生の勧めにしたがっただけということです。学校側は、彼女を成績がいいので国公立大学に入れたいが、彼女はその意思がないようで、かなり、学校側ともめていたと聞きました。まあ、事実上、彼女を学校には、置いておきたくなかったんでしょうな。それで、私にこの話をさせて、彼女を追い出すための作戦だったんでしょう。それか、単に彼女に国公立大学に進学してもらいたかったかのいずれかです。」
竹村さんは、またため息をついた。
「で、その腕を切りつけた女子生徒は、今どうしているんですか?もしかしたら、刑務所のようなところに送られてしまったとか?」
と、ジョチさんが聞く。
「ええ、彼女のご両親もかなり動転していましたので、私は、別の高校に行くようにと指示を出しました。こういうことは、生徒一人で解決しようとなると、必ず悪い方へ行きますから、大人がしっかりお前は悪くないといってやることが一番大切です。なんだか、加害者が被害者に助けを求めるというのもおかしいですけど、大事なことは、彼女が、生きているということですから。それを第一に考えてやることが、一番でしょう。こういう時は、すぐに対応を打たなければ、彼女は教師どころか、大人にまで、不信感をもってしまう。それではいけない。そうならないようにしてやることも、彼女を死なせないための作戦の一つでもあるんです。」
竹村さんのいうことは、理路整然としていて、そこいらにいる教師とは、えらい違いな発言であった。餅は餅屋とは、こういう事である。
「竹村さんはすごいですね。そういう風に先を見据えて行動できちゃうんだから。」
と、杉ちゃんがはあとため息をつく。
「で、竹村さんの腕を切りつけた人は、別の高校に行って、幸せに暮らしているというわけか。」
杉ちゃんは話をつづけた。
「いえ、幸せに暮らしているかということは、私もわかりません。何しろ、公立高校から、私立高校に転校するということは、彼女にとって、大きな痛手だと思いますし。彼女自身はよかったとしても、彼女は一人で生きているわけではないですから。つまり、家族や、近所の人たちが、彼女への評価を変えてしまうということですね。」
と、竹村さんは、にこやかに言った。
「そうですか。確かに、私立学校は、この静岡県ではあまり評価は高くありません。公立のほうがえらいと考える県は、めったにないですけど。何だか、僕たちが、今連れてきた女性と同じような感じですね。」
ジョチさんは竹村さんに言った。
「ああ、あなたたちも同じような感じの人をここへ?」
「ええ、まあそうです。」
とジョチさんは言った。
「今、向こうで縫合していただいていますが、彼女も、リストカットの癖が今でも取れないで、僕たちも、困っているのです。彼女も、やはり高校の時から、リストカットを初めて、30を越した今でも治らない。でも、僕たちは、彼女のことをあきらめたりはしませんよ。竹村さんがおっしゃる通り、彼女は死んではいないんですからね。」
「そうですか。理事長さんもご苦労がありますな。」
と、竹村さんは、にこやかに笑った。
「けがをして、縫合すればいいとか、腫瘍があるから取ればいいとか、そういう問題じゃないのです。これは忘れられているようですが、精神疾患の場合、原因物質が、まだ生きている人間で、それも同様に意思があることが、一番大事なことなんです。」
「なんか、竹村さんって、お医者さんみたい。すごいこと言う。」
と、杉ちゃんは、竹村さんに言った。
「で、彼女の名前は?どうせなら、今ここにいる彼女と会ってもらいたいもんだな。それで、きっと、二人の女性たちも変わってくると思うんだ。逆にさ、彼女たちを何とかするには、そうするしかないんじゃないかと思うんだよね。」
「ええ。私も、そう思いました。」
と竹村さんが言うと、ちょうど、処置室のドアがガラッと開いて、看護師と一緒に、杉ちゃんたちが付き添っていた女性が現れた。彼女は、まだ30代そこそこなのであるが、もう疲れ切って、人生はどうでもいいという顔をしている。
「伊藤さやかさん。終わりましたか。」
と、ジョチさんが彼女に声をかけた。隣にいた竹村さんが、にこやかにこんにちは、と挨拶する。彼女は、まだ、中年の男性に、不信感を持っているようである。
