女王

三崎伸太郎

第1話

女王   

三崎伸太郎


ある大手の自動車工場で、期間工員をしている田所国雄は、久し振りに京都へ向かった。

目的は、京都市美術館で開催されている「近代日本美術の歩み展」を観るためだった。

彼は二十代も半ば過ぎた青年だが根が楽天的に出来ているせいか、この歳になっても定職を持ったことが無い。 

しかし、今回は期間工員の仕事が六ヶ月契約なので、彼としては、まあやる気が出ている方なのだろう。勤まれば、の話だが。

京都に着くと田所は、まっすぐ美術館に行った。彼のような道楽者は不思議なことに、芸術などという不確定な要素を多分に含み持つものに、興味をそそられるらしい。

カネさえあれば、仕事をほっぽりだしても「芸術」と称する、色々な催しに顔を出すので、自然その道の通(つう)に成っている。

鑑賞力等も少しはついていて、時々学者めいたことを口走り、周囲の人達を驚かせたりする。結局、そんなことで彼の存在を特別視したりするから、本人は誠に都合が良いと、身勝手に考えてしまう。

どう言う訳か、この社会は、正常な者が定職を持たないことを割合に意識して警戒するからだ。彼は時々友人達に、

「僕は人間が違うんだ。君達には出来ないよ。僕じゃあないと、出来ない・・・」などと、分けのわからないようなことを自慢することがある。友人達は、聞くようなフリをして軽く流している。

田所は、なかなかよいやつなのに、少々突拍子も無い夢想的なことを言うからいけないと、噂をしている。

田所自身も、噂は知っているが別に気に留める様子はないし改める気配も無い。逆に友人達が仕事に疲れた時などに田所を思い出しては、

「あいつのように、気楽な・・・」などと羨ましくなることがあり、正常な社会にとっては、はなはだ迷惑な存在だ。

さて、美術館内に一歩を踏み入れた田所国雄は、先ず一枚の絵画の前に立った。

「読書」黒田清輝――流石に慣れていて、きちんと絵の面の対角線、二倍の位置に立って鑑賞する。

彼は、作品に対して特別批評めいた考えを持つ訳ではないが、絵の前からは容易に動かない。どうやら、作者の私生活に思いをはせているようだ。性格が卑しいのではない。視覚が作る表象の美よりも、隠された作者の苦闘を知りたいと、意外な考えを持っている。その苦闘も、創作に関するものではなく、日常生活に対する作者の苦闘であり、それが芸術作品を芸術たら占めている所以(ゆえん)だと、決め付けている。

だから、田所は気に入った芸術作品を見つけたりすると興信所のように調査を行い、作者と作品とを照らし合わせてみることを唯一の趣味にしていた。

「絵」は、文部省の教育を受けた誰でもが知っている余りにも有名な作品ばかりだ。少々ヘソマガリと言って差し支えない田所は、なかばあくびが出そうな気持ちで、それでも道楽者の心理からか執拗に作品群を追い求めた。

やがて、時代分けにしてある各部屋を二間(にけん)ほど通り過ぎた時「彫像」が展示してあるコーナーの、一点の像が目を引いた。ロダンに影響をうけた彫刻家の多い、大正時代の作品のなかに置いては、珍しいほどの滑らかな仕上げで仏像彫刻を思わせ、田所は弥勒菩薩を思った。

作品名は「湯の花」。女の等身大の立像で、豊かな腰や胸は、ブロンズ像ながら男の欲情をそそるほどの肉体的なできばえだ。おもむろに腰に力を抜いたあたりに、微かに肉の窪みの線が走っている。それが又妙な色気をかもし出していた。

像は、湯桶を両手でかかげ左乳房の上に振りかざし、そこから流れ出た湯は大腿部を通り下に落ちている。その湯の流れだけが荒削りに仕上がっていて、女の肌にまとわりついている。彫刻における重く、冷たく、静寂すぎる欠点をカバーして、立像に躍動感を与えていた。生命の気配さえ感じるほどだ。

田所は「湯の花」の像が気に入った。彼は内ポケットより手帳を取り出すと「湯の花。山吹一郎 1913」と、書き込んだ。彼は再び像を見上げると、満足そうに微笑し、ゆっくりと次の間に足を運んだ。

後の作品は軽く鑑賞して流した。退屈にもなってきたので、何となく美術館の裏庭に出てみた。

一群れの小学生達が未だ何も描かれていない画用紙を手にして、美術館の職員らしい男から何かの説明を受けていた。

初夏の良い天気で、真っ白い画用紙がキラキラと光っている。観光客風の二、三の外人が珍しそうに眺めている。

田所は、その脇を通り抜けると、小さな池にかかっている橋を渡って、裏門の方に歩いた。

名は知らないが広葉樹が金網の塀に沿って点々と植えられている。木々は、既にほんのりと色づき、変に気持ちを高ぶらせた。

良い香りが鼻を突いた。金木犀の香り・・・思わず辺りを見渡すと、オレンジ色の小粒の花が見えてきた。彼は、近くにあったコンクリート・ブロックの花壇の端に腰を落とすと、大きなあくびとともに小さく背伸びした。

