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「長かったわね、今日まで」
主さまとわたしと『エンゲージリング』のメンバーはすべての作業を終え、地球の引力圏からあるていど離れた安全圏、人類情報保全局の管理コロニー、つまり主さまが表向きの根城としている小型コロニーに避難していた。展望室のパノラマは、月と、地球と、地球の周りにあるオービタルコロニーの列が一望できた。
「あなたと出会ってから、月を本当に爆破するまで三百年もかかっちゃった」
三百年、ただの人間にとっては途方もなく長い時間かもしれないけれど、機械になったわたしにとってはただ一秒を百憶回数えただけでしかない。定期的なメンテナンスを欠かさなければ老いる心配はない。
主さまだって、老いるどころかよりいっそう美しくなっていた。人類の科学力はこの三百年でも一応は進歩していた。その恩恵を一身に受けたのだ、主さまの体は。
「どうして、月を爆破するまでに三百年もかかったのか、あなたにわかる?」
月の構造計算と、爆破方法の選定と、その準備には、やはりそれなりの時間が必要だった。というようなことを、わたしは電波で飛ばす。
「違う違う。わたしたちのことではなくて、相手のほう」
相手、とはつまり、人類のことだろうか。
「そう。三百年前は人類の半分が大気圏を飛び出していた。残りの半分がさらに大気圏を飛び出すのにさらに三百年かかった。これって、おかしいことだと思わない? だって考えてみてよ。大昔の人類は、西暦一九〇三年に空飛ぶ機械を発明して、それから七十年もたたない西暦一九六九年に月まで生身の人間を送り込んだんだよ。それなのに、たった百億人程度の機械人類を宇宙に飛ばすだけでどうして三百年もかかったんだろうね」
わたしは否定の電波を飛ばす。考えることは、わたしの仕事ではないから。
「教えてあげよっか。お金になるからだよ」
人類は二百億人も存在している。その二百億人のほとんど、主さまやわたしたちみたいなのを除いたほとんどが、歯車として宇宙進出に向けて同時に回っている。
そのなかにはとうぜん指導者層みたいなものがあって、宇宙進出開発機構がその名前だった。わたしの表の顔である月資源開発局も、その機構の傘下に入っている。
宇宙進出開発機構はその名前の通りのことをやっている。現状を分析し、課題を設定し、活動方針を提示し、人員を割り振り、宇宙進出を進める。そこには当然お金の流れがある。そして、宇宙進出が頓挫しないていどに遅れれば遅れるほど、機構に入るお金は増える。
「つまりね、宇宙進出開発機構は、全人類にとって平等な宇宙進出を掲げて、全人類にとって平等な宇宙進出を進めていたんだけど、当然ひとりひとりの能力や環境や出身地は異なるわけだから、その全員を平等に宇宙に送るまでとんでもない時間がかかっちゃったっていうわけ。でもその計画の遅延を、人類平等だの、宇宙での差別は許されないだの、巧妙に論点をすり替えて至極当然正しいものだと全人類に刷り込んじゃったの。おかしいと思わない? 確かに差別はだめだし平等も大事だけど、計画の遅延だっていち組織には好ましくないものでしょ? よくないものを、それよりもっとよくないもので蓋しちゃったんだよ。人間がそれをするならまだわかるよ。欠陥だらけで妄想まみれの未来を共有しようとする人間ならね。だけど、宇宙進出開発機構は、人間本来の生きかたを忘れた現在の人類が作ってる組織なんだ。その組織に、欠陥だらけで妄想まみれの未来は許されないはず。つまり――」
わたしは肯定の電波を飛ばした。
「そう。計画がとん挫しないていどに遅れることも、実は計画のうちだったの」
そのほうが、お金が儲かるから。
「ひどいと思わない? 計画の遅延も、人類平等も、すべては自分たちのお金儲けのための口実にしか過ぎなかったんだよ。人類平等っていう大義名分を、分別なく換金してたんだ。こんなに汚らしい建前と本音もあったもんじゃないよね」
本音と建て前を使い分けるのは人類の宿命だと思う。主さまもわたしも、それぞれ表の顔と裏の顔を持っているわけだし。人類の脳みそが有機物から無機物に替わって、それらの使いかたはよりいっそう上手になった。
だけど宇宙進出開発機構のそれは、飛び抜けて汚れ切っていた。
人類にとって必要な善意を、自分たちの私利私欲のために利用していた。
そして以前のわたしは、そんなこと全く知らずに、宇宙進出という建前で、本音も何もなく歯車として働いていた。
そんななかで、主さまだけは違った。
宇宙進出開発機構の悪行に気づき、許さなかった。
人類に目にものを見せるというただそれだけ。本音も建前もなかった。
どこまでもまっすぐで、自分の意志に素直で、輝いている主さま。だから、好きになった。
主さまといっしょに月を爆破できるなら、これ以上の幸せはない。
「じゃあ、あと数分で月が爆発する。これが最後の見納めだよ」
あと数分、八分十七秒。それは、全人類の大気圏脱出に合わせた時間でもあった。
あと八分十七秒で主さまとわたしとエンゲージリングのメンバーと人類情報保全局員を除く二百億の人類がオービタルコロニーに入植し、月が爆発し、月の破片がオービタルコロニーに降り注ぎ、つまり……二百億人が死ぬ。
だが、それは、何か矛盾があるのではないだろうか。
二百億人が死んでしまえば、宇宙進出が遅れたあげく所持金まで絞られて、踏んだり蹴ったりではないだろうか。
「それは違うよ。二百億の人類だって、じゅうぶんな加害者なんだから」
わたしはさらなる情報を要求した。
「そうだね。わたしが人類に目にものを見せたいって話はしたよね。だけど、じゃあ、どうしてわたしがそこまでして人類に目にものを見せたいのかって話は、まだしてないよね」
肯定の電波を飛ばす。
「じゃあ、せっかくだしお話ししようかな。わたしの脳みそにはね」
主さまは握りこぶしから人差し指と親指を立てて、自身のこめかみに突き付けた。
「ある女の子の思考回路をエミュレートしてる。ややこしい哲学とか定義論とか能書きを別にすれば、わたしはいわば、その女の子ってわけ」
わたしのメモリーにもその情報は入っている。人間が生きていたらこんな感じですよ、という生身の情報を保存し続けるための資料なのだから、見た目だけでなくその中身も重要になる。中身とはつまり、人間らしい、ものの考え方。だが主さまが生まれた段階ではただの電子回路でそれを再現することは難しく、次善策として、ある女性の思考回路と、さらにはその女性の記憶情報をコピーして、処理装置のなかでエミュレートした。
それくらいは辞書的な情報としてだれでも閲覧が可能だった。
「必要な情報はね、そこじゃないの。わたしがどうやって生まれたか、じゃなく、わたしの頭のなかにいる女の子がどういう女の子だったか、っていうこと」
メモリーのなかにそんな情報はなかった。クラウドに接続してみるけど、そこにもめぼしい情報は見つからなかった。
「プライバシーだからね」
めっきり死語になってしまった単語を、主さまははにかみながらつぶやいた。
「でも、その女の子について話すことだってひとつだけ。大事なのはそこじゃないから」
主さまは月に視線を移した。あと六分二秒で爆発する月。
「わたしにはね、恋人がいたの」
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