愛の証にこの指輪を

多架橋衛

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「なかにいらっしゃい」


 待ちに待ったときがやってきた。


 わたしは脚部の六輪ローラーが変な駆動音をたてないようなるべくそっと、入室する。部屋は蝋燭の赤い炎、ホログラムや代替模型なんかじゃない本物の炎で埋め尽くされている。赤い熱と赤い光がわたしのセンサーをじりじりと焼く。中央にはようやく通れるだけの狭い道が黒く浮かび上がっている。蝋燭を一本も倒さないよう、ろうそくの熱で過敏になったセンサーへの刺激を何度も確認しながら慎重に進んだ。


 部屋の奥には大きな窓があって、三分の一くらいを月の銀色が覆いつくしていた。反対側の三分の一を、地球の茶と青が占める。

 真ん中は宇宙の黒。


 さらにその真ん中。

 何物にも染まらず、蝋燭の赤にも、月の銀にも、地球の茶と青にも宇宙の黒にも染まらない。


 真っ白。

 自身が真っ白な光を放っているんじゃないかというほど真っ白。


 それが、わたしたちの、わたしの、主さま。


 わたしは胴体前面の集光センサーがつぶれてしまいそうになって、その場に傅いた。

 主さまは、ほとんどの人類が生身を捨てて六指アームと六輪ローラーのついた寸胴になり下がったこの時代において、人の形を保っていた。タンパク質とミネラルの合成物質なんかではなくて、人類の粋を結集して造った、人工の体。だから、美しかった。


 細くて長い二本の脚で踊るように歩き、細くて長い五本の指でわたしを撫で、身にまとった白いドレスをはためかせ、空力なんて無視した体の凹凸で星の光を受け、放熱機能すらついていない長い髪をなびかせ、顔についた二つの瞳とひとつの口で笑いかけてくれる。どれもがいまの人類にとってはひどく非効率的で非常識で、だから、美しかった。

 何物にも染まらない、信念をひたすらに貫き続けているような姿が美しかった。


 とうとうわたしの球体関節が耐え切れなくなって、オーバーホール直前みたいにかすれた音を出してしまった。


「緊張しないで。さぁ、左手を」


 言われるまま、左の肩関節を八十度曲げ、肘関節を四十五度上げる。


 指先にやわらかいものが触れた。

 傷つけてしまうんじゃないかと不安になってしまうほどやわらかい。わたしの回路が焼き切れそうなほど緊張して、すべての動作をなんとかロックし、そうしているあいだに、六指アームの一本に、熱い、冷たい、硬いものが嵌められた。


 これがうわさに聞くエンゲージリング。

 この組織と同じ名前の物体、正しくは、この組織に名前をつける由来になった物体。


「エンゲージリングがどういうものか知ってる?」


 主さまは、主さまだけが出せる声で話す。それは誰にも出せない音。効率を重視しすぎてすべての人類がスピーカーすら捨て電波だけで話すなか、主さま特注の人口声帯でしか奏でられない歌。

 わたしは否定の電波を飛ばす。


「じゃあ、あなたがこれから永遠の忠誠を誓うものに、どうして『エンゲージリング』って名前を付けたか、知ってる?」


 わたしは否定の通信を飛ばす。

 もちろん、知っている。わたしのスタンドアロンメモリーが忘れるわけはない。

 いいえと答えたのは、これが儀式の一部だから。


 こうやってお互いに知っていることをわざわざ話して、聞いて、確かめ合うことが、人間の本来の生きかただったはずで、人間本来の生きかたを忘れた現在の人類に対するこれ以上ない反抗だから。


「人類がようやく文字を知り始めたぐらいかな。信頼しあった男女のあいだで、男性が女性に指輪を送ったんだ。あなたを守り養う力を持っていますよ、って示すために。女性のほうはそれを受け入れることで、愛を示したんだ。つまり契約だよね。これからいっしょに暮らしましょう、っていう。契約ってわかるかな。約束事のもっと厳しいもの。いまの人類には契約なんて存在しないからね。破綻するような計画なんて、最初から存在しないんだから。馬鹿だよね、人間って。脳みそが足りないから欠陥だらけで妄想まみれの未来を共有しようとするし、それが破綻したら足りない脳みそのせいなのに、自分の不備を隠すために契約なんてものまで結んでさ。わたしたちなら、予測も共有も計算と通信で一瞬なのに」


 わたしの指にはめられたエンゲージリングといっしょに、主さまはわたしの左手を両手で撫でまわしてくる。全然違う、ふたりの手。意志とは関係なしに効率だけを追求した機械の腕と、つぎはぎだらけの進化の末にたどり着いた不効率を意志のまま貫いた元生身の手。


「でもね、そういう馬鹿なことだから、わたしたちには必要なんだ。なぜって、自分たちのことすら忘れた人類に目にもの見せるために。わたしたちがわたしたちであることをちゃんと覚えているわたしたちが、自分たちのやりたいようにやっている人間が、ただの歯車の集合体になり下がった人類社会を壊しちゃうために。効率を壊せるのはそれを上回る効率か非効率だけなんだけど、でもいまの人類はもう行きつくところまで行きついちゃって、非効率でしか壊せなくなっちゃったから。だから、わたしたちは非効率な存在であって、わたしたちが非効率であることを忘れないために、示すために、わたしたちが同じ存在であることを、これからもいっしょに歩んでいくことを、非効率な方法で証明し続けるために、あなたはこのエンゲージリングを身に着けていなくちゃならない。作業にも邪魔で、普段のメンテナンスにも邪魔なこの指輪を着け続けなくちゃならない」


 わたしは肯定の電波を飛ばす。


「そんなわたしたちだから、『エンゲージリング』っていう名前はうってつけだと思わない?」


 わたしは肯定の電波を飛ばす。


 人類に目にものを見せるために。

 人類が人類であることを思い出させるために。

 わたしたちは、いまの人類が慣習から消去したような行為を平気でやる。

 目的を共有し最後まで完遂する意志を持ち続ける。


 その証明がこのエンゲージリングだった。


「ようこそ。『エンゲージリング』へ。その指輪を受け取ったあなたは、もうわたしたちの仲間よ」


 だけどわたしにとっては別の証明だった。

 わたしたちの考えとはずれてしまうけれど、その本義と、本来の人類にとってはむしろ正しいかもしれない。


 主さまへの、愛の証明だから。

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