気持ちも少し落ち着いて・・・・・・ふと、一点に神経が集中した。アリの巣の出入口らしいものが秋の光を吸収してぽかりと黒い穴になっている。

アリが一匹、土の塊を運んで来て、穴の入り口に置いていった。良く見ると、周囲にもアリが忙しそうに働いている。

その中の一匹と、一瞬目があったような気がしたが――、

「おい、そこのデッカイの。何をしているんだ。働かなければ、なるまい? 冬が其処(そこ)まで来ているんだ」

田所は、自分に対する変な呼びかけに少々とまどって「だれのこと?」と、聞いてみた。

「お前だよ」

「オマエって、ぼく?」

「そうだ。お前しか、いないじゃないか」

「ぼくは、今日は休みだ・・・・・・」

「えっ? 冗談、よくないねえ。アリに冬まで休みがあるわけがない」

「アリ? ば、ばかを言うな! ぼくは、アリなんかじゃない。人間だ」

「へえ・・・・・・。そんな人間がありましたかねえ?」

「な、何だと! ばかにするな。ぼくは・・・」と、身体を一瞥すると、まさしくぼくはアリだった――。

「ぼくは・・・? ぼくは・・・アリだ・・・」

「当たり前じゃないか。付いて来なさい。これから、女王様の宮殿の拡張だ」

仕方ないので、その変な訛りのあるアリに付いて行くと、立派なトンネルの入り口がある。

「これ・・・アリの穴?」

「なにを、ブツクサ言ってるのかね?」

「これ、アリの穴・・・」

「あたりまえじゃないか。モグラの穴とでも思ったのか?」

「い、いや。あまり立派なので・・・」

「まあね。今度の技師は、なかなか優秀で腕がよいようだな。実は、私も満足しているんだ」

穴の中は、意外に明るかった。トンネルの入口から少し入った場所に、門番が立っている。

田所に付いて来いと言ったアリは、位の高いアリのようだ。二、三の門番アリが出てきて「ルピ閣下に敬礼!」と、兵隊のような礼をした、

「ごくろうさん」

その、ルピ閣下と呼ばれたアリは、片足? いや、片手をあげて挨拶し、田所を従えてどんどんと中のほうへ入って行く。

ステーションのような場所まで来ると、アリの閣下は、壁に取り付けてある何かのボタンを操作した。すると、何処とも無く繭型(まゆがた)の乗物らしいものが現れた。しかし、窓も乗車口も無い。

「さあ、乗って」ルピ閣下がまごまごしている田所に言った。

「――どうやって?」

「ああ・・・・・・何も知らないのだねえ。そこに、丸いしるしがあるだろう? そこに手を当てれば、ドアは開くよ」

「わ、わかった。分った・・・」

田所はとまどいながら,小さな丸い印に手を持って言った、スーと、ドアらしきものが開いた。驚いたが、それでもぎこちなく中の座席のようなものに腰を落とすと、ルピ閣下も乗ってきた。

前面の下段あたりに、なにやら英語に似ているけれども英語でなく又、フランス語やドイツ語でもない、田所の知識では理解できないような文字が丁寧に並んでいる。

ルピ閣下は、その文字の列から少し離れて、特殊な色で書いてある文字の下のほうを、手で軽く触れた。すると車は、いや、車輪が無いのだから車ではなく、なんと言ったらよいのか一応「乗物」としておくと、乗物はゆっくり動き始めた――と、思うまもなく、壁に向かって衝突しようとするではないか!

「アッ! アブナイ!」

「・・・・・・」ルピ閣下は平然としている。

「あぶない!」

田所は、ルピ閣下の方を見て前方を指差し、目を大きく見開き、大声でわめいた。

「――何を騒いでいるのだね?」

「ぶ、ぶつかる!」

「あたりまえじゃないか。そこを通って行くのだから」

「カベ・・・・・・ぶつかる・・・・・・当たり前?」

「そうだ。当たり前だから、そう興奮して騒ぎなさんな」

目の前にカベが来た。田所は「ナムサン!」(南無三)などと、思わず俗語をつぶやき、目をつむると座席にしがみついた。

――何事も起こらなかった。恐る恐る目を開けてみると、乗物は広場のようなところを進んでいる。ゆっくりとした速さで時速三十キロ・メーター程だろうか。

田所はやれやれと安堵したが、それも束の間で乗物の前に人、いや、アリが一匹。

「ぶ、ぶつかる!」

「ああ! うるさいなあ。静かにしてくれないか」

ルピ閣下は、平然としたものだ。前方のアリも避(さ)けようとはしない。

(自殺だ! この乗物の前に飛び込んで自殺するつもりだ!)と、田所が思うや否や乗物はスーと、そのアリを通り抜けた。

「――? どうして? 不思議だ・・・・・・ぶつからなかったなあ・・・」

「ハッハッハ。君は、なかなか面白いありだねえ。ずいぶん田舎から出てきたと見える」

「だって、そうでしょう。あれが普通であれば、死んでいるよ」

「ワッ! ハッハハハ、ハァ」

ルピ閣下は変な調子で腹を抱えて笑った。

「本当に何も知らんのだねえ、君は。教えてあげよう。簡単言うと、この乗物は物体の分子間の間に隙間を作り、自体とここにいる私達を物質粒子に変化させて通過する能力を持っているのだ。座席にいる私達には、普通に物の形が見えるけれども、外からこれを見ても透明で見えないのだよ。この乗り物が発明されて、既に百年にはなる」

――これは、一体どういうことなのだろう。アリの世界が人間の世界よりも科学が進んでいたなんて・・・・・・田所は、信じられないという風にあたりの景色を眺めた。

過去の経験が交錯して甦ってくる。ふと、グリム童話の「アリとキリギリス」を思い出した。

「――閣下。一つ、突拍子も無いこと質問してよいですか?」

田所は、悪戯を思いついた子供のような気持ちで、隣席のルピ閣下に話しかけた。

「ああ、かまわんよ」

「閣下は『アリとキリギリス』という、人間界の童話を知っていますか?」

「ああ・・・」

「あれ、どう思います?」

「ああ、あれねえ・・・・・・又、変なことを質問するねえ。人間界の『ドウワ』か・・・・・正直、アレはなかなか良いものだね。しかし、わが国とキリギリス国との関係は、もう少し複雑だったのだよ。君も歴史で習ったと思うが五百年ほど前に両国は、主義思想の相違から戦争をしていたのだからねえ。幼稚な理性しか持っていなかったのだなあ――戦争愛好型のアリがいてね。『戦争こそ、アリの能力を最大限い発揮させられる偉大な営みで、それはアリの営みであるが、いわゆるアリ味の低さに置いてでなく、高い精神の高揚において始めてなされる』などど言ってね。『精神』の意味を十分に理解できず、理屈付けしていたんだねえ。今では考えられないことさ。しかし、実際に戦っていたのは一部のアリとキリギリスだったんだ。他は童話にもあるように、お互いに助けたり助けられたりで大変仲が良かったのだよ。――童話に出てきた、あのキリギリスね、名前はなんと言ったかな・・・・・・ちょっと思い出せないが彼は後に有名な音楽家になって、数々の天才的な名曲を残したし、彼をもてなした家からは立派な政治家が出てアリの文化の発展に寄与した・・・・・・学校で習っただろう? そこで、私は常に心に留めているのだが『おもいやり』こそ大切なことだ」