「僕は、もう二度とするなとか、そういうことはいいません。ただ、あなたに、自分を傷つけるということはしないでいただきたい。それだけです。あなたは、もう少し、自分に対して、寛大になった方がいい。経済的にも、何かしても完璧という人間はどこにもいませんよ。それをよくおもってください。」
「そうですね、、、。」
伊藤さやかさんは、ちょっと恥ずかしいのか、怖いのか複雑な顔をしている。
「さやかさん、お前さんにちょっと頼みたいことがある。」
と、杉ちゃんが言った。
「あのさ、この竹村さんのところにクライエントとして来ている女の子なんだが、お前さんと同じ、学校のことで悩んでいるみたいなんだ。ちょっと、お前さんも手を出してやってくれよ。やっぱり、同じ経験をしている奴の言葉ほど、うれしいものはないよ。」
杉ちゃんという人は、そういうことを、平気で言ってしまう人である。彼は、絶対に人がやってはいけないと思われることを平気で口に出したり、実行させてしまったりすることができるのである。
「伊藤さやかさん、これは本当なんだ。信じてくれ。お願いしますよ。」
と、杉ちゃんは、そういうことを言った。
「じゃあ、私が、彼女を連れてきますから、伊藤さんも、彼女に話をしてやってくれませんか。何も励まそうとか、そういう気持ちはなさらなくて結構です。ただ、単に彼女に、つらい目にあったと言ってやればいいのです。其れこそ、彼女にとっては、一番の薬ですよ。」
と、竹村さんが言った。
「ええ、そうなんですか。」
とだけ答える伊藤さやかさん。
「ええ、それではそうしましょう。明日の一時、バラ公園のカフェでお会いしましょう。」
と、竹村さんは、慣れた手つきでそういうことを言った。
「そうですね。僕たちも、その時間にそこへ行きますから、じゃあ、竹村先生、それでお願いします。念のため、クライエントさんの名前を教えてくれると嬉しいですね。」
とジョチさんが言うと、竹村さんは、
「ええ、池冨さんと言います。池冨なつみさんです。」
と、言った。
「それでは、明日一時に、カフェで会いましょうか。」
と、ジョチさんは、そういって、手帳に一時にバラ公園カフェと書き込む。
何だか、二人の医者が、手術の予約を淡々と取っているような光景に見えたが、それこそ、体の手術ではなく、心の手術なのかもしれなかった。そして、心の手術というのは、非常に難しく、執刀医もいなければ、メスも、何もない。代わりにあるのは、周りの人間だけだということである。
「よし、それで行きましょう。」
竹村さんも合意した。
「あの、あたしは何をすればいいんでしょうか。」
と、伊藤さやかさんが聞く。
「ええ、あなたは、そのなつみさんと一緒に、泣いてくれればいいんだ。其れほど、彼女を何とかする薬というものはないからな。ただ、一緒に死のうというのだけはやめてくれよ。」
と、杉ちゃんが答えた。そうですね、と、周りの人間は、そういうことを言った。同業者と会わせるだけで、心がやんでいるのを直すのは、難しいと思うけど、それは、必要なことになるからである。
翌日。翌日も雨が降っていた。まあ、梅雨の季節だから、仕方ないのであるが、正常に季節が回ってくれてうれしいという人のほうが、多くなっている。杉ちゃんと伊藤さやかさんは、一時ぴったりに、バラ公園のカフェに行った。ジョチさんは、会議があるので、杉ちゃんが代理で行くと申し出た。ので、付き添いは杉ちゃん一人である。
一番奥の席に、竹村さんが座っていた。なつみさんという、吉永高校とは別の制服に身を包んだ彼女は、竹村さんの隣に座っている。竹村さんは、にこやかに笑って、
「伊藤さやかさんですね。こちらが池冨なつみさんです。あなたと同じように、心の内で悩んでいらっしゃる方です。」
と、さやかさんに彼女を紹介した。成功者に会わせるとなると、ある連鎖販売取引を売りとする企業の勧誘のように思えるのだが、それとはまた目的が違うのである。
「先生、私は、そういう意味で言ったんじゃないんです。」
と、竹村さんに、なつみさんはそういうことを言った。
「あたしは、先生にナイフで切りつけてしまったのは、あたしはただ、国公立大学とか、親の年収とか、そういう事で、自分の人生がめちゃくちゃになりたくなかっただけで。」
なつみさんは、そういう事を言った。
「それはどういう意味でしょうか。」
と竹村さんが聞くと、
