『イオ』
モニターの主は自らを『イオ』と名乗った。
それが本名なのか、偽名なのか、性別すらも分からない。ましてや、自称友人ときた。きな臭いことこの上ない。友人であれば、記憶を失った人間を前に、変な問答をする必要もない。手短に名前や今までの思い出など、あらゆる情報を教えて、記憶を戻そうとするだろう。友人と名乗るくせに、どこか初対面のようなやり取りには疑念しか湧かない。
「残念ながら、イオという友人に心当たりはない。記憶をなくしているから思い出せないのかもしれないが」
その言葉に、思うところがあったのかイオはカーソルを点滅させたまま、無言になった。忘れられていることに落胆しているのか、次の言葉を選んでいるのか。その沈黙の長さは、少なくとも演技めいたものではなく、イオ自身の葛藤から出ているようで、モニター越しとはいえ、イオが自分を騙そうとする悪人ではないように感じた。同時に、かつて友人だった男に「お前は知らない」と言われたら、誰だって傷付くだろう。その気がなかったとはいえ、イオとの関係性を知らないままに傷付けたかもしれないことに、少し罪悪感を覚えた。
「その、なんだ。付き合いがあったというのなら、この部屋から出してくれないか。近くにいるんだろう」
『それは_だめ_できない_』
カタカタ、と慌てたように文字列が走る。変換するほどの余裕がないことから、モニターの主にとって「自分の脱出」は好ましくないこと、どうあっても阻止しなければいけないことが分かる。それはそうだ。イオ自身閉じ込められているこの状況を驚きもしていない。ということは、攫った張本人ではなかったにせよ、監視役だか知らないが、片棒を担いでいる可能性が高い。悪意は感じないが、全くの善人という訳でもない。何か重要なことを隠しているような態度に、思わずこみ上げてきた怒りをぶちまけた。
「出来ないってお前、じゃあなんでモニターで話しかけてきたんだ」
『貴方が_きっと_困っていると_思ったから_』
「困ってるとかそういう問題じゃない。お前が何を考えているか知らないが、詳しく説明しないまま信じろというのは詐欺師と同じだ。信じて欲しいなら、姿を現すか情報を吐くかどちらかにしろ」
それでノコノコ出てきたり白状するなら、よほど馬鹿な詐欺師だが…。だからこそ、イオが間髪入れずに要求を飲んだことに、呆気に取られてしまった。
『わかった_』
『簡単な_説明は_しておこう_』
そして、モニターの主はこの状況について語り出したのだった。
*
イオによると、ここは病院のようなものらしい。病院にしては造りが妙なのは、最新のテクノロジーで、患者に余計な刺激やストレスを与えないよう設計されたもので(無駄を排除されすぎて、逆にストレスなのだが)、要は最先端の隔離施設ということらしい。
それも一般的な傷病者は受け入れておらず、記憶障害に特化したものだというから、にわかには信じられない。こんな、明らかに金がかかりそうな施設を建てようものならマスコミがこぞって取り上げそうだが。しかし、現に記憶喪失である自分には、このような施設があるという記憶すらなくて当然だった。記憶障害があるから普通の病院ではないここへ入院させられた、というなら一応の辻褄は合う。
「突飛すぎて信じられないが、今の話が本当だとするなら、お前はなんなんだ。医者か何かなのか?」
『私は_カウンセラー_のような_もの』
『だから_治療行為は_できない』
『期待していたのなら_すまない_』
やはり、イオ自身は医者ではなかった。どこか要領を得ない説明もそうだが、言動がやや素人くさい気がするのだ。病状や入院の経緯を詳しく語りたがらない胡散臭さもあるし、医者ならその辺りは患者に告げるものではないだろうか?一向に治療方針を決めようとしないのも、イオ自身にそういった権限がないと考えた方がいいだろう。
「そうか。なら、早急に担当医に引き合わせて欲しい。どちらにしても治療しなければ出られないんだろう」
『なぜ_』
「なぜも何もあるか。治療のための施設と言ったが、正直こんなところに閉じ込められて、どこの馬の骨とも知れない人間とモニター越しなんて気分が悪い。反吐が出る」
そこまで矢継ぎ早に捲し立てて、改めて自分がこの停滞した状況に苛立ちを感じていることに気付く。そうだ。これではまるで、檻に閉じ込められた実験用のマウスなのだ。今からどんな薬物を打たれるのかも知らず、それが自身の生命を奪うかも分からないまま…。治験のようにあらかじめ説明や報酬が約束されているならともかく、それもないままジリジリとその時を待つ焦燥感。出来るなら、身の危険が迫る前に壁でもぶち壊して逃げ出す方がマシだ。
モニターはまた黙りこくっている。都合が悪くなればだんまりか。その沈黙が、ただ点滅し続けるカーソルが、さらに焦燥感と怒りを加速させる。ギリ、と噛み締めた奥歯が軋んだ。
「何とか言えよ!さっきからはぐらかしてばかりで、気持ち悪いんだよ!どう考えたっておかしすぎるだろ!」
今まで冷静を装っていた仮面をかなぐり捨て、モニターに向かって拳を振り下ろす。何度も何度も。画面は割れることなく、ただ殴った拳がジンと痛むだけだったが、本当にもう限界だった。誰だってそうだろう。こんな理不尽…受け入れられる方がどうかしている。病気だなんだというのが本当だというのも確証がない。むしろ、ふと気を抜いた瞬間にそれこそ実験動物のように非道に扱われる…その展開の方が、何倍も現実味がある。
なおも、怒りと恐怖で荒れ狂うままに、拳を打ち付ける自分の遥か上方で、ふいに声が響いた。
『患者が一時的な混乱により興奮状態。制御不能のため、処置します』
それは、年若い女性の声。どこか聞き覚えのあるような…。イオではなく、別の医者なのか?ギクリと動きを止めたその刹那、猛烈な虚脱感に襲われる。鎮静剤か…?
徐々に薄れゆく意識に抗ってモニターを見据えたが、そこには動きを止めたカーソルがただ点滅し続けているだけだった。
*
白い小部屋で、彼女はフッと息をついた。強制的な手は取りたくなかったが、あそこまで興奮した状態が続けば、彼自身にどのような影響があるか分からない。幸い、鎮静剤が早く効いたため、今のところ脳波や心音も安定している。大事には至らず良かったと胸を撫で下ろしつつも、向けられた怒りに動揺して対処が遅れたことは事実だ。こうなるかもしれないことは予測できた筈だが、まさか記憶を失った彼があそこまで取り乱すとは思ってもみなかった。否、思いたくなかったのだ。今では患者なのだから、私情は抜かなければならないのだが、それでも自身に近しい者となると、ここまで葛藤するものなのか。
正直、自分が担当することには不安しかなかった。事故に遭ったという一報を受け、実際に横たわる姿を目にした時はショックで暫く動けなかった。なんで彼が。前日まで一緒に働いていた、言葉を交わしていた人間が、変わり果てた様になっているのを見て、激しく動揺した。そして、早急に処置が施されたこともあり、命に別状はないが、主治医によれば脳の一部が損傷していること、回復をしたとしても、記憶や人格に影響が残る可能性がかなり高いことを告げられた。今までのような生活に戻るのはほぼ不可能だろうということも。
彼女自身は彼を深く尊敬していた。それは初めて出会った時から変わることはなかった。知識の深遠さやあくなき探究心、努力や手間を全く惜しまない直向きな姿勢。どんなに成果を出したとしても、決して満足することはなかった。それ故に、周囲からは冷たい視線を受けることもあったが、彼はまるで気にせず、ただひたすら研究に勤しみ続けた。まさに研究者の鑑とでもいうべき人物だった。
そんな人物だからこそ、事故で失う訳にはいかなかった。否、目覚めて混乱し、人が変わったように振る舞う彼を見たくないというエゴもあった。それでも、道半ばにして研究という灯を失ってしまうことは、彼にとっては絶望そのものだろうと思った。だからこそ、藁にすがるようなものではあったが、回復が見込める手段があるなら、自分がその助けになれるなら、彼のように犠牲を惜しまず手を尽くしたいと願った。不可能だと言われたとしても、僅かな可能性が残っている限りは諦めきれなかった。
そうして自分は今ここにいる。
不安が消えた訳じゃない。手を尽くしても、やはり回復しないということもある。先ほどの彼とのやり取りを反芻する限り、やはり外傷による記憶や人格への影響は相応に認められる。彼への説明は避けたが、恐らく回復にはかなりの時間がかかるだろう。そして、治療の結果完全に元通りにならない可能性も否定できない。前例のない治療法ゆえ、全てが未知数。既存の治療法よりかは可能性が高いだろうというのも、仮説段階でしかない。そもそも研究途中で、実証実験などには至っていないものだ。人体実験のようなものだという彼の言葉は、まさにその通りだった。
「それでも、きっと先生なら同じことをする」
それだけは信じられる。後は自身と、彼の回復力に頼るしかない。
目を閉じて、研究室に篭る彼の後ろ姿を思い出す。不運な事故だろうが、決して先生の意思は奪わせない。その決意が、静かに彼女の胸に今一度火を灯した。
そうして彼女-イオは、モニターに視線を戻し、作業を再開した。
無という境界 水月 @jerryfish_lc
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