「『思いやり』ですか・・・・・・はあ、なるほど、思いやりねえ」田所が変に感激して首を振って納得していると、乗物は再びステーションのような場所に止まり、ドアが音も無く開いた。

「さあ、着いた。降りて」

言われるままに座席から離れて乗物の外に出ると、周囲は水晶のように透き通った壁で、青白い光を受けて一面に輝いている。

「わっ、きれいだな!」

「そうかね・・・」

ルピ閣下は、満足そうに二三度頷くと、

「君のように美的感覚の鋭いアリは、数少ない。きっと、君は女王様に気に入られるだろう」しげしげと田所を見て言った。

やがて、二三の角を過ぎると大広間のような場所に出た。そこは一層、田所を驚かせた。

中央に、滾々(こんこん)と湧き出ている泉を取巻いて、数多くの素晴らしい彫像が立ち並んでいる。それらがある種の光を受けて輝いている様は、まさに神秘そのものであり、見ていると涙さえ出てきた。

「おや? 君は泣くことが出来るのだねえ。まったく、珍しい。いや、原始的感覚が鋭いのかも・・・・・・それとも、突然変異かな? いや、まったく、珍しい・・・」

ルピ閣下は大げさな身振りで感心すると、

「昔はね。物事に感動して涙を流すことの出来るアリも、沢山いたらしいが・・・・・・」と言い、太いため息をついた。そして、田所に向かって手を上げると彼の歩みを止めた。

「君は、ここでしばらく待っていてくれたまえ。ちょっと野暮用を思い出したから。あっ、そうだ。君の名前を聞くのを忘れていた。名前は?」

「えっ?」

「名前だよ・・・なまえ」

「あ、名前ね――田所国雄」

「なに?」

「田所国雄」

「タドコロクニオ・・・何だい、それは」

「――名前」

「ハハハハハ、本当に君は面白いアリだ。歴史の本で習ったような、古い時代の名前を持っているのか・・・・・・ハハハ。愉快だ。いや、まったく愉快・・・・・・でも、止したまえ。君、ここはアリの国でも、最も文化の進んだ国なんだ。若し、君がその名前を気に入っていてもだね、その・・・数百年も昔の名前は、少々滑稽だ。おそらく、君の父親が芸術家かなんかで変人だったのだろう。ふざけてつけた名前に違いない。変えたまえ変えたまえ。そうだ。何なら、私が名付けてやってもいい・・・」

「―――」

「私の一字を取って『ピル』は、どうだ・・・・・・どうだい? 『ピル』。いい名前じゃあないか」

「エッ? ピル?」

「そう。ピル」

「――どこかで聞いた言葉だなあ、何か、こうワイセツな感じがするなあ。何か、エロティックな・・・・・・」

「何をブツブツ言っているのだ。もう決めたよ。君は今から『ピル』だ。分ったね、ピル」

「ま、いいです。ピルでいい」

「よし。では、ピル君。ここで待っていてくれたまえ」

ルピ閣下はこう言うと、ホールの角を曲がって姿を消した。後に残された田所は、いやアリ名でピル君は、一人、いや一匹になると急に心細くなって来て、泉の脇に腰を落としたが、どうも落ち着けない。のどが渇いていたので、水を飲もうと泉に顔を近づけた。すると、水面(みなも)にアリの顔が映った。別に、驚きもしなかったし疑問にも思わなかったが少々可笑しかった。

焦点の定まらないような大きい目と、黒い顔のバランスが取れてなくて、顎がいやに大きいのだ。

(変な顔だ・・・・・・)ピルは水面を見つめながら思った。

(自分は人間だったようにも思うが・・・多分、夢でも見ていたに違いない。それより、ルピ閣下は何処に行ったのだろう。あの閣下は、なかなか地位の高いアリのようだ。そんなアリと知り会えたなんて、ぼくはなんと運がいいんだ。世の中、一匹の力なんてたかが知れている。やはり、高い地位にあるアリに認められることが出世の近道だ・・・・・・あれ、ぼくは一体どうしたんだ。このように卑しい考えを持つなんて。先ほどまでの澄んだ気持ちは、どうなった――まてよ。やはり、ぼくは人間だったのかもしれない。人間なら、卑しい考えが出来るというのか。いや、別にそんなこともあるまいが何か喉に異物が詰まったような感じで、記憶の中がざわめいている。確に、ぼくは人間の世界で働いていたような・・・・・夢だったのかなあ。何か、光るもの。銀色のもの。そのものの流れ・・・動くもの、動くもの。そうだ! 自動車だ! ぼくは、自動車工場で働いていたんだ。高い煙突のある、大きな工場の薄暗い場所。銀色に鈍く光っている鉄板を組み合わせて、一つの車体に仕上げる仕事――思い出した。思い出したぞ! ぼくは、人間だったんだ・・・・・・)

「――何を考えているんだ?」

いつの間にか、ルピ閣下が戻って来ていた。

「いや・・・少々、昔のことを・・・」

「そうかね。しかし、時制概念に自分を当てはめる時は、要注意だよ。何か深刻な悩みかね?」

「別に、大したことではないんですが・・・・・・自分は、人間だった――と、思えたわけです。それで、思い出せるんです・・・・・・はっきりと、自分は人間だったと。工員でした・・・・・・」

「フム・・・・・・。ニンゲン、ねえ・・・。良いではないか。君は人間だったかもしれない。だが、今はアリだ。過去よりも現在が大切だ。現在を大切にすれば、過去は良い思いでとなる――少々、俗な言葉だったかね? ハハハハ。まあ、良い。さあ、行こうか」

ルピ閣下とピルは、再びステーションで、乗物に乗った。

(ステーション――駅。駅・・・・・・そうだ。ぼくは、あの人ごみが嫌いだった)

ピルの記憶に、人間に関することが少しづつ想起してくる。

(雨の日のプラット・ホーム・・・灰暗色の雰囲気。コンクリートの水溜りに、雨滴の波紋が広がっては消えて行く。レイン・コート、傘・・・・・・。電車の客室には、さまざまな宣伝文句 “今、喜びのプレリュード。あなたの一番街” ――あのようなものは

一体、何だったのだろう?)

――ふと、ピルは自分の頭に何かが触れているような感覚に、我に返った。

見ると、ルピ閣下の頭から出ている触覚の一部がピルの頭にピタリとくっ付いている。

「――なかなか、面白いことを想像することが趣味のようだね。君は」

「エッ? 僕の考えていることが分るのですか?」

「当然だ」

「恥ずかしいな・・・・・・でも、どうして?」

「これだよ。これ」と、ルピ閣下は自分の触覚を指で示して「当然だ」と、繰り返した。

「わあ、恥ずかしいなあ。びっくりした。しかし、それはプライバシーの侵害ですよ・・・それは」

ピルは、少々顔を赤らめながら憤慨して見せた。

「何を言っているんだ。しごく当然のことではないか。それより、なんだい? その『プライバシー』とかいうのは?」

「いや、その・・・くわしくは知らないのですが私生活や個人の秘密のことらしいです」

「フム・・・個人、秘密・・・か。それらの言葉が存在する理由は、何だね?」

「個人の秘密ですか?」

「そう」

「それは・・・その、なんですよ。つまり・・・・・・」

「なんだ。そく、まとまりがつかないもなのかね?」

「いや、ぼくは勉強不足で・・・・・・」

「勉強?その勉強不足だと、分らないのかね?」

「いや、その・・・」

「しっかりしたまえ。まったく、君の思考は人間に近い。本当に、君は人間の生まれ変わりなのかもしれないな・・・・・・」とルピ閣下は言い、腕を組むと言葉を続けた。

「――人間の理論は朦朧としていて、現実には役に立たない。それに従って行動すれば必ず疑問が応じて来て、自己暗示による確信が必要になってくる。結局、それを待っているのは後悔だ。だから人間は、時制概念等も執拗に意識する」

「――――」

「さて、着いた。降りよう」

ルピ閣下とピルは、乗物から降りると歩き始めた。あたりは、先程の青みがかった色から白っぽい色に変わったが水晶のような壁は、相変わらず続いている。行き交うアリが少しづつ多くなって来た。

どうやら、繁華街に出たようだ。通りに面した何の変哲も無いのっぺりした壁に丸い穴が開閉するたび、色々なアリが忙しそうに出入りしている。それは、あちこちに見られる。

ルピ閣下とルピは、一つの壁を前にして立った。

――丸い穴が音も無く開き、中にいた数匹のアリが二匹に注目した。

「これは、ルピ閣下! ようこそ」

一匹のでっぷり太ったアリが愛想良く近づいてくると、丁寧に挨拶した。

「やあ、ラア君。久し振りだ。元気だったかね?」

「はッ、おかげさまで」

「うむ。結構、結構」

「今日は、何か急用でございますでしょうか?」

「いや、何・・・ちょっと、女王に用があってきたんだが・・・途中、田舎のアリに出会ってね。どうも、仕事を持っていないようだから、宮殿の拡張工事をやらせようと思う」

「左様でございますか。では、工事の責任者を呼びましょう」

「たのむよ。だが、その前にこのアリの身分証明書を作成してやってくれないか」

「承知いたしました」

ラアと呼ばれるアリは、うやうやしく答えると机に向かった。

ルピ閣下は、後ろを振り返ると恐縮して立っているピルに「ピル君。こちらに来て座りたまえ。これから君の書類を作成するからね」と言い、自分も近くの椅子に腰を落とした。

ピルは、恐る恐るラアの机の前に座った。

「名前は?」

「ピル・・・」ルピ閣下につけてもらった名前を言った。

「ピルか。住所は?」

「――住所? 住所は、大阪府池田市・・・」

「ちょっと、待ちなさい。へんなことを言わないで、まじめに答えなさい」

「では、京都市左京区岩倉・・・」

「ちょ、ちょっと待ちなさい。ふざけてはいけない」

ラアは、困惑顔でピルを制した。

「どうだ。面白いアリだろうが。変なことばかり言うんだよ。なかなか人間界のことにもくわしい。疲れていて、思考に乱れがあるのかも知れないから、記憶再生機を使って書類を作成したまえ」ルピ閣下が言った。

「そうですか・・・では、ピル君。こちらの椅子に移ってくれるかね?」

ピルは、言われるままに変な、しかし座り心地の良い椅子に座ると、頭上から透明なカプセルが降りてきて、身体を覆った。と、同時に眠くなって来て――やがて「起きたまえ」という声に目が覚めた。

カプセルがするすると上がって行く。

ラアの机のスクリーンに、変な文字が映し出されている。

ラアは、それを見て、当惑していた。

「このアリは、たしかに異常ですね。これを見てください」と、ルピ閣下に向かって言い、スクリーンを指差した。

「どれどれ・・・何だ? 『頭脳、混乱、解読不能』・・・フム、故障かね?」

「いえ。正常に働きました」

「ふうむ・・・・・変だなあ・・・・・・まさか、記憶再生機の出入力調整組織に、例の欠陥品を使用しているのではあるまいね」

「そのような事は有りません。当局では、人間の脳の欠陥が国会で指摘されてから一度も使用しておりません。しかも、先だって像の脳から鯨の脳に変えたばかりです」

「クジラかあ・・・最新のものだね」

「はい。人間の脳の時に比べれば、格段の進歩です。アレは、まったく当てになりませんでした・・・・・・」ラアは、深いため息をついた。

「そうか。では、仕方あるまい。ピル君は、私が保証しょう。別に、悪いアリでもなさそうだ。拡張工事に従事できる許可書を作成してやりたまえ」

「はい、かしこまりました」

ラアは、自分の頭の触覚を机の上に出たアンテナのようなモノに当てると、何かを始めた。どうやら、許可書のための書類を作成しているらしい、スクリーンに文字が現れたり消えたりしている。

その時、部屋の奥の壁に丸い穴が開き、小柄だががっちりした体形のアリが入って来た。ルピ閣下を認めると、うやうやしく礼をして「何か、私に御用でしょうか?」と、問いかけた。

「うむ。ルイ君。今日は、君に頼みたいことがあるのだが・・・・・・」

「何なりと、お申し付け下さい」

「実は、私の気に入ったアリを一匹連れてきたので、宮殿の拡張工事に使ってやって欲しいのだ」

「かしこまりました」

「名前は『ピル』だ。今、ラアくんが彼の作業証明書を作成しているので、終わったら君の現場で働かせてやりたまえ」

「承知しました」

「ところで、ルイ君。工事は順調に進んでいるかね?」

「順調です。予定より十日ほども進んでおります」

「そうか、そうか」ルピ閣下は満足そうに頷いた。

やがて、ピルの「作業許可証」が出来上がった。

「では、ピル君。頑張りたまえ」

ルピ閣下の励ましの言葉に、ピルは半ば目を白黒させて「どうもどうも・・・・・・」と答えると,ルイと一緒に部屋を出た。

今度の通りは、薄茶色で体格の良いアリたちが右往左往している。

ルイと呼ばれるアリは、不安そうにキョロキョロしているピルを乗物に乗せると、しばらく進んだ。

やがて、周囲の色が少しづつ濃くなってきて焦げ茶色に変わったころ、乗物は止まった。

そこは、半円の断面をしたトンネルの工事現場のようだった。

二十匹程のアリ達が働いているのが見えた。乗物から降りて辺りを良く見ると、ところどころに土が露出している。

ピルは、再び肉体労働に従事しなければならないのかと思うと、少々うんざりした気分になった。

しかし、アリ達は人間界のトンネル工事のように、一部にスコップやツルハシを使っているわけではなさそうだ。暗さや工事の雑然さ又、騒音なども全くないし、機械のようなモノも見当たらない。辺りに土や石が散在していないのも不思議だ。ただ――形と大きさがバスケット・ボールやラクビー・ボールに似たものが一箇所に集められている。

ピルは、作業しているアリたちに近づいて見た。

彼らは、土の表面に対してお尻を向け、そのお尻からクリーム色の液体を細い線の感じで瞬間的に飛ばしている。土に液体が当ると、解けたように小さな穴が開き、切断面は透明な膜によって覆われた。

それを続けて丸く切り抜き、手を掛けて引き抜くと、再びお尻から液体を飛ばして球状にする。その形にするには、なかなか技術がいるようだ。熟練アリの方が丸みが確実で、若い不慣れなアリはラクビー・ボールのようになっている。

「ピル君! こちらに来て」

ルイが手招きしてピルを呼んだ。彼は、手にしたチョークで土の表面に何かの印をつけている。ピルは、歩いて近寄った。

「では、ピル君。ここに、白い印つけてあるだろう? この点から、この線に沿って穴を開けて行ってくれるか・・・・・・いや、何、たいして技術は必要としない。このように――」

ルイは、自分のお尻を土に向けると液体を放出して手本を見せた。

「――と、まあ、このようにやるんだ。さ、やってごらん」

ピルは、言われたとおり印のついている土の表面にお尻を向けたが肝心の液体が出てこない。

「ウウム・・・・・・」ピルは力(りき)んでみた。

「どうした?」

ルイが心配そうに、ピルの顔を覗き込んだ。

「ウウムムム・・・・・・ウム、出ません」

「えっ? 出ない?」

「はい・・・」

「そりゃあ、変だ。食事は取ったのかね?」

「別に、空腹とも感じませんが・・・・・・」

「身体の具合は? 風邪を引いているとか」

「いや、そんなことはないです」

「おかしいなあ・・・・・・簡単なことなんだが・・・・・・精神を集中できないのかな。それとも君は『働きアリ』に属していないのかもしれない。しかし、体形は間違いなく『働きアリ』だよ・・・・・・全く変だ。本当に出ないのか?」

「では、もう一度やってみます」

ピルは土にお尻をむけると、再び力(りき)んでみたが――やはり、何も出ない。

「――出ません」

「出ないかね・・・・・・困ったねえ・・・・・・仕方ない。一度、体形課にいって身体検査を受けてみなくてはねえ・・・・・・異常体質かも知れない。まあ、気にすることはないよ。すぐに、他の仕事が見つかるさ」

ルイは、落胆しているピルの肩を軽く叩いてなぐさめると、彼を体形課というところに連れて行った。

そこはちょっと変わった部屋で、青とピンクと茶、そして白色に塗り分けられた壁に取り囲まれている。

神経質そうなアリが出てきた。

「どうしました?」

ルイは、ピルの背を押して前に進めた。

「このありの身体検査をお願いします。名前は『ピル』と言いますが『仕事液』が出ないのです」と、説明した。

「作業許可書は?」神経質そうなアリは、特別大きい目でじっとピルを見て言った。

「持っています・・・・・」

ピルが「許可証」を取り出して見せると、彼は「では、こちらに来てください」と言い、自分から先に立って歩き始めた。そして、部屋の中央部にある床より少し高い円形の台に近寄り台を手で動かして「この上に乗ってくくれますか?」と、言った。

ピルは、恐る恐る台の上に乗った。すると、体が硬直して動かなくなり、台がゆっくりと動き始めた。何処からか微かに音楽も聞こえてくる。

(まるで、人間世界のオルゴールのようだな・・・・・・回転台には、踊子(おどりこ)ならぬアリがとぼけ顔で乗っていて、音楽と共にクルリクルリと回っている・・・ああ、哀れだ・・・)と、ピルが思った時、数回転した台は止まり、身体も自由を取り戻した。

神経質そうなアリは、年老いた風采の上がらないアリを連れてくると、ピルを指差して言った。

「――このような、まったく『働きアリ』の体形なのですがユン先生はどう思われますか? もちろん、体形分析のデーターでは『働きアリ』でした。ところが・・・・・・」話の最後の方は、声を落としてピルには聞こえなかった。

うなずきながら話を聞いていたユン先生と呼ばれているアリは、チョコチョコとピルに近寄り見上げるように一瞥して言った。

「ふうむ・・・・・・コホコホッと、軽い咳などもして気味が悪い。

「コ、コホン・・・失礼。このアリの身体内部を映してくれ・・・コホン」

床の一部が傾斜して上がりスクリーンになった。そこに、ピルの身体の内部がX線を投射されたようカラーで鮮やかに映し出された。

ユン先生は、それらを熱心に眺めると、面白そうに一点を指差した。

「――この生殖器の部分が異常に発達して、仕事液のタンクを圧迫しているようじゃ・・・・・・つまり、このアリは『働きアリ』の種に属していながらも『生殖活動』が出来ると言う、きわめて珍しいアリじゃ。ま、何だな、コホン。仕事よりも快楽を好む性質を有しておるわけじゃな。フッフ、フフフ。色彩反応テストをやってみたまえ」

ピルは大から降ろされると、茶色の壁の前に立たされ壁を見つめるようにと指示された。

そして、二十秒ほどすると青い壁の前に立たされた。次には白、ピンクと移った。

「――どうじゃ? 色彩反応は?」

ユン先生は、机の上で何かを操作している神経質そうなアリに尋ねた。

「はあ・・・・・それが、不思議ですねえ。感情機能、思考機能、感覚機能、直感機能には特別に異常は認められませんが現実的な反応、つまり茶系における労働等に対しては無反応を示し、ピンクの生殖と青、白の芸術等には、かなり強く反応しました」

「――――?」

「やはり、突然変異なのでしょうか?」

「うん? いや、単なる怠けアリじゃろうの・・・・・・コホン」

「どういった診断をしましょうか?」

「『異常なし』でよいじゃろう」

「適正のある職種として、何を書いておきますか?」

「そうじゃのう・・・・・・一番強く反応する色はなんじゃ?」

「ピンクでした」

「だったら、宮殿にでも連れて行って、皿洗いなどさせたら良いじゃろう。コホン」

――という訳で、ピルは再びルイに連れられて宮殿に向かうことになった。

流石に「乗物」にも慣れてきて、余裕を持って辺りを見ることが出来る。ピルは、ハイキング気分で見知らぬ風景に見とれていた。

そして、周囲の色がピンクに変わってかなり広い場所に出た時、前方に覚えのあるアリの姿を認めた。

「あれ? あのアリはルピ閣下ではないですか?」隣席のルイに尋ねてみた。

「どれ、どれ・・・・・・近寄ってみよう」ルイは、不思議な操作をしてルピ閣下らしいありに近づいた。

やはり、ルピ閣下でブツブツ言いながら手を後ろ手にして歩いている。ルイは乗り物を止めた。

「ルピ閣下!」

ピルが後ろ姿に向かって呼ぶと、ルピ閣下は驚いたように振り返った。

「オオ、ピル君。一体どうしたのだね?」

ルイが申し訳なさそうにルピ閣下に近寄って、今までの経過を手短に説明した。

「――なるほど。それで、ユン先生はピル君を宮殿の皿洗いにきめたのか。ワッハッハ。それは、良い。実に愉快だ。まさに名案。では、私がピル君を連れて行こう。ルイ君、ごくろうだった」

ルイが乗物で去ると、ルピ閣下はポカンと残っていたピルを見て愉快そうに笑った。

「やはり、君は特殊なアリだね・・・・・・」

「『仕事液』とかが、出ないんです」

「仕事液か・・・・・・まあ、良いだろう。自分に出来ることをすれば良いのだよ」

「宮殿の『皿洗い』って、大変なんですか?」

ピルは、ルピ閣下の後について歩きながらたずねて見た。

「うん。かなりきつい仕事だろうね」

「かなり、ですか・・・・・・」

「経験はあるのかね?」

「ええ、まあ、少々・・・・・・しかし、最近は食器洗い機でやりますから、割合にラク(楽)と思いますが・・・」

「いや、宮殿では違う。最高級の食器だからね。手洗いだよ」

「手で・・・」

「なあに、一日で千枚ぐらいだろう」

「千枚!」

「どうかしたのかね?」

「少し、多いような気もしますが・・・・・・」

「二匹で、やっているようだよ」

「それでも、少し多いような・・・」

「大丈夫。気楽にやりたまえ」

「はあ・・・・・・」

ピルは、気が滅入って来た。しかし、ルピ閣下は歩きながら頭を二、三度前後に振ると困ったように言った。

「皿洗いの仕事は、希望者が多くてね」

「・・・・・・?」

「君は、まったく運の良いアリだ。田舎から出てきて、直ぐに宮殿で働くことが出来るんだからねえ」

「そんなに希望者が多いのですか?」

「そう。多い」

「どうしてです? 皿洗いなのに・・・・・・」

「女王様の『香り』をかぐことが出来るからね」

「女王様の香り? それ、何です?」

「言葉では、言い表せないよ。豊かな香りなんだ。もちろん、宮殿で働いても簡単に嗅ぐことは出来ん。しかし、皿洗いは食器を取り下げる仕事もする。その時に、女王様の香りを嗅げることがあるというわけさ」

「その香りを嗅いで、どうなんです?」

「どうって、君。幸福な気持ちになれるんだよ」

「それだけ?」

「それで、十分だろう? すばらしいことじゃあないか」

ルピ閣下は、ピルを振り返ると目を輝かせて言った。その時、一匹のスタイルの良いアリが近づいてくると「ルピ閣下」と、声をかけた。

「ん? おお、バロ君か」

「どちらへ?」

「このアリを連れて、料理人室へ行くところだ」

バロと呼ばれたアリは、チラリと見下すようにピルを見ると、

「そうですか。閣下は、相変わらず平民アリと仲が良いですな」と、言った。

「バロ君。貴族も平民もないよ。皆、平等だ」

「これは、失礼。ルピ閣下の持論を忘れておりました。では、私は、これで――」

バロは慇懃な礼をルピ閣下にすると、踵を返して歩き始めた。

(なんと、高慢なアリだ)と、ピルは思ったが去っていくバロの体形が今まで見てきたアリとは違うことに気づいた。彼の身体には羽のようなモノが付いている。

「ルピ閣下。あのアリは、何です? 羽が付いているじゃありませんか」

「ああ、彼ね・・・」

「どうしてです? 僕、付いていません」

「それは、君が『働きアリ』だからだよ」

「じゃ、彼は?」

「彼は、雄アリ・・・・・・貴族等と言っているが・・・・・・困ったものだ」

「彼は、空を飛べるのですか?」

「ウム・・・・・・年に一度だけ、飛ぶ」

「どうして、一度だけなんです?」

「規則だからね。そんなことより、見たまえ。あそこが宮殿だ。君の行った工事現場は、丁度この宮殿の裏側になる」

ルピ閣下の指差す方向に、美しいピンク色の大きい穴がエロチックに見えている。それは、桃色珊瑚で作った龍穴の置物のように、ヴァギナ・シンボルを思わせた。

ピルは、ルピ閣下に従って神妙な気持ちで龍穴の入口に近づいたが門番はいなかった。その代わり、穴全体が薄い透明な膜で覆われている。ルピ閣下は、入口の横にある球状の突起物に自分の触覚を当てた。すると、突起物は赤く光り始め、透明な膜はゆっくりと消えて行った。

穴の中に入って行くと、床や壁はやや赤味がかった珊瑚色で艶々と光っている。表面は、厚さ十センチほどの透明な膜で覆われていた。歩いていると空中を浮遊しているような錯覚を起こした。奥のほうは薄ぼんやりとしか見えない。

しばらく歩いた頃、微かに心地よい香りがして来た。ピルは、神聖な場所にいる思いがして、ルピ閣下に小声で聞いてみた。

「――この香りは、女王様のですか?」

「いや、違う・・・」

「まるで、異次元にいるみたいですねえ・・・・・・」

「平和な場所だからね。さて、着いた」

ルピ閣下は立ち止まると、食器のようなマークのある壁の一部を手で触れた。穴が開き、小さめのトンネルが現れた。

中に入って行くと、左手の方に大きい調理場があって十匹ほどのアリが働いている。トンネルの突き当りが事務所で二三匹のアリがいた。ルピ閣下の突然の来訪に驚いたようだ。皆一斉に立ち上がると、丁寧に挨拶をした。

そして、ルピ閣下から話を聞いた一匹のアリが手早く書類を作成して、ピルを宮殿の皿洗いに採用した。

「では、ピル君。頑張りたまえ」

ルピ閣下は、ピルの仕事が宮殿の拡張工事に決まったように、簡単なねぎらいの言葉をかけただけで立ち去ろうとした。

ピルは少々不安になって「ち、ちょと閣下。ぼくは一体、どうなるのです?」と、分りきったことを問いかけた。

すると、傍にいた一匹の小柄なアリが「大丈夫。皿洗いは誰にでも出来る」と、屈託の無い表情で言った。

「そういうことだ、ピル君。頑張りたまえ」ルピ閣下は、再び同じようなことを言うと歩き出し、アリ達の挨拶に答えながら帰って行った。

「君は、ルピ閣下とどういう知り合いだね?」

「えっ? 単なる知り合いですけど」

「へえ・・・」

「あの閣下、どんなアリなのですか?」

「どんなアリって?」

「位が高いとか、金持とか、有名な俳優とかですけど」

「えっ? 君は知らなかったのかい?」

「何をですかあ?」ピルは間抜け面で聞き返した。

「あの方は、わが国の首相だよ」

「『首相』・・・。政治家の・・・アリの国の」

「そう。君は変なアリだねえ。自分の国の首相を知らなかったなんて」

「いや、その・・・・・・外国に行っていましたから」

「どこに?」

「人間の世界です」

「『人間の世界』と、君は言ったかい?」

「ええ・・・」

「まあ、どうしてだね? あんな野蛮な世界に行ってたなんて・・・・・・よく、生きて帰ってこれたねえ」太ったアリは、驚いてピルをまじまじと見た。

「意外と平和でしたよ」

「平和? 人間の世界が平和? 原子力発電所などを建設して放射性物質をばら撒くし、化学兵器を使用して思想や宗教の違いだけで戦争はするし――いざこざが耐えないそうじゃあないか。それでも、平和かねえ・・・・・・」

「そういえば、少し暴力沙汰も多かったなあ・・・」「なっ、そうだろう? 要するに人間の世界は、科学文化に人間の理性が追いついていないのだよ」

「ああ、それは言えますねえ。人間は、自分達の科学技術に陶酔して機械体系に頼りすぎていますよ。いわば、盲目的な機械信仰の世界です」

「そうだろうね。しかし、君。無事にアリの世界に帰ってこれてよかったじゃあないか」

「えっ? ええ・・・まあ、ハハハ」

「いやあ、よかったよかった」

太ったアリは、頷きながら自分のことのように喜んだ。

そして、思い出したようにピルと連れて調理場に行くと、一匹の皿洗いアリに紹介した。

「――仕事は、簡単です」気のよさそうな皿洗いアリが言った。

彼は、ピルに仕事の内容を一通り説明し「未だ、二時間ぐらい休み時間が残っているんですよ。オレ、ちょっと用事で宮殿の外に出てきますから、適当に休んでいてください」と、付け加えた。

「何処で、休めるんですか?」

ピルが辺りをキョロキョロと見渡して皿洗いにたずねると、彼は近くのトンネルの出入り口を指差した。

「そこから、バラ園にいけますよ」「どうも・・・」

ピルは、トンネルに入って行った。

やや狭くて薄暗いピンク色のトンネルは、暖かく湿気があり、とても気持ちよく感じた。

一匹で歩いていると、自分が単に一方向にのみ進行する単細胞のようにも思えてくる。

彼は、ゆっくりと歩いた。やがて、トンネルは右の方に曲がって来た。遠くが明るく見えている。

ピルは、光に誘われるように外に出ると、思わず目を見張った。

そこは、かなり広い空間で色とりどりのバラが一面に咲き乱れていた。周囲にはバラの香りが充満し、短い芝生に囲まれたバラ園のところどころには、すばらしい彫像が立っている。

(ユートピアだ)と、ピルは思った。

ふと、やわらかい光が気になって上の方を見上げると、深みのある空間に光沢のある球状物が浮いている。

それは丁度、鳥の卵から殻を取り除いたような形をしている。

球状物は、中の黄色い部分が収縮拡大を繰り返すたびに光った。

ピルは、神秘としか言いようの無い光景に深い感動を覚えた。彼は二三度深呼吸をしてから、バラ園に入って行った。

そして、彫像の一つ一つを鑑賞して周り、一時間ほども経っただろうか。一群の鮮やかな白いバラの中に、見覚えのある彫像を見つけた。

「『湯の花』の像だ!」ピルは思わず声を上げた。

薄い衣を身にまとった等身大の立像は、人間に近い姿をしている。否、間違いなく人間だった。ポーズは少し違うがピルの記憶に残っている山吹一郎の作品「湯の花」の像に瓜二つだ。

(一体、どういうことだろうか? アリの世界に人間の像があるなんて・・・・・・ぼくは。やはり夢を見ているのだろうか?)

ピルは、目をパチパチさせながら呆然と像を眺めた。何処から見ても、間違いなく人間の像であり又「湯の花」の像だった。

(本当に不思議だ・・・・・・)ピルは腕を組んで考え込んだ。

その時、背後から「こら!そこで何をしている!」と、声がした。

振り返ってみると、先程ルピ閣下と一緒に宮殿の前で出会ったバロというアリが立っていた。

「やあ、バロさん」

「なんだ。先程の『平民アリ』か・・・・・・ここで、何をしている?」

「ちょっと、像を鑑賞していますが・・・何か?」

「女王様の像の花壇に入ることは、固く禁じられているはずだぞ」

「女王?」

「そうだ。さあ、出ろ、出ろ!」

ピルは、白いバラの花壇から追い出された。

「そもそも、平民アリがバラ園に入ることを許されているのがおかしい」と、バロは言い放った。ピルは少し腹が立って「ルピ閣下は、貴族アリも平民アリも無い。皆平等だと言われました。バロさんはお忘れですか?」

「フン。平民出身のアリが首相になったら、ロクなことがねえや」

バロは鼻先でセセ笑うと、高慢な足取りで立ち去った。

ピルは、バロの姿がバラ園より消え去ると、ためらうことなくバラ園の中に入って行行った。そして、再び像の前に立った。

女王様の像――確か、バロはこう言った。

しかし、どう考えてもアリの女王とこの像とでは、イメージが会わない。

(錯覚なのだろうか?)と、ピルが思った時「ホホホホホ・・・・・・」と、どこからか軽い笑い声が聞こえてきた。驚いて辺りを見たが誰もいない。

「――なんだ、空耳か」

「いいえ、違うわ・・・・・・」再び声がした。

「だ、だれだ。何処にいるんだ」

ピルは、つま先で立ってあちこちを見渡したが、やはり誰もいない・

「ホホホホ・・・・・・ここよ。あなたの目の前よ」

像がしゃべっていた。

「あれ? 君、しゃべれるの?」

「ええ、動くことも出来るわ」

「彫像なのに・・・・・・どうして?」

「あら? 私は女王アリよ」

「そんな馬鹿な。だって、君は人間の姿をしているじゃあないか」

彫像の女王アリは微笑した。

「あなたがここに来るのを待っていたわ」

「ぼくを、待っていた?」

「そうよ」

「どうして?」

「あなたを幸福にさせてあげたかったの・・・・・・」

「幸福に――」

「あなたは、美術館で私を気に入ってくれたわ」

「そうか・・・・・・やはり君は『湯の花』の像だったのか」

「さあ、私の傍に来て・・・・・・」

ピルは言われるままに女王像に近寄ると、今までに経験したことの無いような素晴らしい香りに包まれた。

女王は、ピルの手をそっと握ると上空の球状物を仰ぎ見た。

球状物は光を増しながら、ゆっくり下降して来ると、女王とピルを包み込み静かに移動を始めた。

そして、二百八十日経った時、球状物は「ポン」と、飛び散って「はっ!」と、田所は我に返った。木蓮の香りがした。

美術館の裏庭からは、子供達の笑い声が聞こえてくる。

田所は、アリの穴のほうに目をやった。黒い穴の入口で、一匹のアリが後ろ向きで大きな塊を運んでいる。

「自分に出来ることをすればいい・・・・・・」

田所は、アリに向かってつぶやくと、幸福な気持ちで秋の空を見上げた。

絹雲が幾重にも筋を引いて、キラキラと光っていた。






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女王 三崎伸太郎 @ss55

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