靉靆
@purin1997
第1話
ただ、軽やかでありたい。
風をなぞるように、重さを、その体を縛る引力を、忘れたように舞い上がるひとひらの羽のように。
男の願いはそれだけだった。
広げた課題をしまい、参考にした書籍を元の場所に戻す頃には、図書館の中には男を除いた利用者は1人もいなかった。いつの間にか窓の外は薄暗く、空は紅く灼けて、滲むような夕焼け雲が広がっていた。前を通っても手元の小説から目を離さず、男に一瞥もくれない受付に、それでも軽く頭を下げつつ男は外へ出る。図書館を出るとすぐに広がる、傍にいくつかの大学の施設を携えた坂道は、それらが1つの滑らかな影絵になっているかのように、夜の影に染まっていた。そのせいで、背景のあかがねの空は、今まさに闇に染まりつつあるというのに、一際明るく見える。
こんなに時間が経っていたとは。男は、夜に近づいていく空を仰ぐ。眼鏡を一瞬額にずらし、無造作に目を擦る。今日は一日をこの図書館で過ごしていた。元々は、1週間後に控えている提出日のため、課題を完成させるつもりでいた。しかし、実際には、課題は三分の1も進んでいなかった。机の上で、ノートは常に開いており、いつでも書き込まれる準備ができていた。関連する本も、隣に寄り添うように広がっていた。にもかかわらず、男は、それらにめったに手を伸ばそうとはせず、携帯を開いたり、ため息をついたり、気まぐれに立ち上がってはあてどもなく歩き回ったり。とにかく終始、そんな時間の過ごし方をしていた。
駅までの道、闇に表情を隠したアスファルトを踏みしめながら、男はなんとなく沈んだ気持ちでいた。
昼には、卑しいくらいのぎらついた日差しを注いでいた太陽が、まさか同じものとは思えないような顔で、しとやかな紅色の光を纏いながら、街の向こうへと身を隠そうとしていた。まばらに浮かぶ、綿を引き伸ばしたような雲は、太陽に同調するかのように、その身を鮮やかな紅に染めていた。
男は、なぜ自分がこんな気持ちなのか分からなかった。特別に嫌な出来事があった訳ではない。大学に入ってから、当たり障りの無い毎日が続いていた。授業は指摘を受けない程度に聞き流して、課題があれば提出日には出した。
もしかしたら、何も考えなくても、自分の体は無意識にこの日常をなぞっていけるのではないか。そう思える程に、何も変わりなく、程々の毎日だった。問題はない筈だった。なのになぜなのか、男の心は、その前傾の胸から、今にも落っこちてしまうのではないかと思うほどに、重力を感じていた。
毎日、家に帰ってもやることは無かった。やりたいことも無かった。正確には、多少はあったのかもしれない。しかし、男の体は、それをする為にはどうしても動かなかった。男は暇つぶしに動画を漁る指先しか持っていなかった。面白くない動画も何個か、面白い動画も何個か。当たり外れを繰り返し、ある程度笑い、いくらかの心地よさを得たところで風呂に入る。寝支度を整え、なにかを思い浮かべることもなく寝る。そんなところだった。
空っぽだな。酔っ払いの声の響く居酒屋の前を通りながら、男は思った。空っぽだな。居酒屋のくもり窓からぼんやりと漏れた光が、男の右半身を淡く照らしていた。そのまま倒れ伏してしまいたかった。
この、空虚な重さを、抱えながら生きていくのだ。そんな予感がした。自分は変わらない。ずっと変わらない。
男は、自分が、今のまま変わる気がないことを重々分かっていた。今持て余しているこの気持ちを解消できる方法は、自分が変わる以外ないことも知っていた。しかし、それでも、心が潰れてしまいそうな今でも、それを変えようと行動をしようとしている自分を想像すると、まるで鉛を飲み込んだような気持ちになった。ふと男の頭に、灰色の空が浮かんだ。今にも雨が降りそうな、しかし、決めかねたかのようにいつまでも雨は降らない、どこまでも雲の低く垂れ込めた空。この空の下で生きていくのだ。自重に耐えきれず、こぼれ落ちそうな心を抱えながら。
街灯が灯る。汚れと指の油のついた男の眼鏡越しに、それは目一杯滲んで見えた。
靉靆 @purin1997
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