「もう少し、私にナイフを向けた理由を聞かせてくれるとありがたいのですが。」
「私はただ、竹村先生が、私たちのことを、意思のない人間だとか、生きても意味がないとか、そういうことを話したから、一生懸命やっている人間もいると、示したかったんです。」
「そうですね。ここにいる、彼女もそういうことを言われて、傷ついている方です。」
と、竹村さんは、そういった。
「私たちは、学校の先生に言われたことを話さなければならないだけなんです。そうしないと学校は、つぶれてしまうことが多いから。学校の価値が、国公立に何人は言ったかで決まるなんて言う、変な定理がまかり通っていますからね。それを、大体の子は素通りしてしまうんですけど、中にはそれがうまくできない方もいらっしゃるんですよ。」
「でも、それを、作ったのは。」
と、なつみさんは、涙を流していった。
「ええ、それはわかります。それは、なつみさんの受け流す力でしょう。生きていくに一番必要なのは、経歴でも、肩書でもお金でもありません。力です。状況に耐えて、受け入れて、その通りに動く力です。順応する力です。」
と、竹村さんが言う。その発言は大変厳しいが、なつみさんは、その一部は理解しているような顔を示した。
「大丈夫だよ。」
と、杉ちゃんが言う。
「大丈夫だよ。誰でも、えらい人の言う通りに、動けるやつはいないよ。お前さんみたいに、勘違いしちゃうことだってあるんだよ。竹村さんだって、そのことはちゃんとわかってるさ。だからこそお前さんと伊藤さやかさんとを会わせたんじゃないのか。ちゃんと、物事には、責任があるって、竹村さんは示してくれたじゃないか。大人は、そりゃ、ひどいことも言わなくちゃならない時もあるさ。それに、お前さんが怒ったのも無理はないわ。だけど、こうして、ちゃんと償いをしようと思ってくれたんじゃないか。そこに気が付いてやってくれ。そして、伊藤さやかさんと二人で、一緒にやり直してくれ。それでいいんだよ。」
「私、、、。」
なつみさんは、涙を見せて、ボロボロと泣いた。
「泣いても、いいよ。泣いて、頭ん中、空っぽにしちまえよ。それで、新しいことを始めよう。」
と、杉ちゃんは、なつみさんの肩をたたいた。
「ずいぶんつらかったんですね。」
初めてさやかさんが口を開いた。
「私も、まだ結論は出ていないけど。」
さやかさんは、なつみさんの手をそっと握る。その手首は昨日縫合された傷を隠すかのように、包帯が巻かれていた。
「あなたも、悲しいことがあったんですか?」
と、なつみさんが聞くと、
「ええ、あたしも、学校の先生とか、家族なんかにひどいことをされてきているから。学校をやめて、これでやっと楽になれたかあと思ったけれど、今度は、近所の人の評価が変わってしまって、ただの親を困らせる悪者になっちゃった。あたしも、今こうやって、手首を切る始末よ。そういう人間になっちゃったの。」
と、さやかさんは、にこやかに言った。
「悩んでいるのは、私ばかりじゃないってわかって、今日はうれしいわ。」
伊藤さやかさんは、そういう風に言った。その言い方は、何とも西洋的な考え方だとおもった。でも、そういうことは仕方なかった。上の人が、いうことは絶対的だし、えらい人のいうことは、理屈がなくても正しいと思ってしまうのが、日本の文化だから。それに、まだまだ大人の中にはそれが正しいと思ってしまう人が多すぎる。そういう事で傷ついてしまう、若い人は多いだろうなと、杉ちゃんも竹村さんも思ってしまったようである。
「まあ、きっと、学校教育なんて、一番必要なことは教えてくれてないだろうな。学校なんて、ろくなもんじゃないぜ。」
「そうですね。確かに、彼女たちのような出会いは、学校ではありえない話ですよね。」
と、竹村さんも、杉ちゃんも、そういうことを言って、ふうとため息をついた。
本当は、心の治療のためには一番必要な行為なのだろうが、それを実現出来る確率は、ほぼゼロに近いのであった。
二人の女性たちは、お互いに学校の先生にされてきたひどいことを、話し合っている。外は、まだ、土砂降りの雨が降っているのだった。まるで、二人を容赦なくたたくように、降り続けた。雨が窓をたたく、たたく、、、。
雨 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます