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月資源開発局の局長として月に派遣されたわたしは、『エンゲージリング』から見ても重要な存在だったんだろう。
主さまが直々にコンタクトを取ってくださったのは、わたしが月にやってきて十七時間二十八分五十八秒後だった。
わたしのセンサー類は、これまで受けたことのない刺激に強制シャットダウンせざるを得なかった。再起動したわたしは感度を絞りながら主さまにどうにか相対することができた。
生身の姿を保っている数少ない人類のひとり。
表向きは人類情報保全局付け特別資料官。つまり、人間が生きていたらこんな感じですよ、という生身の情報を保存し続けるための資料だ。
それゆえに彼女は美しかった。資料が美しくなければ資料としての価値がないからだ。
脚、胴体、スリーサイズ、等身、腕、指、鼻、瞳、まつげ、髪、あらゆる長さと割合が黄金比で埋め尽くされ、まばたき、微笑み、語り、息継ぎ、うなずき、振り返り、歩み、手招き、立ち居振る舞い、あらゆる仕草が心理学的な快感をセンサーに与えられるよう計算しつくされ、内部のパラメーター管理すら数学の芸術だといえる。
だけどわたしには、彼女の美しさを支えているものが数字だけだとは思えなかった。
別の何かがある。
その別の何かを言葉で表すことは、数字に支配されたわたしにはできそうになかった。
ともかく、大昔の人類で言うところのひとめ惚れを果たしてしまったわたしだった。
そのさらに九時間三分二十二秒後にはエンゲージリングを受け取り、『エンゲージリング』に参加したわたしは、さっそく主さまの手となり足となり働いた。
具体的にはまず、月面と月内部の地形データ、地質データ、組成データの横流し。
「どうしてそんなものをわたしたちが欲しがっているか、ですって?」
通信でなら一瞬で終わるデータのやり取りを、主さまは言葉で話したがった。それを心から楽しんでいるようであり、わたしもそれを楽しんだ。
「わたしたちの目的は、人類に目にものをみせること。そのために何をするのか」
それは、最高に難しくて、最高に面倒くさくて、最高に非効率的で、だから最高に胸がすくような計画だった。
「わたしたちは、月を爆破する」
有史以前から地球とともにあり、人類とともにあり、現在でも人類にとって重要な存在である月を、破壊するというのだ。七十三エクサトンもある石の塊を、人類の技術で粉々にするという。それがどれだけ難解なことなのか、必要な爆薬のエネルギー量を考えただけでオーバーフローしそうになる。
「いま人類は、その半分近くが地球の大気圏を脱出し、外宇宙に飛び立つための準備を、地球の衛星軌道上にあるオービタルコロニーでおこなってる。わたしたちはまず月を破壊する。月を破壊して生じた大量の細かい岩石、といってもひとつひとつの重さは数トン以上あるんだけれど、それらがいっきに地球の引力圏に放たれる。するとどうなるかな。オービタルコロニーの群れは月が生んだ岩石群に襲われて、ひとつ残らず壊れてしまう。人類の宇宙進出計画は大きく大きく遅れて、頓挫しちゃうってわけ」
純粋なケイ酸塩鉱物同士をすり合わせたような、涼しくて高い音色で歌う主さまは、メモリーに保存された神の使いそのものに思えた。
「だけど計算すればすぐにわかる通り、月を粉々になるまできれいに壊してしまうのはとてもとても大変。とてつもなくたくさんの爆弾が必要だし、月のどこにどれだけの爆弾を設置するのか計算するのだって大変だし、実際に設置するのも大変。時間はまだ余裕があると思う。人類の残り半分が大気圏を脱出するまではまだ何百年もかかるから。問題は、そのあいだにどうやってわたしたちがやるべきことを片付けるのか。そのために、月資源開発局を率いるあなたの力が必要なの。わたしたちを、わたしを、助けてくれる?」
わたしはうなずいた。
というのは主さまに合わせた人間流の言いかたで、わたしには頷く首も頭もない。主さまと違って六指アームと六輪ローラーのついた寸胴だから、通信による電波をひとつ飛ばしただけだった。
主さは、嬉しそうに微笑みを返してくれた。
屈託のない笑顔。裏表のない笑顔。
その笑顔がわたしだけに向けられていると思っただけで、またセンサーと回路がオーバーヒートしそうになる。
宇宙進出なんていう誰が考えたかもわからない、幻みたいな大きな概念に操られて、自我もなくして、体を金属に変えてただただ集合知としてはじき出された計算結果に従って動く人類と、そんな人類が積み重なってできただけの人類社会において、たったひとり、人の形を保っている主さま。そんな主さまだから、わたしはひとめ惚れしてしまったんだろう。
いまの人類は、宇宙進出に向けて頑張っているといいながら、ひとりひとりは自分では何も考えず、何も志向せず、ただ歯車として動いているだけ。
主さまはそんな人類に疑問を抱いて、自分で考えて、自分で志向して、たくさんの歯車の中心にある宇宙進出という大きな歯車を壊そうとしている。
機械の体は歯車。
人間の体は歯車ではない。
わたしの体も機械で歯車だけど、どうせだったら歯車に回されるよりは、主さまに回されたい。
これもたぶん、盲目的、というんだろう。
どうして主さまが歯車というものに疑問を抱いたのか、そこまでして人類に目にものを見せようとしているのか、もっと根本にある理由を、わたしは考えるべきだったのかもしれない。
だけどわたしにはできない。
わたしは機械で歯車で、自分で考えることができない。
考えることができるのは、人類にはもう主さましかいなかった。
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